2019年3月28日木曜日

ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』 第一章 古い秩序

 今日は、第一部、第二章「古い秩序」の一(タイトルなし)のみ。
 例によってつらつら書くと、すでに訳出されているヴェブレンの論文でも、ときどき気になるものがある。その一つは、関係代名詞の訳である。
 例えば、 a child whose father is dead は、
 「父親のいない子」「父親を亡くした子」などとなろう。が、中には「その父親が死んでしまったところの子」式の訳文を載せているものがある。
 もちろん、誤訳とはいえない。しかし、 数行もの長い複雑な文章の中で、「その~ところの」が出てくると、「その」は何を指示しているのか、すぐに読み取れないことが多い。
 そのようなときには、原文の文章を想像し、「その」が何を指示しているかを頭の中で確認しなければならない。当然ながら、いらいらする。
  また the knife with which I usually cook なども、
「私がいつもそれをもって料理する包丁」式などは「不可」で、「私がいつも料理に使う包丁」などとするべきだろう。
 
  今回は、最初から悩ましい文が続く。
  The state of the civilization, and of the state of industrial arts, into which the remote ancestry of the Northern Europeans may be said to have been born ...

 「その」は入れたくないし、思い切って日本語らしくしようとすると、原文との距離が感じられるし、・・・。ということでそのまま直訳に。
 ともかく、syntax の著しく異なる言語をまたいで翻訳するのは「労多く益少なし」。
 


T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年) 続

第二章  古い秩序

 一

北ヨーロッパ人の遠い先祖が生まれついたと言ってもよい文明と産業技術の状態は、新石器時代初期――北ヨーロッパにいくつかの証拠を残している石器時代の最初期の段階――である。ヨーロッパの旧石器時代は存在しない。というのは、これらの後のヨーロッパ諸民族を生み出した雑種の住民が形成される前に旧石器時代は終わっていたからである。その上、その痕跡は、この交雑した人種の住民が生活し、移動し、生存を達成した生息地のどこにも事実上ほとんどない。ヨーロッパ全体について見てさえ、旧石器時代と新石器時代の間に文化的な連続性はなく、また人種的な連続性も皆無ではないとしてもほとんどない、と考えられる。新石器時代は、ヨーロッパにおける発展に関する限り、(旧石器時代と)無関係に始まり、おそらく第四紀末にヨーロッパに地中海人種が侵入したとき、その侵入的な文化としてやって来たと考えられる。ヨーロッパの新石器時代につながる発展の初期段階は、ヨーロッパの領域外で、新石器時代の担い手がこの片隅に浸透する前に、仕上がっていた。
それゆえに、ある意味で、この新石器時代初期の生活術の状態が北ヨーロッパ諸民族にとって生まれつきのものと言えるかもしれない。このような命題が、この文化をヨーロッパにもたらしたと考えられる地中海人種の場合に妥当するかどうかは未解決の問題として残されていよう。それはここでは直接に興味をひかない。同様なことが、新石器時代初期に東方から、おそらくアジアからやって来たと見なされており、また同様にヨーロッパの地に分け入る前に新石器時代の段階に到達していたと考えられているアルプス種族についても当てはまる。ヨーロッパに侵入した時点で存立していたようなこれらの人種のどちらも、また両者合わせても――身体的であれ精神的であれ、やがて北ヨーロッパの海岸地帯で新石器時代の技術に助けられて増加し、いまだに生計を見いだし続けている北ヨーロッパ住民の祖型を提供するという意味では――北ヨーロッパ人の先祖とは見なされない。
これらの人種のそれぞれがこの先祖を生み出すのに貢献していることは疑いない。彼らは両者とも初発から、またはほとんど初発から、交雑した北ヨーロッパ住民中に存在しており、また明らかに常にこれらの民族の人種構成の少なくとも半分を占め続けていた。しかし、長頭金髪の種族が他の二つの種族と混交し、(その結果)この地域を新石器時代から連続的に占拠し、かつ今も住んでいる諸民族を北ヨーロッパに植民した特定の雑種の種族を生じさせるまでは、北ヨーロッパ人の先祖が事実上成立したと言うことはできない。これらの民族の人種の歴史は、これらの人種型のどれか一つから別々にではなく、この三つのつながった種族から構成された雑種住民の歴史である。それゆえに、その構成に必須な三つの人種要因がつながって来るまで、それが始まったと言うことは適切ではないのである。
新石器時代の環境下にあるバルト海と北海の気候地域で生存し、また自分たちの居住地をあらゆる来訪者に対して守るのに適しているという適者選抜試験は、三つの構成要素の種族に対して別々に適用されることはなかったのであり、したがってその三つの種族の各々の最終的な適性試験ではなかった。試験と、その実験から引き出される結論とは、三者が本質的な構成要素となっている構成された住民に適用されるだけである。数千年間を通じた選択的な増加の間にその三者の構成要素型のどれも当該地域のどこでも、他の二者またはそのいずれをも追放せず、また人種型のどの一つもいかなる時点でも三つの雑種の子孫を追放しなかったのであり、明らかにそれが事実である。少なくとも間違いないのは、これらの住民はこの長い期間を通じて雑種的な混交であり続けたのであり、また一方、混交の性格は、この交雑した住民が北に向かうほど金髪が多く、南に向かうほど黒髪が多いという風に、また初発の機会が平等だとしてさえ、長身・黒髪(地中海)の住民が他の二つの構成種族のどれよりも、この特別な気候地域内の北部と南部の両方で、少ないという風に、位置的に変わってきたことである。
この論旨を補強するような対照例としては、このバルト海・北海地域に近いところにあるどの国からでも説明のための事例を引き出すことができよう。この地域の雑種住民は、ここでもまた、ほとんど絶え間なく境界を壊し、力ずくで他国に移住し、そのためこれら他民族との交雑によって混血してきたた。しかし、彼らは、その実験がまったく確実となるのに十分な時間を持っていた場合には、どんな場合でも、先住民を排除し、移住時にいた(先住)人種を自分たちの人種構成に変えてしまうような結果をもたらし、民族の人種構成を作り変えることには成功しなかった。――少なくとも北部の雑種を作り上げることになる人種的要因の一つ(長身金髪)は、やがてすべての場合に、その要因を取り入れたこれらの周辺住民から選択(淘汰)によって消え去った。そして複合的な北部の住民は、その複合的な性格では、バルト海・北海の地域外に住むのに適さないことが判明し、それと同時に、その複合住民は複合せずにはこれらの地域を保持するのに適さないことが判明した。
また純血種であれ混合であれ、集団移動であれ浸透であれ、異なった人種に由来する侵入住民は、この地域から北部の雑種を追放することに成功しなかった――たとえばバルト諸国、とりわけ淘汰の過程によって金髪雑種民族に属することとなった当該地域の北部と北東部へのフィン族(ラップ族)の侵入のような実験がかなりの規模で試みられたにもかかわらず、成功していない――。少なくともフィンランドの事例では、またそれより不確かだが、北と東に向かう他のところでは、侵入者の開始は初期住民の言語にとって代わるほどにずっと成功したが、長期的には、住民の人種構成は実質的にフィン族が来る前の状態に逆戻りした。そのため、バルト海の二つの海岸の間には知覚できるような人種的相違は現在ない。
その上、初期のバルト文化は、実質的にすべての北ヨーロッパ人の本来的に慣習となっていた生活様式の状態を示すものとして興味をひく。実際、この文化はこれらの人々に生得的だと言ってもよいかもしれない。この文化は、証拠から見られる限りでは、長期間にわたって――バルト住民の文化が提供した生活様式に適合していることを試すのに十分長く、また同時に外部の他の人種的要素や集合体との接触にさらされてきたため、これらのバルト諸民族の特有の雑種混合が、その技術的な基礎にもとづき、自らの置かれている地理的および気候的条件下での生活にどの競合的な住民より適していることを明らかにするほどに十分長く――ほぼ順調な経過をたどってきた。証拠が許す限り、この文化期の特徴と顕著な出来事を要約的に繰り返すことは、その主張の正しいことを証するであろう(2)
総じて、バルトの石器時代は比較的小規模――小規模な農耕システムとその後の混合農業システム――に描かれた地理的状況に置かれた相対的に進んだ野蛮時代と特徴づけられるかもしれない。それはおそらく野蛮の比較的低い段階と呼ぶのが適正かもしれない。この二つの代替的な用語のどちらがよいかについては議論の必要はない。それらはともに技術的に有効な記述的用語というよりはむしろ示唆的なものである。そして同じく大雑把な名称の青銅器時代がやってくるが、それは全体としてより大きい技術的効率の登場とより大きい富の蓄積によって――またおそらくより定住的な生活慣習によっても――特色づけられるということに注意する必要がある。


