(以下は要約。統計類は別の機会に掲げる。)
1919年にパリのヴェルサイユで結ばれた講話条約をもって第一次世界大戦は終了した。
この講和条約の中で最も大きな問題となったのが、戦勝国のイギリスやフランスが敗戦国のドイツに求めた賠償金支払の問題であったことは言うまでもない。
1914年のドイツ帝国軍のロシア帝国に対する侵攻をもって始まった第一次世界大戦が敗戦国のドイツに莫大な物的・人的被害をもたらしたことは言うまでもないが、戦勝国のイギリス、特にフランスの蒙った被害がきわめて大きかったことも間違いない。その上、戦争に参加した国の政府が戦争に費やした費用(戦費)も巨額に上っていた。英仏政府は、それらの費用を借用金によって、特に米国からの債務によってまかなっていた。
第一次大戦中の1918年の「ドイツ革命」でドイツ帝国は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム二世は皇帝の座を退き、外国に逃亡しており、その後、ドイツは「ワイマール共和国」として生まれ変わることになったが、このドイツに対して英仏が巨額の賠償金を求め、結局、ドイツはそれに応じることになった。
周知のように、この英仏政府の対独賠償金要求に対して厳しい批判を行ったのが、イギリス代表の一人、ケインズであった。彼は、賠償金の要求がヨーロッパおよび世界の将来にきわめて大きな不幸をもたらすことになることを指摘するとともに、そのように巨額の賠償金をドイツが支払うことは不可能であり、ドイツ政府がそれに応じることはないと考えていたが、結局、それを盛り込んだ講和条約が結ばれるや、イギリス政府に辞表をたたきつけるに至った。われわれは、もちろんその後の歴史を通じて、ケインズの危惧が現実のものとなったことを知っている。(『平和の経済的帰結』)
ドイツの苦境は、まず1923年のハイパー・インフレーションの発生からも知られる。このときのドイツのインフレ率は1兆倍という天文学的倍率に達し、「五千万マルク紙幣」が発行されたことが知られている。もちろん、ドイツの失業率は不況の中で上昇し、社会不安が拡大した。
失業は、ドイツに限られていたわけではない。戦勝国の英・仏・米でも(アジアの日本でも)、第一次世界大戦の終結後、経済は「戦後不況」の局面に入り、失業率が激しく上昇した。この戦後不況は1923、24年にようやく終息し、経済の回復がはじまるが、イギリスでは、その時に景気を悪化させる政策が採用された。1925年のチャーチル氏(蔵相)による旧平価での金本位制復帰である。それは戦時中に停止されていた金本位制を復活させようとする政策であったが、その際、戦時中のインフレーションによってスターリング・ポンド(£)が大幅に減価していたにもかかわらず、戦前の旧平価で復帰させようとするものであった。
この時、ケインズはチャーチル氏のこの政策がイギリスを不況に導き、失業率を引き上げるとして批判している(『チャーチル氏の経済政策とその経済的帰結』)。仮にイギリスの物価水準が2倍に上昇していたとしよう。イギリス国内では以前£1だった商品価格が平均して£2となっている。この時以前と同じ平価であれば、金貨で表示したイギリスの商品の価格(国際価格)は二倍になるはずである。これは対外的には、イギリスの輸出を大幅に減少させることになる。あの貿易依存度のきわめて高いイギリスの商品輸出を、である。したがって、もしイギリスが以前と同じ輸出量を確保しようとするならば、その製品価格を引き下げなければならない。これはイギリス国内に激しいデフレをもたらすことを意味する。
実際、ケインズの批判した通り、1925年から1927年にかけてイギリスは景気後退と失業率の上昇を経験することになった。そして、そのような状況の中でイングランド銀行は、金融緩和政策(低金利政策)を実施することを余儀なくされる。しかし、国内の低金利政策は資本の海外逃避を招く恐れがあり、事実その通りとなった。かくして、1927年、イギリスの当局は、フランスと強調して米国の中央銀行(FRB)に米国当局も金融緩和措置を継続するよう要請することとなった。
ところで、今日「グローバル化」の進展を経験しているわれわれの問題関心からすると、第一次世界大戦をはさんで国際経済関係がどのように変化したのかという問題がわれわれの関心を引く大きな問題となる。
