2016年8月16日火曜日

税金を払わない巨大企業 2 アベノミクスは所詮供給(企業)側の経済学の失敗例に過ぎない

 四~六月期のGDPは、名目0.2パーセント、それから物価上昇分を差し引いた実質GDPは0パーセント。個人消費は0.2パーセント。
 政府は、公共事業を中心に景気の活性化を狙うが、その効果は小さく、後には借金が残る。しかも、財政赤字の拡大を理由に社会保障費の負担増や消費税の引き上げがまっている。まさに「三重苦家計を圧迫」という状況が続く(本日の「東京新聞」朝刊より)。

 さて、そのような訳で、今日の「東京新聞」社説は、「三年続くアベノミクスはあらためて効果が乏しいことを裏付けた形だ。四~六月期の実質国民総生産(GDP、速報値)は横ばいだった。「道半ば」ではなく、誤った道を進んでいると気づくべきだ。」としています。
 まったく同感と言わざるをえません。

 さて、これまでもアベノミクスについては、本ブログでも主に金融の観点から、批判的に検討してきましたが、まさにこの点では、アベノミクスの異次元の金融緩和政策は一部の体力(株価など実体経済とは関係ない部分)をほんの一時的に上げるだけの「ドーピング」(金子勝氏)に他ならないということができます。でも、ドーピングの効果はすぐになくなります。

 しかし、アベノミクスには別の側面があります。それは供給側、つまりは企業側の経済学に依拠しているという側面に他なりません。

 供給側の経済学というのは、本質的には、19世紀に起源を有する古い新古典派の経済学に特徴的な考え方であり、20世紀に入ってから根本的に批判されつくしました。
 しかし、1980年代にイギリスとアメリカで保守派(サッチャーの保守党、レーガンの共和党)によって持ち上げられてから、一時一世を風靡しましたが、すぐに誤りであることがわかり、すぐに放棄されました。しかし、思想としての供給側の経済学は根強く、いまでも保守的な政界を中心に信者がたくさんいるようです。

 この思想の要点は難しくありません。次のように要約できるでしょう。
 つまり、経済を発展・成長させるには、供給側、つまり企業側の条件を改善しなければならない。なぜならば、経済は生産力の発展・成長とともに成長するが、その生産性の上昇をもたらすのは(設備)投資であり、その投資を行う企業だからである。企業が十分な利潤を上げることができれば、また富裕者=大株主が十分な配当を受け取ることができれば、それらの所得は貯蓄を通じて(設備)投資に向けられる。そして投資が順調に行なわれれば、生産力が発展し、経済は順調に発展する。
 しかし、供給側の条件を改善するためには、法人税率を軽減したり、富裕者の所得税率を軽減したり、さらには企業が高い人件費・社会保障費負担に苦しまないように、賃金の抑制を行ったり、場合にはよって労働者の力を削ぐために失業率を引き上げる(高い水準に維持する)こともやむを得ない。

 このような供給側の経済学の最後の側面(賃金抑制、失業率)については、かなり政治的に微妙な点もあるため、あまり露骨に表明されることはないかもしれませんが、アカデミックな経済学者の間では公然と議論されていることは、経済学者なら知っていることです。


 さて、こうした供給側の経済学ですが、実際の経済やそれを説明する現実的な経済学には「有効需要」の側の側面があり、こちらも無視できないことはいうまでもありません。つまり、現実の経済では、企業にどんなに供給力があろうとも、有効需要がなければ(あるいは購買者がいなければ)、現実の生産は行われえないという冷厳な事実があります。これについて供給側の経済学者もまったくのアホではないので、答えざるをえません。そして、この答えが「セイ法則」と呼ばれるものです。これは、「供給はそれ自らの需要を創り出す」というものであり、換言すれば、需要は供給が生み出すものだから、供給だけ考えればよいということです。
 
 もう一つ供給側の経済学が突きつけられた問題があります。それは供給側=企業側+富裕者側(のみ)を優遇するがゆえに、労働側に不利な条件を押しつけることになるという点です。これに対する答えとして出されたのが「トリクルダウン」の議論です。つまり、最初、企業や富裕者の所得が増えれば、その後いつか(いつ?!)富の一部が下にしたたり落ちて、労働側や低所得者の所得も増えるだろうという議論です。

