2017年4月6日木曜日

教育勅語を読み、古事記・日本書紀に現れたる「道徳」をみる


今日は市内の九条の会の集まりがあり、教育勅語を実際に読み、その問題点を探るという試みがありました。

教育勅語は、次のような出だしで始まります。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國 體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

 この後に具体的な徳目や義務が列挙されることは、前のブログで書いた通りです。
 さて、「わが皇祖皇宗が国をはじめたのははるか遠い昔であり、徳を樹てることが深厚だった」というほどの意味でしょうから、どんなに皇祖神や歴代の天皇が有徳だったのか、調べてみる価値があるというものでしょう。
 もちろん、そのためには8世紀初頭以降に世に出された日本書紀、古事記、続日本紀、古語拾遺、新選姓氏録などの諸々の古文献が役立つことはいうまでもありません。

 実は、私は現代経済以外に古い時代、特に縄文以来の日本列島の歴史人口統計学、家族史に興味があり、時間を見つけては、日本古代史や考古学(縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代)関係の書物・論文・報告書をこの一年間、ずっと読み続けてきました。考古遺跡(縄文や弥生の住居跡、古墳、官衙)や寺社などもずいぶん訪れました。もちろん、古事記や日本書紀をはじめとする古文献もかなり読みました。
 そこに何が書かれているかは、日本古代史の専門家なら、改めて読み直さなくてもすらすら出てくるのでしょうが、私は歴史人口統計学以外の領域については素人です。古事記と日本書紀も詳しいところではずいぶんと相違があるようですが、見方によってはそれほど大きな相違はないといって良いのかもしれません。そこでボリュームのある日本書紀をさけ、とりあえず分量の少ない古事記をあらためて拾い読みしてみました。

 ところが、こうした問題関心からあらためて古事記を読むと、いやー、びっくりというしかありません。
 父母に対する尊敬、兄弟愛、夫婦相和、修学、滅私奉公などの徳目もよく探せばないわけではないかもしれませんが、むしろ、それにまったく反する出来事がきっしりつまっています。(日本列島内外の)他国に対する突然の侵略、親に対する反逆、兄弟の不和、夫婦の仲違い、私利私欲の追求、だましうち、(武烈や雄略による)皇位継承者の殺傷、臣下への理不尽なしうち、等々、これが有徳の君主かとあきれかえるような話が、これでもかこれでもかと書かれています。
 一つ一つ具体的な指摘をすることもできますが、長~いブログになってしまうので、今日のところは断念します。

 戦前、皇国史観全盛だったころ、いったいこうした記述を子どもたちにどのように教えていたのでしょうね~。
 ものの本によると、素朴な疑問を持った子どもに質問された教師が返事に窮したという話はききます。
 また(かつてのソ連でも同じような状況があったようですが)、独裁国家では人々は二重倫理に陥り、対外的・公式的には長いものに巻かれる(コンフォームされた)発言をし、一方、対内的、つまり心を許せる身内には、本心を話し、笑いとばすといったことが行われたようです。これはかつて大学卒業後将校として勤務していたことのある親戚の人からも聞いたことがあります。

 このように書くとネット右翼の方々から「自虐史観」というレッテルを貼られるかもしれませんが、私は自分を虐待したことはありませんし、これからもしないでしょう。
 むしろ教育勅語の命じる滅私奉公の義務を遂行したならば、過労死したり、戦死したり、生活を破壊され、本当の自虐になってしまうかもしれません。私は社会経済史家として真実・事実を明らかにし、私たちの命や生活を破壊しようとする勢力からわが身を、またわが同胞の身を守りたいだけです。

 本当の自虐史観におちいっているのは、むしろ愛国主義・ナショナリズムの名の下に自らを虐げることを人々に推奨しているネット右翼の方々ではないでしょうか?


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