有名なマルクスの娘婿、ポール・ラファルグの著書に『怠ける権利』(Le Droit a la Paresse)という本(パンフレット)があります。
これを見て、道学者はなんとふざけたことをと言うかもしれません。いや、道学者でなくても、多くの人もそう思うかもしれません。
しかし、私は決してそうは思いません。むしろ、その通りとさえ考えます。
また歴史上多くの著名な経済学者もそのように考えてきました。ただ「怠ける権利」という言葉を使う代わりに、別の言葉を用いているにすぎません。
マルクスなら「労働からの解放」(Befreihung von Arbeit)といったでしょう。彼の時代には多くの「労働貧民」(これは私の言葉ではなく、当時の用語です)が長時間労働を強いられていました。一日、16時間労働が普通だった時代です。そんなとき、苦役からの解放は(実際に苦役をしている人にとって)いかに人間的な要求だったでしょうか。労働時間の縮小は、当時の上流の非勤労階級にとっては経済社会を破壊するような、とんでもない要求だったでしょうが、多数の庶民にとっては切実な要求だったに違いありません。(もっともそれは実現不可能な事柄としてあきらめられていたでしょうが。)
さて、それから百数十年がたち、長期経済統計の示すところでは、労働生産性が数十倍になりました。これは、文字通りにとれば、一時間あたりの労働によって作りだされる生産物の量が数十倍になったことを意味します。そこで、もしわれわれが19世紀の生活水準に満足するならば、われわれは19世紀の数十分の一の時間だけ働けばよいことになります。もとより、そうは言っても、一方では19世紀の生活水準に満足できないでしょうし、また労働生産性が数十倍に増えたという統計をそのまま真に受けることができないことも言うまでもありません。(竹中という経済学者は、そのことを信じており、われわれの生活水準が労働生産性の上昇分による実質所得増加分上がったと述べていますが、それは事実ではありません。というのは、簡単に言えば、19世紀と現在では生産物の内容・構成が異なるからです。)
しかし、この点を割り引いて考えてみても、現在の労働時間はせいぜい19世紀の半分になったにすぎないことは府におちません。もちろん、かなり短くなったのだからよいではないかと主張する人がいるかもしれませんが、それは労働=勤労を神聖視・労働絶対化の見解に他なりません。
このことに対して違和感を表明した著名な経済学者はたくさんいます。古くはジョン・スチュアート・ミルがそうであり、J.M.ケインズがそうでり、またJ.K.ガルブレイスもそうでした。
なぜわれわれの住んでいる現代経済(資本主義経済体制)では、豊かさが実現されたといわれながら、人々は労働(苦役)からの解放ではなく、より多くの富(財とサービス)を生産するために駆り出されるのでしょうか? ひとびとは、労働生産性が上昇したとき、ワークシェアリング(一人あたりの労働時間の縮小)による完全雇用の実現をめずすのではなく、特定の人々を失業させ、その上、彼らを道徳的に非難するのでしょうか? これが彼らの解明すべき一つの大問題でした。
19世紀の経済学者はまた労働の解放を語るときに、「労働における解放」、つまり労働が楽しい人間的な活動となることを夢見ました。しかし、現在でも多くの人にとって労働は苦役(toil and trouble)であり続けています。その最たるものは、ブラック企業によって酷使されている若者でしょう。私は、個人的に現代の企業社会の中で激しいストレス(精神的抑圧)を毎日感じ、そこから解放されたいと願っている人々を沢山知っています。
現代の経済学者の中には、このような問題を提起すること自体を非難し、人々をより低賃金で長時間はたからせるべきと考える(主張する)人々が沢山います。J.K.ガルブレイスが皮肉ったように、新古典派の労働市場論はその典型的な「理論」です。(「新古典派の主張は次の2点に要約できる。豊かな人は所得が少なすぎるために働かず、貧しい人は所得が多すぎるために働かない。」)
この文章を読む人は、私のことをジョン・レノンの歌のような夢想家(dreamer)と考えるかもしれません。たしかに、現代の体制を前提とする限り、そうかもしれません。しかし、19世紀以来の偉大な経済学者たちが考えた労働の解放(労働からの解放、労働における解放)の理想と、豊かになったといわれている現代になお根強い成長主義・生産主義・労働強迫症の見解のうち、どちらが人間的のか、経済学を学人はよく考えてみるべきではないでしょうか?
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