(1)例えば、A.H・キーン『過去と現在の人類』第九章を参照。
(2)注Ⅱ、291ページ参照。【ページは、原著のもの】

新石器時代の住民は、その期間中、またその領域全体を通じて、耕作と牧畜に利用できる土地が決めるままに、地表に分散した決して大きくはない規模の開放的な定住地に住んでいたように思われる。これらの定住地が村落にまとまっていたか、それとも開放的な国土上にゆるやかに個別世帯に散らばっていたかは、確かでない。しかし、いずれにしても町の証拠はなく、大きい村の証拠もなく、要塞の痕跡や天然の防御場所を好んだという証拠もない。武器の相対的な少なさ、そして――利用できる証拠によれば――どんな形の防御的な甲冑もまったく欠如していることと関連してとらえると、この無防備な定住地の分布は、おそらく平和な生活習慣がかなり広まっていたという示唆を伝える。ただし、資料が示さないこと、またおそらく示すことのできないことを考慮に入れるように適切な注意を払えば、この文化が特徴的に平和的なものであったという状況証拠を無視することはできない。またすでに上段で示した考察に照らしてみると、必然的に、その住民が概して平穏な気質を持っていたであろうということになろう。石器時代だけではなく、それに続く青銅器銅を通じて同様の状況が続いており、また状況証拠もある程度の一貫性をもって同じ結果を示している。特に後期には、いくつかの場所で人口分布をいくぶん詳しく跡づけることができ、地形に従って最も実用的な浅瀬と道路を考慮したことが示されており、これらの浅瀬や道路の多くはいまだに使われている。


(3) デンマークの土地におけるきわめて多数で広範な台所ゴミ――廃棄物の堆積(貝塚)――は大きい定住地がなかったことについての疑問を提示するかもしれない。貝塚の初期の調査では、その規模がかつてこの場所を占めていた定住地の規模と存続期間をほぼ示すことがいくぶん単純にも自自明と受け取られていた。この問題のもっと後の、より批判的な取り扱いは、明らかに次の結論に達している。すなわち、とりわけ後に増加した貝塚の多くについては、これらの貝塚が主な関心と永住地とを遠く離れた内陸の耕地に求めていた住民によって海岸上の場所の季節的な占取によって形成されたものだったということである。一方、もちろん、貝塚が同時に恒久的な漁村のしるしだったかもしれないことも否定されていない。



2019年3月26日火曜日

ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』 序文

 2年ほど前から、アメリカの制度学派経済学の創設者、T・ヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の日本語訳をすすめており、昨秋になって漸く粗訳ともいうべきものができた。
  ご存じの人も多いかも知れないが、ヴェブレンの文章はなかなか難解である。

 難解な文章といえば、私は、20年ほど前に4人の共訳でマックス・ヴェーバーの「ロシアの外見的立憲制への移行」論文の翻訳にたずさわっことがあり、それは名古屋大学出版会から『M・ウェーバー ロシア革命論Ⅱ』(1999年)として出版されているが、この翻訳にも結構てこずり、4人の共同作業であったにもかかわらず、企画から出版まで10年を要した。ヴェーバーの文章が息の長く屈折した文章だっただけでなく、実際に帝政ロシアに生じた出来事に精通していないと正確に訳出できないような部分が多々あり、結局、ヴェーバーが利用したロシア語文献のほとんどすべてに眼を通すという作業をしなければならなかった。文献には、著書以外に雑誌論文、新聞記事、統計、法令などがあり、いま思い出してもかなりの時間と費用がかかり、それだけ自分自身の研究を犠牲にしなければならなかった。ともあれ、ヴェーバーが一年ほどで書いた論文(長大だが、「論文」である)をその10倍の時間をかけたことになる。
 しかし、4人が年に一度は集まり、議論を交わしたことが、訳文の作成に大いに役立ったことは間違いない。

 ヴェブレンの文章を理解するのは、このヴェーバーの場合とは若干異なる難しさを伴っているように感じる。一応訳出してみたものの、なかなか readable な日本語にはならない。中には、例えばある箇所の imputation というたった一語の単語の例のように、それが何を意味しているか、何回も異なる辞書を引き、前後の段落を読みかえしてみても、適切な訳語が見つからないという場合もある。
 もちろん、例えば people の語のように、「人々」「人民」「国民」「民族」など様々に訳すことのできる単語もあるが、これは大きな難問ではない。
 翻訳は普通にできて当たり前、誤訳や不適訳があれば、きびしく指摘される。別に別宮さんに特別に取りあげてもらわなくても、そうである。何のためにやるのかと聞かれれば、社会科学のためにというしかない。

 とりとめもない話しになるが、かつて名古屋付近のある私大で教えていたときのこと、学生の書いた卒業論文を読んでいて、比較的流麗な文章の中に意味不明の文が混じっていることに気づき、当該学生が研究室に来たとき、問いただしたことがある。その学生も意味を説明することはできず、しかし、人(専門の研究者)の本を写してはいないと主張する。私が本当のことを言いなさいと優しく言うと、しぶしぶ某書の写しであることを認めた。
 たまたま、私はその本の原著を持っていたので、確認すると明らかに誤訳であり、原文ではきちんと意味が取れる。
 忖度するに、欧文を日本語に翻訳する作業はかなりの集中力を必要とするため、一日に一定量以上の作業をすると、注意力が散漫になり、自分自身がきちんと理解しているかどうかにかかわらず、仕事を先にすすめようとしてしまうということはよくあることである。これが少なくとも誤訳・不適訳の原因の一つであろう。



 ともあれ、粗訳終了から半年近くたっても、文章の推敲は遅々として進まない。
 しかし、幸運なことにというべきか、ある大学の紀要に最初の部分の抄訳(6章までの翻訳)があることがわかった。先人の翻訳があるということがとても役に立つということが身にしみて感じられる。もちろん、大いに学ばせていただいた。そして拙訳の多くの問題点を知ることができたように思う。
 しかし、たとえ誤訳とか不適訳とかいわなくても、翻訳する人の好みや傾向がそこに現れることがあり、それが当方のものとかなり異なる場合もある。この場合もそうである。

  以下、少々考えるところがあり、序文からはじめて少しずつ紹介してゆくことにする。もちろん、訳文はまだ未完成であるが、せめて一週間につき一章くらいは作業をすすめてゆくように、自分自身のリズムをつけるためでもあり、またいわばある種の強制力を働かせるためである。 特段誰かに読んでもらいたいわけではない。
  
  ということで、以下に、ヴェブレンが1915年に発表した『帝政ドイツと産業革命』(1915年)の試訳を少しずつ載せてゆく予定である。
 1915年といえば、第一次世界大戦が始まった翌年であり、その一方の当事者がドイツ帝国であったことは言うまでもない。
 ヴェブレンは、そのドイツとドイツ国民がいかにして近代的な産業技術と科学を樹立しえたのか、科学的・客観的に説明しようと試みた。ちなみに、ヴェブレンはまた日本についても同様の関心を持っていたが、そのことは既にこのブログでも紹介している。
 



