このブログでも何度も取り上げたように、近年の日本では賃金率が傾向的に低下してきた。その低下は、貨幣賃金率(名目賃金率)についても、物価指数を考慮した実質賃金率についても、生じている。また特に1997年、2001年、2008年と内外の強いショックが生じたときに、それらと同時に生じているという特徴が見られる。ただ2002年春から2006年春の「史上最長の景気回復期」とされている時期には、貨幣賃金率の低下はストップしている。とはいえ、この時期にも賃金率の目覚ましい上昇が観察されたわけでは決してない。よく知られているように、この景気回復期は、日本の輸出量・輸出額の対GDP比が顕著に増加した時期でもある。しかし、それでも賃金が引き上げられることはなかった。ただその低下にブレーキがかけられたにすぎない。この時期には消費支出(貨幣額)もきわめて緩慢に拡大しただけであり、決して好景気の局面が現れただけである。定義上も、景気回復とは、二期(3ヶ月×2回)連続してGDPが増加したことを意味するにすぎず、決して好況の時期というわけではない。
この、ほとんど日本でしか見られない貨幣賃金の低下という事情は、どのように説明されるのか?
安倍首相は、賃金の低下はデフレ(またはデフレ不況)が原因で生じたと発言したようである。この発言は単なる政治家、つまり経済学の素人の発言としては許容されるのかもしれない。しかし、それは経済学的には何も説明していないのも同然である。ほとんどの場合、経済現象は累積的な過程の中で生じており、この場合には、一連の過程は、デフレ(物価水準の低下)→貨幣賃金の低下→消費需要の低迷→デフレ(物価水準の低下)という循環運動の中の動きにすぎないからである。つまり結果が原因となり、原因が結果となる。経済学によくある堂々巡りの議論である。
この堂々巡りから抜け出す方法がないわけではない。一つは、貨幣数量説の立場であり、デフレ(物価水準の低下)を貨幣数量の減少によって説明しておく方法である。近年流行のリフレ論(インフレを起こせば景気がよくなり、賃金低下もやむという議論)は、この貨幣数量説に立脚することによって成立する。しかし、残念ながら貨幣数量説は成立せず、したがってリフレ論も成立しない。
貨幣数量説が成立しないという根拠は、現代の銀行システムや貨幣システムを知っていればすぐに理解できる。簡潔に説明しよう。そもそも貨幣量とは、市中銀行が人々に貸し付ける通貨(日銀券および預金通貨の量)のことである(ただしフローとストックを区別しなければならない)。それは基本的に人々の貨幣需要によって決定されるものであり、中央銀行(日銀など)が決定できるものではない。たしかに日銀は、政策金利の変更を通じて、また公開市場操作(日銀と市中銀行の株式等の売買)によって市中銀行への貨幣供給量に影響を与えることができる。しかし、そこまでであり、そこから先は人々の貨幣需要と市中銀行の貸付態度に依存する。
ケインズは、現代の貨幣的経済(企業家経済)においては貨幣は中立的ではなく、また中央銀行が恣意的に通貨量を決めることができないことを説明し、さらに貨幣需要は商品取引から生まれるだけでなく、資産取引のための需要とも関係しており、貨幣数量説が成立しないことを明らかにしていた。現代の貨幣数量説論者(マネタリスト)がケインズの経済学を煙たがる理由の一つはこの点にある。ケインズ殺し(「ケインズは死んだ」)または「ケインズ主義」批判が行なわれる所以である。しかし、多くの場合、ケインズ経済学の核心部分はほとんど批判されていない。彼らの多くはケインズの『一般理論』(1936年)を理解しておらず、その言説から判断すると、読んでさえいないようである。
堂々巡りから抜け出すための第二の方法は、この堂々巡りを生み出している制度的なしくみ・基礎(成長・蓄積レジームという)を明らかにすることにある。
このことを理解するためには、少なくともミクロ・レベルでの企業の価格設定(pricing)の方式、マクロ・レベルの「有効需要」の理論、両者、つまりミクロ・レベル(個々の経済主体の行動)とマクロ・レベル(国民経済全体のパフォーマンス)を繋ぐ「合成の誤謬」の理論設定を理解しなければならない。
現実の社会経済は、「複雑系」(complex system)であり、ミクロからマクロを説明する一方向的な理解だけでも、またマクロからミクロを説明する一方向的な理解だけでも、不可である。それらは相互依存的な関係にある。仏教哲学的に表現すると、「縁起」(相互依存的生起、depenent-rising)とでも言えようか。もちろん、ここでは仏教哲学を解説しようというわけではない(念のため)。
(1)企業の価格設定
欧米では早く(最初の調査は、1920年代)から企業が「フルコスト原則」または「マークアップ方式」という価格設定方式」にもとづいて価格を設定していることが知られている。(詳しくは、故・宮崎義一『近代経済学の史的解明』(有斐閣)を参照のこと。)
この方式は、現在でも欧米の企業によって行なわれていることが一連の調査によって確認されている。詳しくは、ブラインダー(S.Blinder, Asking about Prices, 2006)やファビアーニ(Silvia Fabiani, et al, Pricing Decision in the EURO Area, Oxford Unversity Press, 2007)を参照。
この方法には様々なバリエーションがあるが、基本的には、製品一単位あたりの費用をあらあら計算し(目の子算を行い)、それに利潤を実現するための一定比率(マークアップ率)をかけるというものである。この比率を企業がどのように得ているのか、という点については、カレツキ(M.Kalecki )の「独占度」の理論があり、また企業は類似の製品を生産する他の企業の価格設定を参照していることが知られているが、さしあたり、この点の説明は省いておこう。ブラインダーやファビアーニの研究は、また企業はひとたび設定した価格を変更することを好まないことを示している。その理由は、価格を引き上げた場合、競争相手に市場(顧客)を奪われるという恐れにあり、価格を引き下げた場合、利潤および利潤率が低下する恐れがあり、いったん引き下げた価格をもとに戻すことがきわめて困難であると想定されることにある。少数の巨大企業が市場シェアーのほとんどを占める寡占的市場が特徴的な現代では、価格は通常最大手のプライス・リーダー(price-leader)によって設定され、他の企業=プライス・テーカー(price-takers)によって受容される傾向が強いことも関係している。
その際、費用の中で最も本質的で重要な項目が人件費(賃金)であることは言うまでもない。そして、どの国でも労働力の価格、つまり賃金率は硬直的(sticky)であるという特徴を持つ。これに対して、新古典派の(市場均衡の)経済学では、通常、賃金は弾力的とされており、労働の供給曲線は右上がり(つまり賃金率が高いほど、労働供給量=時間は増加する)であり、労働の需要曲線は右下がり(つまり賃金率が低いほど、労働需要量=時間は減少する)である。しかし、これは市場均衡理論を導くために想定された、現実離れした仮定であり、現実には賃金率は硬直的である。
要するに、現実の世界では、商品価格も賃金率も硬直的である。これが現実の経済の姿である。
それでは日本ではどうであろうか?
