家族類型がどのような経済事情と関係していたかを深く知るためには、それを静態的にではなく動態的に考える必要があります。つまりライフ・サイクルや人口動態の中で家族の問題を考える必要があります。
まず出発点として人口が一定の場合を考えましょう。例えば合計特殊出生率が3〜4(つまり一人の成人女性が平均して出産する子供の数が3、4人)であり、そのうち2人が成人し結婚するような人口の長期的な定常状態を考えます。この場合、社会全体では、人口は長期的にほぼ一定となり、男女比もほぼ50対50になると考えることができます。もちろん、このような状態の下では、どのような相続規則であっても、子の世代は親の世代から同じ面積の土地(耕地)を受け継ぐことができます。
ただし、これは平均すればということであり、個別の場合には必ずしもそうはいきません。特に平等な相続の場合はそうです。しかし、不平等相続・一子相続の場合は、着実に土地を次の世代に引き渡すことができます。例えば複数の男子を持つ親は一人に全財産を譲り渡すことできます(ただし、その他の兄弟は相続を断念しなければなりません)また子供のいない親は養子(または養女)をもらい、それに配偶者を迎えさせることになります。また娘だけの親は他の家族から婿養子を迎えることになります。これらのいずれの場合も、土地=経営は分割されずに次の世代(養子、婿養子など)に伝えられることになります。
これに対して平等相続の場合は少々やっかいです。われわれの想定している平均的に2人の子供という前提のもとでさえ、個々の家族にとって子供の数が多いことは土地=経営の細分化という危険性を意味します。その際、財産の相続に参加できるのが男子だけなのか、それとも女子を含むのかによって個別農家にとっての結果は異なってきます。
次に、人口が増加しているような社会(16世紀以降、西欧はそのような地域になりました)を考えます。西欧でもこの時期には森林開墾の時代はすでに終わっており、新しい耕地を開墾することはほぼできなくなっていました。教会は聖職者の独身主義(celibacy)のために絶えず外部から聖職者が供給されることを必要としていましたが、それにも限度があります。また工業が人口増加を吸収できるほどにはまだ工業化は進展していませんでした。
このような条件の下では、次の2つのケースしか考えることはできません。
1 不平等相続または一子相続制の場合
兄弟のうち一人(長男など)が親からの財産相続を通じて農業者となるが、その他の成員は何らかの種類の農村下層民に転落する。
2 平等相続の場合
兄弟(姉妹)は親から平等に財産を相続するが、それに応じて相続する土地面積を減らしてゆく。(ただし、土地市場が成立している場合には、人は土地を購入するか、借地することによって経営面積を拡大することができることは言うまでもありません。)
問題は、こうした事が実際に生じていたかにあります。
ここで1に関連してすぐに思い出されるのは、近代のイングランドやドイツなどを始めとする多くの地域で、農業者(英:farmers、独:Bauern)と並んで奉公人(英:servants, 独:Knechte, Magte)や小屋住み(英:cottagers、独:Hausler)などと呼ばれる農村内の階層が生まれていた事実です。その数は決して少数とは言えず、かなり多数に達していました。多くの場合、奉公人は富裕な農民の屋敷に住み、様々な労働に従事していました。また小屋住みは、共同地(農家の私有地となっていない総有地)の中に狭い土地(屋敷地)を分け与えられ「小屋」を建てて住んでいた階層を意味しています。
これらの階層はどのようにして生じたのでしょうか?
かつては、これらの農村下層階層は近代になってから農民層分解によって現れたと考えられていました。つまり近代のある時点で、自由な土地(売買・借地)市場が成立すると、中間的な農民たちの中から、一方には土地を集積する少数の富裕な農民たちが現れ、他方には土地を失ってゆく貧しい農民たちが現れるというわけです。これは何らかの史料にもとづいて実証的に明らかにされたというわけではありません。その証拠に、昔私は西洋経済史を学んだとき、そのような学説は知りましたが、それを示すような史料を教えられたことはありませんでした。
しかし、近年の家族史、特に個人レベルのライフ・サイクルまで追跡した実証研究によって、イングランドでもドイツでもバルト地域でも、これらの階層(奉公人や小屋住み)が最初農民の子女から現れて来たことは否定しえなくなりました。もちろん、19世紀になってもこの階層には農民の子女からリクルートされた人々が付け加わり、膨れ上がりつつありました。当時の農村の内部事情を直接に観察した人々は、このことを当然のこととして取り扱い、それに疑問を持ちませんでした。ちなみに、これらの人々は、農村にあって富裕な農民たちのために働き生活の資を得るか、農村工業(近年「プロト工業」と呼ばれるもの)に従事して給金を得るような階層でした。それはいわば農村過剰人口の現実的な存在形態でした。
ところが、19世紀にイングランドでもドイツでもバルト地域でも急激な経済変化が生じます。いわゆる産業革命=工業化です。われわれにとって注目すべきことは、この激動のの中で農村下層民たちがあっというまに姿を消し、農村からは消えてしまったことです。その理由は明白です。例えばバルト地域や東部ドイツでは、これらの農業労働者たちが高賃金の都市・工業中心地に流出してしまい、農村部で「労働力不足」が生じ、農業労働者の賃金が高騰して困るといった農業経営者の嘆きの声がしばしば新聞等で報じられていました。
しかし、これは19世紀末のことです。20世紀に入ると、中世から近代・19世紀末までの歴史的事情はまったく忘れ去られてしまいました。
考えてみると、奇妙な歴史ではあります。
そもそも西欧中世の農村社会では形式主義ともいわれるほどの平等原理が支配していました。しかも、その形式的平等主義は、1フーフェ(=33エーカー)の土地面積をきちんと測量して同じ村の中の各農家に平等に配分するするほど徹底していました。また地味による差異をなくすために耕地(三圃制のため3つの圃場)を地味・その他の土地条件に応じてブロックに分け、各農家が各ブロックに1つの土地片(strip)を保有するような工夫さえ講じていました。ちなみに、各農家にひとたび配分された土地片は各農家の私有地となっており、近現代の耕地整理の時まで古い状態を残していました。
ところが、こうした形式的な平等主義のもとで、イエ(家族、世帯)の内部では経営的観点・経済的合理主義が作用し、兄弟間の不平等さえも許容されていたわけです。言い換えれば、企業者と労働者は「イエ」の内部を誕生の地としていたことになります。かつてM・ヴェーバーは、<形式は自由の産みの母である>といいましたが、このような精神的態度なくして近代の経済発展はなかったのかもしれません。
また偶然か、または何らかの偶然的ならざる結びつきがあったのか、議論の分かれるところですが、イングランドやドイツ、バルト地域はまた宗教改革(ルター派、カルバン派などプロテスタンティズム)の広まった地域でもあります。
しかし、不平等相続・一子相続制はヨーロッパのある地域に広まっていたとはいえ、ヨーロッパ全体がそれ一色に染まっていたわけではありません。前回述べたように、西欧に限っても、フランス北部・パリ盆池やイタリア、スペインなどでは平等主義的な相続制度が広まっていました。フランスはまたプロテスタンティズムではなく、カソリシズムの牙城でもありました。
そこで次にフランスの事情も含めた平等主義の経済的影響を検討することにします。
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