     T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)


序文
 
ここでは、ドイツ帝国の事例とそれが近代文明に占める位置を検討するが、このような戦時らしからぬ研究をこの時節に提供することについて、いくらか釈明をしなければならないように思われる。本論文は、現在の戦争が始まる前に企てられたものである。ただし、その後に続いた出来事の様相とが疑いなく研究のいくつかの点で議論のむかう特定の方向に影響を与えている。それゆえ、本研究は、論議されてきた国際紛争の特徴とも、また交戦国の力の比較やどちらかが成功するかという可能性にもかかわりない。その目的は、一方のドイツの事例と、他方の英語圏の諸国民との比較と相互関係というあまり論争的でないものであり、近代における文化的な発展の二つのはっきりしており、またいくぶん多様な線として考察される。研究をすすめるための土台は、いずれの場合も結果を具象化してきた経済的な、主に産業的な状態の与える環境である。
本研究は、ドイツの産業的発展と高い効率性を、顕示的な運命とか、神のネポティズム、国民的な天賦の才などといった議論に頼らずに、自然的原理によって説明することをめざしている。それはこれまでになされた近代経済史におけるこの話――記述または賞賛とは異なる――の説明の最初の試みであると考える。ただし、もしゾンバルト教授の『一九世紀のドイツ国民経済』がそのようにみなされないならば、としておく。この時期についてのゾンバルト教授の研究を別とすると、多くの学問的で巨匠的な研究が何らかの見地から事実の進展を示してきたとはいえ、この帝政時代とその産業的事情の発展の理論的な研究としては何の成果も現われなかったと考えられる。
  ここでは、もちろん、政治的にせよ経済的にせよ、この時期の歴史についての情報(知識)を与えるつもりはない。また議論のための資料として利用された歴史的な情報(知識)は普通のよく知られたありふれた類の、あるいはすべての読者が利用できる標準的な冊子からとったものである。そのため、必要と思われる特別な機会には、論述する点に関連する引用と言及を行なったとはいえ、出典と諸大家の包括的な引用のようなことはしないでおいた。ここでの議論は、慣習的に書かれてきたように、歴史の流れに沿っており、難解な資料や詳細な精密さには偏らない。
たしかに英語の読者にとって、古い秩序に関する章は一部難解な情報(知識)にもとづくように見えるかもしれない。このトピック(話題)にかかわる議論は、古アイスランド語で残されている古い文献のかなり徹底した直接的な知識に加えて、バルト地域の考古学のある程度の知識を前提している。それは出典の引用が大いに読者の助けとなるような事ではない。文書史料の詳細な目録およびテキストの一節も、この領域の博識なる専門家の手中でさえどんな有用な目的にも役立たないように思われる。というのは、この資料をここで用いる目的が当該文献の全体のかなり長く、全面的な知識を十分に持っていることによってしか役立たないようなものだからである。ゲルマン民族の、また彼らに先行する先祖のより早い時期の文化が、これらの考古学的、文献的な古代遺物の中にそのように現われており、かつ近代に特有の特徴を示すための対照条件として、またそれらの事例の先祖帰りのどんな潮流であれ必ず向かうことになるこれらの諸民族の文化的な出発点を示すものとして、利用される。
英語圏社会の事例にタイトル・ページの表題が正当化できないほどの大きい注意が払われているように見えるかもしれない。ここでもまた、現在のドイツの産業上の状況がイングランドの状況から派生したものであり、また大英帝国でなされたような産業技術の過去の発展の帰結であるという事実はもちろんのこと、比較の尺度が必要となるためにそう決めることとした。そのために英国社会の過去の産業発展とその帰結になんらかの考慮が必然的に払われることとなったのである。
19153


第一章 序説 人種と民族

民族学の事情に精通していない人々の間では、ヨーロッパのいくつもの国民を別々の人種のように語るのが通例となっている。公文書や慎重な歴史家でさえこの観念の混乱を免れてはいない。これらの用語のそれぞれにどのような区別があるのかを文脈から理解しようとするのはしばしば困難であるとはいえ、この口語的用法では「人種」が「国民」や「民族」の同意語と正確に考えられているわけではない。それらは大雑把に、また暗示的に使われており、疑いなく大抵の目的にとっては、議論に妥協や混乱をもたらさしていないようである。そのため、それらの口語的な用法に必然的につきまとうような一定幅の誤差を許すこととし、たとえ口語的な曖昧さがあろうとも、これらの用語を便利と思っている人を満足させる以上にもっと正しい定義やもっと明確な用法を考えることはせずに、それらを使われている通りに理解するのが理にかなっているように思われる。
しかし、これらの用語、そしてそれらの実質的な同義語として役立っている他の用語法には一般的に曖昧さがつきまとっており、そうした用語を用いる議論の多くにある一貫した混乱をもたらすような意味の相違がある。「人種」は、他のどんなことを示すと見なされようとも、常に、特定の集団中の遺伝的な特徴の共通性を意味する。それは遺伝的な特徴がその集団の構成員となっているすべての個人にとって本質的に同じことを意味する。「人種」は生物学上の概念であり、それが適用されるところではどこでも特定の型を所有し、またその特定の集団の全構成員に特有のこの型を特徴づける特質を伝える先祖にその集団全体が由来していることを意味する。例えば「国民」または「民族」といった他の用語は、一般的に「人種」と交換可能なものとして用いられているが、それらが当てはめられる集団のそうした生物学的な同一性(連帯)を必ずしも意味しない。とはいえ、それらの用語を使う人々の心の中では、共通の出自という観念が疑いなくゆるく存在している。
こうした用語の口語的用法では、これらのいくつかの民族または人種と主張されているものを区別することがまったく無批判的には国境線にもとづくことを許されないときに常に頼りにされる識別のしるしとなるのは言語共同体である。そこで、ある型の言語に慣れていることが人種の由来の伝統的なしるしの務めを果たすことになる。ある習慣の(事実上の)同一性が遺伝的な能力の同一性を意味するものとみなされる。そして、この問題を論じる多くの歴史家と著述家は、多様な慣習スキームを識別的に比較する以外に本質的な事についての根拠がない場合には、気質、知能および体格といった遺伝的な特徴にかかわる広い範囲の一般論を導いた。もちろん、一つの民族を他の民族から区別するこのような慣習の相違は、充分に重大な事かもしれないが、それらの範囲と影響は、結局、まったく別の性格のものであり、人種の型の相違というよりは文化的な成長の中にまったく別の位置と関連とを有するものである。
例えば言語が例証するように、いかなる社会でも、その中で有効となっている制度スキームは、習慣の性質を持ち、必然的に不安定であり、またなかなか変化しないとしても、時がたつにつれて必ず抑えようもなく変化する。一方、どんな人種の種族型も安定的であり、その型を特徴づける精神的および身体的な天賦の才という遺伝的な特徴は、人種の一生涯にわたり不変で損なわることのない生物学的遺産のはずである。習慣と遺伝という二つの観念間の細心の区別が人間行動の全研究の知識(認識)のはじまりであり、この二つの混同は歴史学、政治学および経済学の問題における最近の流行りの著作の論争的な魂(小さな非難の応酬)に多くに責任を負っている。また、もちろん、議論に伴うショービニズム(排外主義的愛国主義)の負荷が大きいほど、その組織的な大失敗の結果も大きく全面的なものとなった。
もしドイツの事例の研究が人間諸制度、その本性と原因の研究に影響を及ぼす理論的な一般化の目的に役立つならば、その事例の安定的で永続的な性格の諸要因と、変動的な諸要因を区別することが必要であり、それと同時にどんな要因がドイツ人の事例に特有なのか、また他のどんな要因がドイツ人の事例と必然的に比較されることになる隣人達に特有なのかを考慮することが必要である。これらの二つの特徴がかなり一致することも時に生じる。人種の遺伝という安定的な特徴の点で、ドイツ人は隣接する民族と、知覚できるほどに、または一貫して異なるということはない。一方、最近までドイツ人がさらされてきた環境の点だけでなく、過去の習慣化の性格の点でも、つまり、彼らの文化的スキームでも、ドイツ人の事例は少なくともある程度特異である。この国の住民がヨーロッパ全体の住民と異なっているのは、受け入れられた思考習慣――慣習――の事象にあり、また最近彼らの習慣スキームをさらに形成した諸条件にある。
これらの問題を取り扱ってきた歴史家と著述家の間で広まっているこの点に関する混乱や無知を見ると、若干の冗漫を犠牲にしても、ドイツ人の人種的な様相に影響を及ぼしているある有名な事実を復唱することが必要に思われる。ドイツ人全体を全体として考えた場合、人種の問題に関係する限りでは、これらの事実について議論は決着している。ヨーロッパ人種問題の研究者たちは、「祖国」(ドイツ)の領域内でさえ、人種的な要素の地方的な置換、移動および浸透という難問をいまだに取り上げており、また疑いなく将来も長らく取り上げるであろう。しかし、ここでの目的にとっては、これらの難解な細部の問題に頼ることはほとんど必要ない。かりにもっと詳細ならば便利かもしれないとしても、すでに確実な意見の一致が達せられてきた事例の一般的な特徴を越えてまで、現在用いるのに必要とされることは何もない
私たちが、歴史的、論争的および愛国的な著作の中で、一般的に使われているような(ドイツ人という)名称を説明句やさしさわりのない語句なしに利用できるのは、言語の境界線がほぼドイツ領の政治的国境と一致すると考えるようにシフトすることができる限りにおいてである。そこで、その名称を帝国および帝国のドイツ語を話す人々――ドイツ民族――として示すものとして受け取り、またそのときどんな相違点をも見落とせば、例えばユダヤ人またはドイツ化したポーランド人およびデンマーク人のようなドイツ住民に浸透した要素をまったく含めた後でさえ、そのように指定された総体が別の人種として語られることはない。ドイツ人とは、ヨーロッパの非ドイツ人に対立するものとしても、それ自身の内部にあるものとしても別の人種ではない。これらの両方の点で、この住民の事例は、ヨーロッパの他の諸国民の事例と本質的に異ならない。これらの事実はよく知られている。
隣国の人々と同様に、ドイツ人も完全に、また普遍的にハイブリッド(雑種)である。そしてドイツ人を構成する雑種混合は、ヨーロッパ住民全体の構成に入る同じ人種的要素から構成されている。その雑種的な特徴は、おそらく、もっと南に位置している諸国の場合におけるよりも顕著である。しかし、ドイツ人と彼らの南の隣人との間のような雑種化の度合いの差は重大なものではない。他方、ドイツ人の場合は、この点で事実上、すぐ東と西に横たわる諸国民の場合と同じである。
  より詳しい考察のためには、補足ノートの一、二八一ページ以下を参照。
 