 しかし、歴史と理論は両者とも誤りであることを示してきました。例えば1930年代の大不況と高失業は生産力が低下したために生じたのではなく、生産能力に比して有効需要が著しく縮小したことが原因でした。またトリクルダウン、トリクルダウンといいながら、トリクルダウンが生じたためしがありません。所得格差と資産格差は拡大するばかりです。
 それに供給側の経済学では、成長のためには企業に有利な条件(人件費=賃金の圧縮など)が必要だとされているため、いつ賃金の増加が生じるのか明言しません。しようと思ってもできないのです。もちろん新古典派の単純系の経済学にも一応の説明はあり、そこでは、すべてが短期的に(つまり時間のない虚構の世界では短期というしかないようですが)均衡点で決定されます。しかし、彼らは現実の動態的経済の中で何時、どのように賃金所得が変化するのか答えることはできません。新古典派の経済学を学んだことのない人(換言すれば逆説的に現実感覚のある人とも言えます)にとっては、実に奇妙な世界です。

 だいぶまわり道をしましたが、供給側の経済学についてくどくどと説明したのは、アベノミクスが本質的にはこの供給側の経済学に立脚しているからです。安部氏が日本経済を<世界中で企業がもっとも自由にやれる経済にする>という趣旨の発言をしましたが、この点こそ、供給側の経済学の立場をよく示す言葉はありません。
 巨大企業の法人税逃れを可能にすることはその一つです。

 しかし、それは企業の行動をさらにある方向に向かわせます。企業はいくら利潤をあげても低い法人税率でしか課税されないので、もっと利潤を増やそうとして人件費を抑制します。また課税さらない配当金を増やすために、子会社や関連会社の株式を購入することになります。ここで注意しなければならないのは、株式の購入はある意味で「投資」ですが、生産力を成長させるための設備投資ではありません。こうした行動は、資産価格を引き上げる役割を果たしますが、経済を発展させ、人々の暮らしをよくするものではありません。
 しかも、企業の人件費抑制行動は、経済社会全体を見てみると、それをある方向に導きます。つまり、日本社会全体の賃金所得が抑制されてきた状況の下では、もっとも基礎的な個人消費支出が停滞することになります。図示すれば、次の通りです。

     W(賃金所得)の停滞 ⇔ C(消費支出)の停滞
  
 鶏が先か卵が先か? という話ではありませんが、両者は密接に関係しています。賃金が停滞するので、消費が停滞するとも言えますが、消費が停滞するので(経済が停滞し)賃金が停滞するとも言えます。どちらが先かではなく、両者は相互に関連しており、WとCを抑制する構造が成立していると言えるでしょう。ですから、(もし現在でも成長が好ましいならば)WとCの両方を成長させてゆくような構造変化が必要ということになります。

 私は構造という言葉を持ち出したらからといって、ここで橋本財政構造改革や小泉構造改革を支持しているわけではありません。むしろそれらは供給側の経済学の上に立った誤った政策でした。私が主張するのは、構造改革からの脱却という意味での構造変化です。それは賃金主導型、内需主導型の経済成長体制への転換でしかありません。

 さて、安部氏も「有効需要」の重要性が理解できないほど、経済について無知というわけではないと思います。したがって彼は、かりにジェスチャーであろうとも、(特に改憲のための議席を確保するために選挙前には)すくなくとも賃金の上昇の実現のために努力lしているふりをしなければなりませんでした。
 しかし、安部氏が本心から賃金の上昇を実現しようとしていないことは、彼の様々な言動から読み取れます。ここでは詳しく触れませんが、森永卓郎氏(『雇用破壊』角川新書、2016年)が指摘しているように、派遣労働の固定化、ホワイトカラー・エグゼンプション、解雇規制緩和などの「毒矢」を実現することにあると見るべきです。これらは人件費を抑制する企業行動を是とする政策体系です。

 結論します。アベノミクスとは、改憲を狙った経済政策上の毒矢であり、本質的には供給側の経済学に「異次元の金融緩和」という「時間かせぎ」(W・シュトレークの言葉)を接ぎ木したものに過ぎません。またしばしばマスコミによって言及される「トリクルダウン」は現実に賃金が上がらないことへの言い訳でしかなく、政府の賃金の引き上げはジェスチャーに過ぎないと知るべきです。

 

 
 

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