近年の研究では、1960年代以降、MNCs(多国籍企業)、国際ポートフォリオ投資、FDI(外国直接投資)の拡大に示される「グローバル化」の現象が顕著となってきたことが明らかにされている。しかし、この第二次世界大戦後のグローバル化に先行して第一次世界体制前に「グローバル化」が見られたことが研究上明らかにされている(Paul Hirst and Grahame Thompson, Globalization in Question, Polity, 2000.など)。しかも、その規模は戦後のグローバル化を超えていた可能性が高い。両大戦間期は、これら2つのグローバル化の間の時期であり、いわば第一次グローバル化の崩壊期であった。
特に注目されるのは、ヨーロッパにおける二大経済大国、イギリスとドイツが戦争中から戦後にかけてGDPに対する輸出額の割合や資本輸出の割合を減少させていることである。
すでに1920年代においてヨーロッパ諸国の経済状況は、危機的な様相を示していた。
これに対して、第一次世界大戦に参加したとはいえ、戦場から離れており、戦争の直接の被害をほとんど受けていない米国は、戦後不況を乗り越えたあと、比較的順調な経済成長の経路に戻ったかに見えた。1919年から1929年の間の米国の平均的成長率(年率)は約3%であり、20年代の中葉以降、失業率も徐々に低下していた。
しかし、ここでも大きな問題が生じつつあった。それは周知のように1929年の10月に崩壊し、金融恐慌と世界大不況をもたらす原因となった資産バブルの亢進である。
資産バブルがいつどのような状況の下で生じるのか、その一般的な条件を示すことは難しい。しかし、1920年代後半の米国の資産バブルについては、次の事情をあげることができよう。
1)長期的に見た米国経済の成長率の低下
クズネッツ(Simon Kuznets)の作成した長期時系列統計が明らかにしたように、米国の経済成長率は1870年代にピークに達したのち徐々に低下していた。以前は年率5%を超えていた成長率は、1920年代に3%以下になった可能性がある。こうした実体経済の成長率の低下は所得の増加ペースを減速させ、それに代わる所得源、つまりキャピタル・ゲイン(資産の売買差益)に人々の注意を向けさせやすい。これは日本でも1980年代後半に生じたことである。
2)キャピタル・ゲインの増加をもたらす資金の供給、金融革新、低金利
商品価格と異なって金融資産の価格は、それに対する需要(貨幣の裏付けを持つ需要)に著しく感応的である。需要の拡大は資産価格を引き上げ、キャピタル・ゲインをもたらす。そしてキャピタル・ゲインの発生は、当該資産に対する需要を拡大する。しかし、資産を実際に買いたいという人が現れ、それに対する需要が実際に生じるためには、それがより高く売れる(つまりそれをもっと高く買う人がいる)ことが前提となる。ここから「あと馬鹿」(the greater fool)理論なるものが生まれたが、この理論の是非は置いておこう。いずれにせよ、人々の心理はバブル発生の重要な要因であることは間違いないが、それを容易にする金融制度の登場、金融革新も要因であることは否定できない。
ガルブレイス(J.K.Galbraith)が指摘しているように、自己資金ではない証拠金によって株式を購入できるといった制度、レバレッジもバブルを亢進させる制度的与件である。
さらに1927年に英仏当局が米国の金融当局に要請した金融緩和の持続策も資金需要の拡大とそれに応じた資金供給の拡大に「貢献した」と言えるだろう。
3)賃金シェアーの低下
1920年代には、賃金シェアーの低下が見られたことがシュタインドル(Josef Steindl)の『米国資本主義の成熟と停滞』(1950年)によって示されている。
これは1980年代〜21世紀初頭の米国で繰り返された傾向であるが、それは利潤シェアーの上昇を意味する。この時に利潤の一部をなす株式に対する配当が拡大すれば、それは株価を引き上げる要因となる。また21世紀初頭(2006年以前)の米国では、賃金所得の増加を期待できない大衆が借金によって住宅を取得し、この借金の拡大の連鎖が資産担保証券の上昇をもたらし、それを通じて資産担保社債、レポ取引、そして株式の価格を引き上げたという事実がある。
1920年代後半にも賃金シェアーの低下と株式価格の上昇が関係していた可能性がきわめて高い。
しかしながら、1930年代に金融資本主義は、そのグローバルな構造を含めて一挙に崩壊することとなった。しかし、それは経済的危機にとどまらず、きわめて大きな社会的・政治的危機をもたらしたのである。
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