 人種の点では、南ドイツの住民は、北フランスやベルギー隣接部の人口と本質的に同じである。また同じ点で、北ドイツの住民は、西方のオランダとデンマークの住民と、また東方の西部ロシアの住民と本質的に構成を同じくする。また「祖国」(ドイツ)全体を取ると、その住民は、人種についてブリテン島の住民と本質的に同じである。この混交した住民の広範囲にわたる帯状地域内における細部の地域的バリエーションは、疑いなく知覚できるが、結局、どの国でもほとんど同じ性格のものであり、どれ一つをとっても、東部、西部および中央部ともに同じ結果に帰着する。全体的にみると、つまり言い換えると、イングランド人、オランダ人、ドイツ人および大ロシアのスラブ人の間に大きな人種の相違はない。
 国民的な優秀さと卓越性に関して一般に行われている解説では、純血種のドイツ人種、ゲルマン人種またはアングロ・サクソン人種が存在するものとして語られるとき、やがてその文脈は、それを謳う者の観念の中にあるものが――もし確実な生物学的範疇があるとすれば――長頭金髪(ドリコ・ブロンド)人であるという見方に入り込む。ところが、いまや、人種の純粋性という不都合な主張にとって不運なことに、この特別な人種の種族はそれと結びついている二つの他の人種(短頭ブルネット人と長頭ブルネット人)の種族のどれよりも混交せずにみいださることが少ないということが生じる。実際、近似的にせよ、他の人種的な要素を含まずに純血種の金髪人からなる、大なり小なりの、広まりのある社会はないことをまったく確実に確認することができる。
 私たちはさらに確実に先に進み、血統の点で混交していない金髪系統に属する個人がヨーロッパの住民中に見いだされることは決してないと主要な問題にすることができるだろう。また純血種の金髪人がかつてヨーロッパのどこかに存在したと信じる合理的な可能性も、利用できる証拠もない。また、確実性の程度は少し小さいかもしれないが、他の主要なヨーロッパ人種の純血種の実例について、同様の主張をしてもよい。
人種的な特徴の多様性は、これらの諸国民のそれぞれの内部できわめて容易に見て取れる。ドイツの場合には、こうした多様性は北と南の間でよく言及されている。また全体をなすと考えられているこれらの諸国民相互を差異を作り出す相違は、制度上の種類のもの――遺伝によって相続できない獲得された特徴の相違、本質的には習慣化の相違――である。しかしながら、この側面については、ある民族性と別の民族性との乖離は大きいことがあるかもしれず、普通は組織的な性質のものである。そのため、人種型の乖離がないと言ってもよいもしれないのに、文化型の相違がかなり大きいこともありうる。
これらの諸国民の雑種的構成はさらにもう一つの関連で彼らの性格に影響を与え、それはおそらく同じ度合いではないとしても、文化の成長に対する重要な結果をもたらし、同時にほぼ同じようにヨーロッパのすべての諸民族の運命に影響を与えている。これらの諸民族の雑種的構成の結果、これらの個々のメンバーは、生得の能力と素質の点で、どんな純血種の人々の場合に当てはまるよりも多様性に富んでいる。そのため、これらの民族はそれぞれ、交配されなかったならば、そうなったであろうよりもずっと大きい性格の多様性を示している。身体的な側面では、機械的な方法で計測され、比較されうるような特徴の点で、それぞれの民族の内部におけるこの相違の大きい範囲と複雑さは――身長、色、体重と解剖学上の大きさで――十分に明白となっている。しかし、それはまた人類計測学的な統計にあまりなじまない(精神的および知的な)特徴を疑いなく構成しており、また同時にそれらの特徴を有する民族の運命にとってより大きい結果をもたらすのである。どんな文明体系の基礎ともなり、またその生活史および一連の変更を生じさせる土台となる素材を提供するのはこれらの心理的な特徴――精神的および知的な傾向、能力、素質、感受性――である。人々がその能力の範囲を越えたり、範囲外にある文化体系を創出することができないのは、もちろん、いわずもがなの事である。また同様に、多くの多様な能力を賦与されている住民を持つ国民が、そのために、その一生涯に起こる緊急の必要に対応するのに適しており、どんな求めにもより迅速に応答することができることも当然のことである。より大きく、より完全な、より多様な、そしてより十分に均衡のとれた文化体系は、まずまずの環境下では、単一の特定型にきわめて忠実に育つ諸個人から構成される社会よりも、このような(多様な)人々の中に見いだされるだろう。

