2013年10月5日土曜日

マルクス その3

 スコットランド啓蒙の一人、アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)は、マルクス以前に労働価値説を説いた書物である。
 スミス『諸国民の富』の労働価値論は、次のような内容になっている。(社会的)分業の下で、人々は、異なった生産物(商品)を生産し、市場で貨幣を媒介として交換する。しかし、媒介物を捨象すれば、残るのは異なった人の間での異なった商品の交換である。
 仮に人が標準的には10時間の労働を行うと仮定しよう。人々はこの10時間の労働の生産物をお互いに交換する傾向を持つであろう。何故か? もしある人(A)の7時間の労働生産物が別の人(B)の10時間の労働生産物と交換されるような事態(労働時間から見た不当か交換)になった場合、BもAと同一の生産物を生産し、人と交換することを選好するであろう。もちろん、より少ない労働時間で同じ生産物(または貨幣タームでは所得)を得ることができるからである。もちろん、詳しく述べれば、Bは別の商品の生産に移ることによって、Aと同じほどの熟練度を持っていないので、7時間で同じ量・品質の商品を生産できるとは限らない。しかも、重要なことだが、BがAの競争者として参入することによって、結局、その商品の他の商品との交換比率は低下し、前より多くの商品量を提供しなければ別の商品を前と同じ量だけ購入できなくなる。それは交換をより等価交換に近づけるであろう。

 このように労働が唯一の主体的な所得源泉である以上、労働時間は交換比率を決める上で、きわめて重要な要因となっていることは疑いない。現在でも、人々は一定時間を労働に費やしているが、その結果、どれほどの所得が実現されるかに無関心な人はいない。いや、1時間、または1日、1週、1月あたりの所得がどれほどになるかは、ほとんどの人の主要な関心事である。もちろん、現実の労働時間と労働時間とが厳格・正確に交換されることはないであろう。しかし、労働が価値のきわめて重要な要素として意識されていることは、疑いない事実である。

 ところで、アダム・スミスの場合、生産に多くの資本ストック(設備、器具)が必要になり、人々が「主人」(企業家)と「奉公人」(労働者)に分かれる資本主義経済では、以上のような労働時間にもとづく交換はなくなるという。確かに、主人と奉公人との間の関係についてはそうである。事業所で生み出された所得は、利潤と賃金に分かれるが、その配分は上述の原理では説明できない。それは、例えばマルクスが展開したような剰余価値論の課題である。
 ともあれ、労働が唯一の富の主体的要因であり、人々は交換に際して労働時間を重要な要素として考えていることはまったく否定できない事実である。もちろん、最初に述べたように、商品交換に際して等しい労働時間と等しい労働時間とが厳格に交換されているという事実はなく、否定される。しかし、人々がその意識において労働を価値と考えているという事実自体は決して消えてなくなってはいない。

 したがって経済学者にとっては、どれほどの労働時間がどれほどの労働時間と交換されているのか、単位労働時間がどれほどの所得をもたらしているのかは、最も重要な研究・調査対象である。

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