アメリカ合衆国のネオリベラル政策や金融資本主義、プレデター主義の問題点をあげつらってきた本ブログだが、アメリカ人の行動に感心することもある。
今回のトランプ大統領の入国を制限した大統領令の一時停止を命じたワシントン州シアトルの連邦地裁決定もそうだが、それを不服として命令の即時取り消しを求めて上訴を受けた連邦高裁もトランプ政権側の訴えを退けたことにも、感心する。
これが日本だったら、日本の裁判所が政権に逆らう決定・命令を出すことができるか、おおいに疑わしい。というよりないだろう。戦後の一連の違憲訴訟、またごく最近の沖縄辺野古に関する福岡高裁の決定など、政権の顔色をうかがってばかりの日本の裁判所・裁判官には不可能なことではなかろうか。日本の裁判所の追随主義、付和雷同主義(コンフォーミズム conformism)は、日本人ならだれでも知っていることである。
だが、この付和雷同(右むけ右)は、「和」(調和、harmony)、つまり美徳とさえ考えられている節があり、裁判官や、官僚、政治家など一握りのエリートに限らない。大学でも、自分の考えを素直に表現できず、教師に問われると、となりを観ながら、「やっぱり、・・・」と世間一般に流布している見解を言葉にする学生が多いように思う。世論調査や選挙でも同様である。
このことは世界的にも知られているらしい。有名な小話に次のようなものがあることを知っている人も多いだろう。
各国の人々、男女の乗っている小船が沈没しそうになった。男性が船から海中に飛び込めば、女性だけは助かる。このとき、船長は、各国の男性に次のように言う。
イタリア人、「女性も飛び込んでいるよ。」
フランス人、「飛び込むな。」
イギリス人、「紳士なら、飛び込むはずだ。」
ドイツ人、「飛び込め、という命令が出されている。」
日本人、「みんなが飛び込んでいる。」
これに反して米国では、人々は自分の考えにしたがって行動する。今回の米国大統領選挙戦でも、民主党では、若者たちが民主社会主義を唱えるバーニー・サンダースがヒラリーと接戦となり、共和党では、穴馬のトランプがこれまでの「新自由主義政策」の結果を否定するような政策をとると主張して新自由主義の犠牲となってきた有権者の多くに支持された。
これは、エマニュエル・トッドが言うように、これまで「新自由主義」をリードしてきた米国で、アングロ・サクソン的、「自由市場的」資本主義で、それを拒否するような大きなうねりが現れたことを意味するものであり、これは諸個人の自由を大切にする「民主主義」の成果だたと言えなくもないだろう。ちなみに、アングロ・サクソンの本家、イギリスでも、昨年、金融の中心地ロンドンや高学歴・高所得の有権者ではない、庶民の(労働者workers)の多くがEUからの離脱(leave)に票を投じた。それはEUの非民主的運営、新自由主義・金融資本主義への奉仕に反対したからである。
ただし、トランプ主義という怪物がアメリカ国民の救世主となることができるかどうかは、もちろんまったく別のことである。むしろ、アメリカが新自由主義を過去のものとして、かつて1930年代のルーズベルト以降、めざしたような「人間の顔をした資本主義(企業者経済)」を生み出すには、まだまだ一波乱も二波乱もありそうである。
そして、その時には、日本もその流れに追随するだろうと予想することもできよう。
だが、その前に米国の大波乱が米国や世界にひどい結果をもたらさないとも限らない。いまはそうならないように祈るばかりである。
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