  雑種の遺伝を支配すると考えられているメンデルの法則の下では、二つ(あるいは三つ)の異なった型の種を交配した子孫は、その双方(または三方)の祖先に含まれる二倍(または三倍)の範囲の決定要素、すなわち「要因」の間で可能となる実現可能な組合せとほぼ同数の変異によって変化しうることになることは明白である。すなわち、ある型の純血種は、子の個体(zygote)の成長の間に、その型の構成に含まれるいくつかの決定子に対するストレスの変化に応じて、その型の狭い範囲内で変化するのに対して、他方では、交配した個体が変化するのは、そのような成長中のストレスの相違の結果(先天的に獲得された性質の変異と呼ばれるもの)によるだけではなく、遺伝した性質の変異と呼ばれるものであり、その双方(または三方)の先祖の二倍(または三倍)の側に由来し、――型の構成に含まれる決定子の一つの――数のほぼ二乗(または三乗)に達する様々な性質の多数の組み合わせによって変化すると想定されている――ただし、実現可能ではないような組み合わせ(これは二つまたは三つの親の型が多様なほど多数となる)組み合わせを除外し、また子世代がきわめて広範囲の変異を見通すほど十分に多数であると常に考えての話である。そのような場合の極限の変異は、どのような方向であれ、どちらの親型の極限的な範囲をも越えるかもしれない。それは一つの側に由来するある決定子がその群(tissues)の集団に影響を与える別の側の決定子によって強められるか抑制される(おそらく後者の方が多いだろう)ことがありうるという事実による。

このような雑種の住民はまた、もちろん、その特有の欠点を持つことになる。気質と性質の多様化は、その能力と素質の多様化と同じく広範に及ぶことになる。そして一つの側面における達成の多様な波及効果をもたらす不安定さは、他面でいらだちと異論、理想と念願を多大に産み出しやすい。よかれあしかれ、それが西洋の諸民族の先天的な構成であり、また思い出すに、それが西洋文明の歴史であった。
また一方で、この点で、これら西欧諸国民は、生来の賦与の範囲と雑多な特徴の点で、今日もかつての新石器時代のままであるということも念頭においてよいだろう。多様性の範囲は、諸国民それぞれにおいても全体でも、どんな純血種の種族内にあった場合よりもきわめて広い。しかし、今日これらの国々に居住する雑種世代間では、それは、かつてその初期の時代にこの西欧文化を担った同じく雑種の諸世代ほどには広くなっておらず、またどのような知覚できる程度にも異なっていない。この広範囲の遺産は、結局のところ、新石器時代の遺産である。そして、後の時代の西洋諸民族の文化体系がどんなに多様であり、生き生きと多様なように思われるとしても、その流れは、結局のところ、その新石器時代の源より高くなることはない。この文明を構築し、先に進めた住民は、結局のところ、その性質の欠点を授けられており、新石器時代の性質を持っているのである。

2019年3月4日月曜日

日本の「雑種性」(hybridity)について T・ヴェブレンと柳田国男(1)

 DNA多型の分析が20世紀末に発展したが、これによって現生人類がアフリカ出自の homo sapiens の一族であることが確認されるとともに、現在から6~7万年前に出アフリカを果たした人類の一団とその子孫たちが現在までに世界各地に広まるとともに、突然変異により多様化したことがほぼ完全に明らかにされてきた。つまり『水滸伝』ではないが、人類は皆兄弟姉妹である。
 また多様化といっても、DNAの中に存在する遺伝子の99%以上は同じなのだから、相違はごくわずかだが、そのわずかな相違が外見上の相違と関係しているらしい。
  父系で伝わるY染色体の遺伝子と母系で伝わるミトコンドリア遺伝子の多型は、それぞれハプログループに分かれ、さらに各ハプログループがサブグループに分かれる。
 この多型の分析からも、例えば日本人が「雑種」であることが判明した。いやすでに明治時代からそう主張されていたが、疑問を持つ反対の人(学者)もいて確定していなかっただけだっということができる。しかし、今や、それは仮説ではなく、間違いのない事実として考えなければならない。
 「日本人」の場合、先住者たる縄文人が弥生時代に東アジア(主に現在の中国と朝鮮半島)から渡来した人々と混交し、「倭人」が生まれ、8世紀末以降に「日本」の国号が定まるとともに、民族的に一体であるという意識が生まれ、強くなってきたもののようである。しばしば、縄文時代や弥生時代についても、「日本人」という用語を用いる人が専門家の中にもいるが、便宜的に「日本列島」に住む人々という意味で使うならともかく、彼らが「日本人」という意識を持っていたと考えるなら、それは誤りである。
 
 Y染色体やミトコンドリア多型の分析から、縄文人(の少なくとも一部)は、現在チベットに住む一群の人々とハプログループを同じくし、また渡来系の弥生人が現在の中国や朝鮮半島の人々の相当部分とハプログループを同じくしている。今から2~3000年前のそれらの先祖が現在と同じ地域に居住していたという保障はないが、どこかの時点で、またどこかの場所で分かれことは言うまでもない。それは大いに興味をひくところである。
 また先住者(縄文人)の居住していた場所に、外部からの渡来者(渡来人、渡来系弥生人)がやってきたならば、両者の混交・同化がどのようになされたのかが、一つの大きい学問的研究対象となってしかるべきであろう。
 
 実は、この点は、すでに明治から現在に至るまで多くの研究者によって研究されてきた。その研究史を概観するだけでも大変な作業であり、ここでは私の書棚にならんでいる乏しい例だけをいくつか挙げておこう。
 鳥居龍蔵『全集』の諸論考(考古学)
 喜田禎一氏の諸論文(歴史学)
 柳田国男『山の人生・遠野物語』(民俗学)

 江守五夫『婚姻の民俗』、『中国小数民族の婚姻と家族』(民族学、家族史)
 上田正昭『渡来の古代史』Z(歴史学)
 谷川健一『日本の神々』(神話学)

 埴原和郎『日本人の起源』 (人口史)
 
 このうち、柳田国男の「山の人生」は、「山人」と呼ばれる人々に関する伝承を収録したものであり、一読しただけでは、先住者と渡来人との混交・同化を研究の主題としているようには見えない。しかし、「山人考」と題する講演では、明示的に先住者と渡来者とがどのように混交したのか、その痕跡を民話・昔話に探るという主題が示されている。
 柳田の意見では、両者の混交は、長い時間をかけてゆっくりおこなわれたのであり、先住者(とその子孫)はほとんどが渡来人(渡来系弥生人)に同化されたとはいえ、--
その程度はともかく--あまり同化されていない人も残されており、それが「山人」の伝承・話に記録されているのではないか、という。
 
 私の出身県の新潟県では、「山人」の話は、江戸時代の『北越奇談』 (1770年代) と『北越雪譜』(天保6年)の中に出てくる。
 これがどのような内容なのか、またそうしたことがヴェブレンとどのように関係しているのは、次回以降にまわすことにする。
 
                             (続く)

 
T・ヴェブレン(4)

 最後は、ふたたび日本。
 日本の政治家たちは、第一次世界大戦中にドイツに対する期待(ドイツが敗戦し、大国として復活することはないという展望)を失い、敵対的な態度を取り始めた背景(冷静な、抜け目のない計算)を示す。
   