日本では、2000年に、つまりデフレ傾向が現れ、賃金率が低下しはじめてから2、3年後に日銀によって行なわれた調査がある。この調査は、欧米における企業の価格設定行動の調査に連動して日銀が行なったものである(日本銀行調査統計局「日本企業の価格設定行動ー「企業の価格設定行動に関するアンケート調査」結果と若干の分析ー」『日本銀行調査月報』、2000年8月号)。
この調査からは、次の二つのことが明らかになる。
第一に、日本でも欧米と同様に、企業はマークアップによって、また同業他社の価格設定を参考にしながら、価格設定を行なっていることが明らかにされている。これは日本と欧米の企業の価格設定行動の類似性を示すものと言えそうである。
第二に、しかし、日本企業は、1991年にはじまる平成不況の中で、また1997年にはじまるショックの中で、価格を引き下げる戦略を実施した(過去形)ことが明らかにされている。実際には、日銀の調査報告書は、小渕政権の財政支出拡大策によって可能となった景気回復の中で、2000年頃に企業がなるべく価格引下げをやめたいという意向であることを強調しようとしているが、そのこと自体、1997年以降、企業が価格を引き下げることによってショックに対処してきたことを示している。これは、むしろ欧米の企業とは異なる価格設定行動を示すものと言えそうである。
しかし、そうだとしたら、日本企業のそのような価格設定は、どのようにして可能となったのであろうか?
先ほどの説明から明らかように、価格の引下げは、製品一単位あたりの費用が一定である限り、マークアップ率の引下げによってしか実現しない。しかし、その場合には、(あくまでミクロの視点から見る限り)利潤および利潤率は低下することになるだろう。
そのような利潤の低下を防ぐ手段は、人件費(賃金)の引下げしかない。
しかるに、かつてケインズが述べたように、労働者は(インフレによる実質賃金の低下は受け入れても)貨幣賃金の引下げには頑強に抵抗する。
ところが、日本企業にとって、人件費を削減するためのとっておきの手段が存在した。それが日本経済の「二重構造」として昔から日本の労働問題研究者(社会政策学の研究者など)にはよく知られていた制度的特徴である。
日本には横断的労働市場がない。これが日本の労働問題研究者が一致して認識していた制度的事実である。しばしば日本的労使関係として知られている年功制賃金体系、長期雇用(終身雇用ではない!)、企業内職業訓練(OTJ)などは主に大企業に当てはまるものであり、小企業・零細企業には当てはまらない。また大企業の内部にも、非正規雇用が存在し、それらの従業員の賃金率(時間給)は正規従業員のおよそ5〜6割程度だったにすぎない。二重構造が存在し、それら2つの労働市場が分断されている。これが「二重構造」である。
しかし、低賃金の非正規雇用は、それが一家の大黒柱の生計を補充する役割を演じていた限りにおいては、大きな社会問題となることはなかった。家計にとって基本的な所得が確保されている限りにおいては、例えば主婦のパート・アルバイトによる所得は、ありがたい所得源だったに違いない。
しかし、1990年代になると、その様相は決定的に変化しはじめる。日本企業が人件費の削減のために、非正規雇用を利用しはじめたからである。これ以後、低賃金・非正規雇用は以前にもまして大きな問題となりはじめる。
ここで、次の点を指摘しておくのは、無駄ではないだろう。それは、正規雇用と非正規雇用との間にある賃金率の格差、およびそれがもたらす所得格差の規模である。この点で、無批判的に欧米の労働制度を賛美するわけではないが、東アジア(日本および韓国)における両者間の大きな格差(不平等)に注目しないわけにはいかない。
もちろん、日本の古くからの「二重構造」だけが問題であったというわけではない。グローバル化(輸出競争、生産拠点の海外移転など)が進展するなかで、世界的に賃金の圧縮圧力は強まっており、ILOが派遣労働(agent work)を承認し、日本政府が法認したことを認識しなければならない。しかし、日本の場合、「二重構造」がその傾向を強めたこともまた明らかである。
(2)合成の誤謬ーー賃金圧縮の影響
次の問題は、個々の企業による賃金圧縮が社会全体で合成されたとき、それが経済にどのような影響を与えるかである。(以下、続く)
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