最近、頭痛がひどくほとんど何もすることがでなかったが、昨日から少し回復し、雑誌 Facta を読み、今日は本屋でロバート・B・ライシュの『最後の資本主義』(東洋経済新報社)を立ち読みしてきた。
本書の日本語タイトル「最後の資本主義」というのは、ちょっと見ただけでは、どういう意味かよく分からないが、英文タイトルの方はよく理解できる。
Saving Capitalism: For the Many, Not the Few
(資本主義を守る。少数者ではなく、多数者のために)
現在のグローバル自由資本主義は、----ご存じの----あの少数者(the Few)のために機能しており、----これもご存じのはずですが----あの多数者(the Many)から富を収奪し、少数者に移転している。もちろん著者が守ろうとしているのは、このような資本主義ではなく、反対に多数者に平等に富を分かち合う経済システムに他ならない。つまり現在のグローバル自由資本主義は、結局のところ、多数派を反資本主義陣営に追いやり、その意味で資本主義を破壊してしまうことになるのではないか。これがライシュの意見の根本にある考えであり、これはすでに1950年代にあの偉大な、伝説的な米国の経済学者、ジョン・ガルブレイスの説いたところでもあった。
ガルブレイスは、次のように述べていた。皮肉にも資本主義のもっとも熱心な擁護者が実際には資本主義を破壊するようなことを行っている、と。すなわち、この擁護者らは、一握りの少数者のために多数者からの富の移転を実現し、あくなき利得を追求するグローバル金融資本主義、掠奪資本主義(predatory capitalism)を生み出すような方策を追求し、結局、資本主義に本能的な反感を懐き、それに対立する多くの人々を生み出すことなる、というわけである。
もちろん、もし資本主義という言葉を、例えばK・マルクスが『資本論』で用いた意味、つまり「資本主義的生産様式」(capitalist mode of production)、あるいは同じことだが、J・M・ケインズの「企業者経済」という意味で用いるならが、資本主義経済に代わる経済体制を生み出すことは、少なくとも短期的・中期的にはほぼありえないだろう。人々を雇用し、何かを生産し、提供する企業体制に代わるものが簡単に現れるとは想像しえない。あのソ連や中国の計画経済の時代の経済体制でさえ、企業によって支えられていたのであり、企業なしには存立しえなかった。
しかし、同じ企業システムであっても、実際には様々な「体制」(regimes)が存在しうることは、経済史の示すところでもある。
ふたたびガルブレイスに戻ると、彼は、20世紀中葉までの資本主義経済を支える「市場」において実際には人々が自由・平等な関係にはないことを強く意識していた。むしろ市場においては、多くの貨幣を所有する人々が絶大な力(power)を有しており、大衆に対峙していることを知っていた。この点では、彼は市場の自由・平等・公正を説く新古典派とは鋭く対立していた。彼の師匠となっていたのは、むしろK・マルクスであり、またT・ヴェブレン(「営利企業」「不在所有権と営利企業」など)であった。ガルブレイスの師はヴェブレンであり、特にヴェブレンの「不在所有権と営利企業」が彼に大きな影響を与えていたことは、本ブログでも後日紹介したい。
ところで、このような中で、資本主義が多数者のために機能しうるためには、何が必要となるであろうか? この問に対してガルブレイスは、「対抗力」(あるいは「拮抗力」)=countervailing power に回答を求めた。このような対抗力(拮抗力)は、制度的なものであり、ここでは詳しく論じることのできないような様々な形で実現されるしかない。それには選挙(多数派の利益を守るグループへの投票、立法(労働保護立法など)、市民運動などが含まれるが、それよりも大事なことは、多数者がまずこのことを理解することであろう。
さて、ライシュの著書も、結局は、この対抗力(本書では、「拮抗勢力」と訳されている)を多数者が得ることが「資本主義」を守ることになるというガルブレイスの結論につながっている。
最後に予言的なことを一つ付け加えておこう。米国大統領選挙におけるトランプの勝利が上で述べた文脈の中で生まれたことは疑いなく、トランプ支持層の中に現在の資本主義のありかたに反感・不満をいだく人々が多数いたことも間違いないであろう。しかし、トランプ大統領がこれら支持者の期待するような政策を実施するかはまったく疑問である。むしろそうはならないであろう。
なぜか?
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