 The New Republic, Vol.XI, June 30, 1917 に掲載。


日本人はドイツに対して希望を失う

  日本軍が協商国を支援してヨーロッパの海域に送られることとなった最近の動きは、ドイツの最高司令部と協調して、またドイツの大義の究極的な勝利のために実施されるべく計画された計略ではないと想定すると、ヴェルダンへの攻勢の失敗以来のヨーロッパにおける最も辛酸で得心のゆくエピソードである。辛酸というのは、ドイツの見地から見てのことである。たったいま語ったように、それがベルリンの疑似東洋的政治術と歩調を合わせて東洋の政治術によってなされた計略ではないといつも想定すると、それは極東の帝国の政治家たちが今日まで説明を投げ出し、ヨーロッパの参戦国をもてあそび、敵対的態度を終わらせるか、それとももっと追求しながら適当な段階における帝政ドイツとの同盟の機会をあけておくことによって天皇制日本にとって得るべき利益はないと結論したことを明白に示している。天皇制日本は、ドイツとの攻撃的同盟の事実上の利用による日本の外的な利益が(日本のさらなる拡大のスキームに対する協商国の側における敵対的態度の確実性に対立するものであり)もはやまじめに注意するに値しないという確信に明らかに達した。

 極東の見地によって生じ、帝政(天皇制)体制に対する将来的な損得の点でまったく冷静に評価される長期的で冷静な展望から見ると、ヨーロッパの戦況は必然的にやがて「代替的な利用」という大問題となるだろう。日本の政策を統御してきた保守的な、すなわち帝国主義的で反動的な政治家たちは、ドイツに対するどんな回避できる攻撃も避けるべきと一貫して考えてきた。抜け目のない帝政の政策ならば、幸運な時局が生じるときにはいつも、現在の敵対関係が終わるともに協商国の中で生じると期待されている脆弱さと崩壊の時期の間に生じるどんな利益でも得るために、ドイツおよびその追随者との緊密な同盟を交渉することもまた明らかである。しかし、そのような政策は、ドイツ帝国が現在の困難から本質的に完全に抜け出すはずだと想定している。完全に、というのは、少なくともプロイセンの政治家の支配と政策の下にあるドイツ帝国としていまだにビジネス(商売)をする程度による。日本軍の現在の動きは、恥知らずな政治術のあらゆる達人の中でこうした最も抜け目のない、最も冷淡な、そして最も警戒するべき者がドイツ帝国軍にとってきわめて幸運な結果の機会がまじめに考慮するに値するにためはいまや小さすぎると決めたことを示すように思われるだろう。換言すれば、それは、日本の帝政政治家の理解では、しばらくして引きなおされるヨーロッパ地図にドイツ帝国が現れることはないことを意味する。またそれは、彼らの理解では、たとえ天皇制日本の軍隊がドイツ帝国とその同盟者の側に無制限に投入されるとしても、この辛辣な運命に救済策がないことを意味する。この推測からはまた、この日本の「代替的な利用」の勘定にそのような結論を与えたのは、アメリカの参戦かもしれないことが示される。

 

 

 


T・ヴェブレン(3)

 ヴェブレンはまた、戦争全般の問題に、また直接的には、当然ながら第一次世界大戦に深い関心を寄せていた。


 戦争、軍事への訴えは、国内の困難を「愛国心」(patriotism)に訴えることによって対外的にそらすための(「不在所有者」にとって)有効な一手段である。これは、『近時における不在所有 アメリカの事例』でも一つのテーマとなっている。しかし、戦争は結局のところ社会に利益をもたらさず、人々の負担を重くする。そして、その負担は、最終的には社会の「基礎的な人口」(つまり今風に言うと99%の人々)に転嫁される。
 しかし、かつてない多大の混乱と破壊、欠乏、負担増をもたらした第一次世界大戦の後の「休戦」の事態にあっては必ずしもそうではない。しかも、文明諸国民(欧米諸国)の政治家たちは、ここで「ボリシェヴィズムと戦争」という運命的な選択にせまられた。そしてジレンマのどちら側に立つにせよ、財産を持つ人々にとっては、「小さな慰め」にしかならなかった。このジレンマを深く分析する。
  
 本論文は、The Freeman. Vol. VIII, May 25, 1921 年に掲載された。



ボリシェヴィズムと戦争との間で(T・ヴェブレン、1921年)

