自由貿易などというものはない。
「自由市場」。美しい言葉だ。「自由市場に反対する? あなた人間の経済活動の自由や権利を否定するつもりですか?」
「自由市場」を批判するとこんな言葉が帰ってきそうな気もする。
しかし、私は「人間の(基本的)権利と自由」を否定するつもりはまったくない。むしろ逆であり、個人の自由と権利を最大限尊重するべきと思っている。
「自由市場」と「人間の権利と自由」とは、どのように関係しているだろうか?
問題の一つは、現在の資本主義体制(ケインズ流にいえば企業者経済)では多くの人が企業に雇われて労働している人だということであり、その対価として賃金が支払われていることにある。それは労働力を売買するという労働市場が存在することを意味する。
さて、このとき、もし企業、つまり労働力の購入者(雇主側)が、「私はあなたの労働力を買ったのだから、それをどう使おうと私の自由(勝手)だ」と主張したら、どうだろうか? それは当該企業の、そしてほぼすべての企業のブラック企業化(低賃金、長時間労働)を意味するだろう。
だが、労働契約を結ぶ前ならどうだろうか? 企業と労働者が一対一で労働契約を結ぶならば、好ましい結果がもたらされるだろう。などと呑気なことを言っている場合ではない。経営者にとっては、会社に雇ってもらいたい者などいくらでもいる。労働者は交換可能な(interchangeable)なパーツにすぎない。「あなたが私の提示する労働条件を好まないのは知っているが、他にいくらでも働きたい人はいる。」
これはとりわけ現在のように失業者が街にあふれている場合にはそうだ。
一般化しよう。教科書の経済学と異なって、現実の経済社会の市場は「ひずんでいる」。それを構成するのは、平等な貨幣=力を持った多数者ではなく、独占者と、その対局にある人々である。
このような経済社会で「自由市場」にすべてを委ねれば、どうなるかはサルには無理としても、小学生や中学生でも理解できるだろう。
そこでは人は自分が普通に自由にやりたいことができなくなる危険性が高い。つまりまさに「自由」を失うことになる。実際、ブラック企業に雇われたことが分かっても、そこをやめられず、絶望的な気持ちになってゆく人が増えている。
それではどうしたらよいだろうか?
市場を廃止する? それは無理だろう。市場の廃止は行政機関が計画的に資源を配分する型の経済(指令型の計画経済)を必要とするが、それが機能するとは思えない。
もちろん、すべての企業を分割して個人企業にすることも不可能である。
残された方法は、人々が一定のルール・組織・制度にしたがって市場取引を行なうようにすることである。しかも、これは19世紀以来実際に行なわれてきた方法である。
このルールがうまく作用するようなものであれば、動物や人間が空気を吸っても何も違和感を感じないように、ほとんどの人は違和感を感じないだろう。このルールや制度がどのようなものかを知らない人は、とりあえず労働法を勉強することをお勧めする。ちなみに、現在の日本の経済学部では社会政策論もなく、労働法もない場合が多いが、これは異常な事態ではないだろうか?
さて、このゆうに独占力が支配するひずんだ市場では、この独占力に対抗する力=対抗力(countervailing power)が必要であることを主張したのは、ジョン・ガルブレイスであった。そして、それはある程度まで実現された。
しかしながら、こうした対抗力は、1980年代以降の「雇用の柔軟化」(労働市場における規制撤廃)によって失われてきた。一つには、政府が意図的にそのような政策を推進してきたためであるが、他方では実態経済の変化によるところも大きいだろう。とりわけ、失業率の上昇は、対抗力を大幅に弱める。
ここでは、それに関連して「自由市場」の神話とでもいうべきものをあげておこう。
その一つはアダム・スミスに関するものであり、もう一つはデーヴィッド・リカードゥに関するものである。
アダム・スミスは、しばしば「自由市場」(レッセフェール=ほっといて)の祖といわれる。具体的な言及は避けるが、「自由市場」に批判的な論者の間でも、アダム・スミスは自由市場論者に仕立て上げられることがある。中には、アダム・スミスは、自由市場における価格メカニズムが均衡・安定・効率を達成すると述べたという物語まで創作する者もいるが、これらはすべてミスリーディングだ。
アダム・スミスが「自由市場」論を展開したという人が頻繁に引用するのが、『諸国民の富』(1776年)第4章第2節で重商主義を批判した箇所の次の文章だ。
「彼(個人)自身の利益を追求することによって、彼が社会の利益を促進しようと実際に意図するときよりもそれ(社会の利益)をしばしば促進する。私は公共の善のために交易するふりをする人によって多くの善をなしたことを知らない。」
たしかにスミスは、人々が「個人の利益」の追求することがよい結果(公共の善)をもたらすことが「しばしば」あると認めている。しかし、残念ながら、これは「自由市場」を賛美した文章ではない。そのことをよく示すのは、スミスが書いた草稿だ。
「外国産業の支援よりも自国産業の支援を選好することによって、(諸個人は)自分自身の安全をだけを意図する。」
彼がそうするのは、「見えざる手に導かれて、彼の意図の一部ではない目的を促進する」からである。(James Galbraith, p.66)
もちろん、『諸国民の富』全体の文脈から切り離して、この文書の意味を理解することはできない。全体としてスミスが主張したかったことは、次の通り。
・生産力は、分業の発展を規定している市場の拡大とともに発展する。
「分業は、市場の範囲によって制限されている。」
いうまでもなく、スミスは貿易が市場の拡大を通じて生産力の発展を導くという大きな役割を冷静に観察していた。
・しかし、スミスは「無規制の市場」を賛美してはいない。彼が(例えば)ロンドンとカルカッタの間の貿易の拡大の利益を考えているとき、当時のイギリスとインドが同じ帝国領に属していたことを思い出す必要がある。イギリスは、当時のインドの繊維産業に勝利しなければならず、市場に介入するための様々な方策を講じた。
・帝国外の(例えば)フランスとの貿易についてはどうか? ここでも規制されない自由市場はスミスの主張ではない。むしろ逆に、上の文章は、(当時のイギリスの状態の中で)諸個人は「自国産業の支援を選好する」性向があることを述べたものにすぎない。自国産業を破壊しようとするものは誰もいないだろう。ここで市場における効用の計測などを持ち出してもスミス理解にとっては無益である。
・もっと重要なことは、スミスは「重商主義」(mercantilism)を批判し、「諸国民」の富を増やすことを考えていたことである。
言うまでもない。重商主義(近年の新重商主義も)の政策スタンスとは、超過輸出(輸出ー輸入>0)の実現にある。しかし、スミスはむしろ重商主義者たちと反対に、「貿易収支の均衡」こそが「諸国民」の富の形成に貢献すると考えていたのである。「スミスは、ずっと続き、ずっと脅威をもたらしている戦争の世界における政治的リアリストだった。彼は新しい啓蒙的な用語で力にいたる道を見る点で、先行者たちと異なっていた。」
要するに、アダム・スミスは、新重商主義を批判の俎上に載せたジョン・メイナード・ケインズ(『一般理論』1936年)にずっと近い立場にいたといってもよいだろう。
デーヴィッド・リカードゥの「比較優位説」(次回)
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