 平和が戻ってから、文明諸国民は、ボリシェヴィズムと戦争との運命的な選択に直面することになった。これまで公式の声明はこの事態を認めてこなかった。また公的な新聞もこの皮肉な運命について論評せず、公的な演説者もそれに注意を払っていない。それは疑いなく事物の性質――公的新聞と公的演説者にかかわる事物の性質――の通りである。もちろん、それは不愉快な事態であり、人はそれを見逃したいと思っている。そして、それは高名な政治家が解説するこのとのできないようなジレンマをなす。そのような政治家は、どちらかに立たねばならず、自分の財産を楽観主義の表明にゆだねなければならない人にとってはジレンマのどちら側に立ってもわずかな慰めしかない。
 だが、それなりに情報を得ている人になら、ちょっと考えただけで、主要な事実は明らかであろう。それは、事実上、休戦に続くこのかすかな平和に含まれる皮肉な運命性の中で最も大きく、最も明白な事実である。またボリシェヴィズムとそこなしの戦争の間の決定の箇条に立っているこれらの諸国民の中では、もちろんアメリカがその他の文明人とならんでやってくる。おそらくは、いくつかの諸国民のように無謀にではないが、他のいくつかの諸国民よりもはっきりと瀬戸際にあって。
 文明諸国民がそのように直面しているのは、二つの代替的な政策路線の間の自由選択の問題ではまったくない。それはむしろ環境の変化の問題である。いまはまだ事件の外的な進展が明瞭でないため、まだそれは代替的な種類の行為の間に公然たる選択のように見える。さしあたり推移は戦争に向かっているように見える。しかし、見える推移は、主に、これらの様々な国民における当局によって作成されている政治家らしい策略の推移である。むしろそれから基礎的な人口の間の感情の長期的な推移である。
 政治的な策略の推移を方向づけるか、それに従うことを自分の義務的な特権としているこれらの政治家たちが彼らのかく直面している邪悪な選択を公的に承認しなかったという状況は、おそらく政治家らしい沈黙のせいであろう。政治家術は、事物の性質上、必然的にひそかなものとなる。それは政治家たちが自分の取り扱わなければならない状況の中の主要な事実を全体的に無知で知らないということではまずないだろう。検閲を受けた新聞派遣員のほのかに宗教的な光からさえ、これらの主要な事実を概略的に見ることができる。情報源がすべて当局の恣意にまかせられている一方で、適切な事実を知しることが公的な圏内に慎重に保たれている。実際、基礎的人口が彼らの事柄を管理する役人たちの信頼を失ったことは明らかである。そのため、徹底した民主主義的な諸国民の中でさえ、政治家のようにふるまう役人は、適切な事実を当局に知られないようにすることを賢明なことと考えている。したがって、この点に関する政治家らしい役人の密かな沈黙が彼らの側におけるどんな程度もの無知を示すと考える理由はない。また彼らの様々な提案およびすでに取られた方策は、政治家たちが暴くのは都合が悪いと考える多くの適切な事実があるということになる。それゆえ、政治家らしい策略の眼にみえる推移がボリシェヴィズムに対する相殺として戦争の方向に一貫して向かうことはとりわけ意味深いことである。
 「ボリシェヴィズム」というのは粗雑な記述的用語である。そしてここでは、一般的な語法以上に正確な意味を与えようとせずに、そのように使うことにする。一般的な語法は、まだこの言葉によく定義された意味を与えていない。しかし、実際にはそれはこの言葉を使用する人の間では、粗雑かつ一般的に理解するのに十分なほどはっきりしている。この広まっている用法では、この言葉は、少なくとも既存の経済的スキームに代替するような種類の革命運動を常に示す程にはっきりした意味を持っている。この点を超えると、ボリシェヴィズムを支持する人と反対する人の間に合理的な意見の一致はない。それは思うに、古い経済体制にかわる新しい経済体制の平和的な交代を意味するかもしれず、それとも暴力に訴えることを含むかもしれない。それは状況による。しかし、いずれにせよ、ボリシェヴィズムは、ある点で既存の法と慣習の転覆を含むという意味で、法の外にあり、法を侵犯している。
 いずれにせよ、ボリシェヴィズムは、事物の既存体制と和解できず、紛争点は経済的な性質のものである。それらの最低の用語に薄めると、これらの紛争点は単一の項目の下にまとめられうる。つまり不在所有権の禁止である。この主要な項目に上では、ボリシェヴィズムと既存体制との紛争は和解不能であり、考えれば、マイナーな紛争点のいずれもこの主要な論点の項目から生じるということがわかるだろう。いまのところ、ボリシェヴィズムがこの一つの行動原理より他の一般的な原理を含むと想定する包括的な根拠はない。ボリシェヴィズムの経験はまだその精神がこれと同じほど広い関連の何かを有する他の行動原理を要求するかどうかを示すか、明らかにする機会を持ってこなかった。事実上、それはこの一つの大きな不在所有権という制度を捨てる運動であるように見えるのであり、この不在所有が文明諸国民の経済生活を支配しているのである。それゆえ、事実上、それは不在所有と基礎的人口との紛争であり、そこでは当局が不在所有制の諸権利の保護者として登場する。当局は既存の法と秩序の保護者であり、それが現存する条件の下では当局を不在所有の正当な権利の擁護者の地位に置く。
 それゆえ、今までは、行動原理については、ボリシェヴィズムのどのような実際的定義も、当面のところ、どんな同意がそこから出てこようとも、不在所有を捨てるというこの一つの性格づけしか含まない。しかし、方法、またはやりかたと手段の点で、ボリシェヴィズムはソヴェトに関与している。ソヴェトの組織形態がボリシェヴィズムの精神を鼓舞するこの行動原理を作り上げる指定された方法と手段のように見える。不在所有はソヴェト以外の他のなんらかの組織および統御形態によって廃止されるかもしれないと考える考えることができる。しかし、他のなんらかの統御方法にそのように頼るのは、ほとんどボリシェヴィズムと呼ばれないだろう。またソヴェト的行政形態に頼ることによって不在所有を廃絶することは、ボリシェヴィズム以外の何かと呼ばれうることはほとんどないだろう。
 不在所有者を奪うそのような運動では、ソヴェトはまた民主主義と代表制政府にとって代わり、必然的にそうであろう。というのは民主主義と代表制政府は、不在所有制の保証と優遇的な調整を超える他の目的にとって無能であり、不適切であることがわかったからである。民主的用法と法的解釈は近時にそのような展開をとげた。そのため、ボリシェヴィキ体制が成立するやいなや、議会政府と民主的適法性はそれらの存在理由を失うに至ったのである。
 その要素において、ソヴェトはニューイングランド史で知られている町集会にきわめて近似しているように見える。この言葉の辞書的な意味は、「集会」、「評議会」である。しかし、自己正当化された町集会にその権限内で不在所有制のすべての事項を請け負わせておけば、明らかに革命的な刷新、法と秩序の転覆となるだろう。
 ボリシェヴィズムのこの特徴づけは色彩なく、不毛のように見える。またそれはその味方にも敵にも適さないだろう。それはただわずかな修辞的な意味を持つにすぎない。弁護者も批判者も同じく彼らの聴衆の人間的な感受性をいらいらさせることになる用語を使用する。彼らにとっては感情的な問題、あるいはまたいわゆる道徳的な問題を提起することが必要である。そしてその使用のために、称賛し非難するのに与する用語が必要となる。しかし、ここでの目的は称賛でも非難でもないのであるから、色彩のない記述的な性格づけしか求められていない。また文明的な諸国民の政府がいま直面している政策選択の中で戦争に代わるものとして設定されているのが、この客観的な意味におけるボリシェヴィズムである。またボリシェヴィズムを戦争の持続および戦争の準備の唯一の代替物として語るとき、ボリシェヴィズムが必然的に平和を意味すると主張するつもりは毛頭ない。
 この単純で客観的なボリシェヴィズムの定義を設定する理由は、一部は不要な警戒を避けるためであり、一部はボリシェヴィズムをよく知られた無政府主義者、または正統派社会主義者、または完璧な共産主義者の態度と混同するのを避けるためである。ボリシェヴィズムと不寛容な共産主義者との相違は十分に明らかである。しかし、注意不足で厳しい批判家がボリシェヴィズムを社会主義者と混同し、そうすることで両者を一緒くたにけなすこと、とりわけ社会主義者の信用を地に落とすこも稀なことではない。しかし、ボリシェヴィキも社会主義者も両者が本質的に似ているとは認めないだろう。実際、正真正銘の社会主義者は、まったく理解できるように、ボリシェヴィズムの堅固な敵である。より厳格な順守の社会主義者は、人間世界の連鎖を支配する自然法の力によって、あらゆる所有制、不在所有制が終局的に老いて朽ちることを一貫して主張する。そして彼らは、ボリシェヴィズムがその正統的な想定を狂わせ、古臭くするという腹の立つ認識に到達しつつある。社会主義は死んだ馬である。一方、ボリシェヴィズムはそうではない。そして公認の社会主義者は残されたものの中の特定の譲り渡すことのできない持ち分にとりつかれるが、そのすべてが隣人的な気分の助けなるわけではない。社会主義者は既存の政治組織を手つかずに維持し、最終的に自分たち自身の受け継ぐのを期待していた。ボリシェヴィキは、そのような幻想を保持していないように見える。
 不在所有を廃絶するための運動以上でも以下でもないものとしてのボリシェヴィズムという無造作な性格づけは、それに賛成および反対の党派によって疑問とされやすい。またそれは権威ある出典からの章句から引用して容易に根拠づけることができない。伝わってきたボリシェヴィキの文書は、普通、不在所有を彼らの親しからざる注意の特殊な対象として語らない。またボリシェヴィキの実践は、この項目についてまったく首尾一貫していなかった。ボリシェヴィキの実践は、またおそらくボリシェヴィキの告白は、必要性の極度の協調によって推進される一連の揺れ動く妥協と便宜に従ってきた。そしてまだ全体としてボリシェヴィキの政策の推進は、結局明らかに、変化する条件の強調が許すような多くの一貫性をもってその方法を設定してきた。一方では、その直接の使用者による有益な財産の所有がきわめて確かにボリシェヴィキが作成しているようなボリシェヴィキ政策の統合的一部であり、まったく不可避的にそうであることがますます明らかになってきた。また他方、ボリシェヴィズムの敵対者が敵対者であるのは、それが不在所有の諸権利を否定するためであり、実際の他の理由によるものではないことも、同様に明らかである。
 ボリシェヴィズムは、不在所有にとって脅威である。それがその許されない罪である。しかし、それはまた既存の法と秩序の精霊に対する罪であるだけ、十分に道徳的な罪である。不在所有を禁止すれば、事物の既存の経済的および政治的秩序の基礎をなぎ倒すことになるであろう。よくもあしくも、それは既存の法と慣習の秩序を破壊し、ヨーロッパ文明の現今の局面を終末にもたらすことになろう。そのすべてがすべての文明諸国民において当局が代表するすべてのものを冒す。それは基礎的な人口の側からの当局に対する反乱となるだろう。彼らの事務所によって、当局は、不在所有の指定された保護者である。これらの文明諸国民のいずれにおける当局のケアと注意をいまだに集めている他のどんな利害も、この主要な問題にとってまったく副次的である。そしてどんなそのようなマイナーな利益も、この国民の有力市民の主要な問題に従属しつづけるだけで、公的な保護と公的な忍耐力をいまだに効果的に求めることができる。これは、あらゆる民主的な国民において近年形成されてきたような民主政府の性質から、またその民主的政府が承認されている用語の意味の範囲内で民主的である程度において、必然的に生まれる。有力市民とは多くの財産の不在所有者である。歴史的現在においては、民主的政府とは有力市民のための、有力市民による、基礎的人口の政府である。一方、ボリシェヴィキ政府とは――もしそれがあれば――あらゆる現在の民主的用法に違反して――非力な市民のための、非力な市民による基礎的住民の政府となるだろうと、言われている。それゆえ、遠かろうが近かろうがボリシェヴィズムの性質をもつ人々の運動を、正しくとも不正であろうとも、あらゆる手段で抑圧することがこれらの民主的諸国民の運命を導くすべての政治家の第一の義務となったのである。
 その間ずっと、戦争と休戦に続く状況の変化は、これらの民主的な諸国民の中の危機的な峠に至った。そのため、ボリシェヴィキの脅威を回避することを義務とする安全で正気の政治家にとっていまだに開かれていた唯一の実践的な政策路線は、さらなる戦争事業、さらなる持続的な戦争準備であり、また基礎的な人口の中に好戦的な気分を勤勉に助長することである。これは、文明諸国民が公然と認めることはないが、いまやはっきりと乗り出している類の政策である。そして、この種の政策は、少なくともボリシェヴィキの警告からの本質的な一時的中止を約束する。その将来の費用は高いが、この政策の便益は費用に相当する。とりわけ、有力市民に役立つ便益が費用に相当するのに、一方ではその費用が基礎的な人口にふりかかるのであるから。明らかに、だが上品におしゃべりする(戦争)否認者と同じく、すべての文明国の当局は、このジレンマから抜け出す方法を選んできた。休戦に続く平和は、軍事の拡大、国民的嫉妬の拡大、そして絶え間なき国民的宣伝に満ちた平和である。
 あらゆるボリシェヴィキ的気まぐれと幻想を実践的にただす手段は、愛国的憎悪と権威に対する法に則った従属である。戦争事業と戦争の準備は、基礎的人口における愛国的気質をもたらし、それと同時に当局に対する隷従的な従順を強要する。それゆえに、これらのことは基礎的な人口がボリシェヴィキ的な気分に向かうあの経済的不平に考えと感情を向けないようにそらすものと考えられるであろう。そして、まさにいまその目的を達成する他の方法はない。また、愛国心と戦争事業は、他の使い道を持たなくなった。
 これらの文明国の基礎的人口が愛国的ひびきと国民的嫉妬に十分にとらわれている限り、これら諸国民内部の、使うことのできるより多くを所有する者と所有するより多くのさしせまった必要を持つ者との間の利害と感情の分裂は棚上げされることになる。国民的憎悪と疑念の交響曲が国内で聴かれ、不在所有は安全となる。しかし、事実上の(de facto)平和の諸条件が当該社会に浸透することを許されるとすぐに、基礎的な人口は既存の法・秩序システムの下で自分たちに事実上相続権がないことを見積もるはめになる。そして、よかれあしかれ、次にやがて――予期されない混乱的原因がなければ――最終的には基礎的人口を赤旗のようなものの下に引き込むような感情の推移に従うはめになり、不在所有は安全ではなくなる。アメリカに関する限り、その出来事は遠い。しかし、アメリカもその方向に向かうように思われる。どんな社会もその思考習慣をゆっくりと、圧力の下でしか変化しないが、新しい条件の圧力が極端で、統一的、かつ一貫している場合には、伝統的な思考習慣の広範囲におよぶ断層(混乱)が最もよく規制されている社会でさえ探すことができる。
 この陰険な出来事に対する指定された安全策は、「戦争と戦争のうわさ」である。このすべての中で、もちろん、悲惨な精神的破滅を避けるために当てにしなければならないのは、戦争事業と軍事的規律の精神的な便益である。それは、不在所有の安全性と、不在所有に基礎を置くあの法・慣習システムの持続的維持を優遇しつづけるような社会における思考習慣を修復し、強要するという問題である。もちろん、物質的な点では、戦争事業は純利得をもたらさない。もちろん、物質的な点では、軍事支出は純損失と考えられる。それはこの国における現在の連邦財政支出の90パーセントほどに達すると言われている。もちろん、アメリカは――きわめて上品におしゃべりする(戦争)否認者とともに――戦争の機会を逃さない。しかし、軍事支出からの非物質的、精神的な報酬はまったく別のことであり、まったく別の価値を持つ。部外者すべてに対する一致した国民的憎悪を繁殖させ、軍事規律は当局に対する道徳的に従属的な気質と不合理な従属を誘発する。
     彼らは答えてはならない
     彼らは理由を問うてはならない
     彼らはたたかい、死ぬだけである。
そのすべてがしばしば分別と呼ばれるものにむかう。
 文明的諸国民の運命を導く政治家たちは、彼らの基礎的人口の注意が国民的威信と愛国的嫉妬という政治的価値からまったく真剣にそらされ、不在所有と彼らの産業システムの決定するような彼ら自身の物質的状況の考慮に向かう場合に、何が生じるべきであるかを素早く理解する理由を持っている。これらの諸国民の複数の国ですでに明らかになってきているように、そのような場合には、基礎的な人口に現在の所有および統御システムを捨てることによって失うものを持っていると説得するのはきわめて困難である。よりよいスキームが考案されており、現存システムに代わって設定される準備ができているというのはなく、ただ現存システムが国の産業とその人口の物質的富のケアをするのに公然と不適切だとわかっているというだけである。これらの文明的諸国民の中の揺れ動くボリシェヴィキ的気質とその結果現れる頑固なボリシェヴィキ的冒険をいまだに邪魔しているのは、過ぎ去った世代の遅れた保守主義、事実上は古びた過去からの精神的な遺制であるが、その時代には、不在所有はまだその国民の産業システムを引き継いでおらなかったのであり、国民的嫉妬はまだ公然とはばかげたことになっていなかった。既存秩序は、経済的であれ政治的であれ、しばらく前に存在しなくなった物質的状況に依存する。そして、その物質的に古臭くなった過去の精神的な対応物を人為的に保持することによってしか維持できない。
 過去二三年間の経験が十分に明らかにしているように、既存のビジネスライクな所有・統御システムはもはや働かないであろう。人間の性質はあるがままのものであり、産業技術の状態はいまやあるがままのものとなったので、既存の所有・統御システムは国の人口にとって相当な家計をもたらすほどには国の産業を管理するのに適していない。これはもっとましなシステムが知られており、老朽化した現存システムに代わる用意があるというものではなく――それほどの楽観主義の確実な根拠はない――、ただ現存するビジネスライクな統御システムが老朽化しているというだけである。
 現在の緊急性はこの事態を試験してきた。戦争と休戦は世界を不在所有と通常のビジネスにとって安全なものにしてきた。すべての文明諸国民は生産的産業の完全な操業を悲痛にも必要としている。歴史に知られている最も効率的な産業装備、最も豊富な天然資源、そして最も知性的で熟練した産業労働力が準備され、待機している。また二年半の間、産業のキャプテン(総帥)と偉大な政治家たちは、不在所有と通常のビジネスの支配下にこれらの前例のない産業資源をいくぶん利用するために協働してきた。これまでの彼らの協調的な努力の最善の結果は、飢饉、伝染病および赤い暴動に取り囲まれた産業の「無痛分娩法」(麻酔状態)という不安定な状態である。そしてこれらの文明諸国民のいまの最も希望に満ちた――そして疑わしい――期待は、この信じることのできないほど恥ずべき事態が不在所有と営利企業の持続的管理下にもっと悪くならないということである。その間ずっと、いつになく豊作で好ましい気候条件だったにもかかわらず、休戦以降の二年半に状況は目に見えて悪くなってきた。不在所有と通常のビジネスが国の産業的必要と食い違っていることは明らかである。そのすべてが証している。政治家たちが抑圧的手段を取り、人々の気持ちを何か他のことについていらだたせるのが狡猾なことである、と。