2017年7月18日火曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 16 安倍を支えたリフレ派ブレインたちの言い訳

 現在、アベノミクスをかつて支持していた「ブレイン」たちの言い訳があちこちでなされている。
 その一人、浜田宏一氏や岩田規久男の言い訳を紹介し、批判したサイトを一つだけ紹介しよう。
 
Money Voice
http://www.mag2.com/p/money/27546
 
   そもそも「物価は貨幣現象」というのが、浜田氏や岩田氏、黒田氏などの「リフレ派」の主張だった。
 もちろん、物価が貨幣に密接に関連した現象であることは、誰も否定していない。問題は、「貨幣現象」という表現を超えたことを、彼らが主張していることである。彼らの主張は、むしろ「貨幣数量説」と呼ぶ方が正確である。
 では、貨幣数量説とは何か? それは物価水準が貨幣ストック(市場に供給されている貨幣量の総額)によって決定されるというアイデア、教義である。それは次のきわめてシンプルな数式によって示される。
   PQ=MV
 この式で、Mは貨幣量、Vはその流通速度(年を単位とすれば、その平均使用回数)、Pは物価水準、Qは財やサービスの生産量である。
 ここで定義より、MVは(一定期間内の)総流通高、PQは(同じ期間内の)総生産高となる。両者は、一定期間内には均衡する(等しい)と考えると、上の式が導かれる。
 次に、両辺をQで割り、P=MV/Qという式が得られる。
 次に、貨幣数量説の論者は、次のように言う。
 1)貨幣量Mが増加すれば、それに比例して、物価水準Pは上がる。
 2)流通速度Vは、ほぼ一定である。
 3)生産量Qが増えるとき、それに比例して貨幣量Mが増えれば、物価は一定である。
  (生産量の成長率より貨幣量の成長率が高いときに、物価水準は上昇する。)

 しかし、この一見して正しそうな議論は、様々な現実離れした想定をしなければ成立しない。一ダース以上あるが、そのうち、最重要なものだけをピックアップしよう。
 1)流通速度Vは変化しない。(V一定の想定)
 2)貨幣量が原因(独立変数)であり、物価水準が結果(従属変数)である。
   (因果関係の<貨幣→物価>の方向)
 3)貨幣量は、現実の経済社会の諸要因とは独立に、中央銀行によって自由に決定されうる。(いわゆるヘリコプターマネー論)
 4)貨幣量は、実体経済(Q)の変化に対して「中立的」である。(これが本来の、つまりフリードマンの「貨幣数量説」の見解だったことに注意。)
 5)貨幣は、財やサービスの取引にのみ用いられ、資産の取引には用いられない。(少なくとも、上式の前提はそうである。つまり資産取引を視野に入れると上式は成立しない。)
 
 しかし、実際にはこれらはとうてい成立しそうもない。
 1)流通速度がかなりの短期間に変化することは、しばしば見られたことである。
 2)これについては、あとで詳しく述べよう。
 3)貨幣量は、現実の社会経済的諸要因とは独立に、中央銀行によって自由に決定されるわけではない。このことは、今回のアベノミクス(異次元の金融緩和)によっても示されたが、中央銀行がかなり自由に決定することができるのは、ベースマネー、つまり中央銀行が市中銀行に供給するマネー部分だけである。実際、この数年間にベースマネーは日銀の国債購入によって異常に拡大した。しかし、市中銀行が社会(企業、家計等)に供給する貨幣量(貨幣ストック)は、それほど増えていない。またインフレーションが生じたわけでもない。現実の貨幣量に大きい影響を与える社会経済的諸要因については、これまでも指摘してきたが、今後も指摘することとなろう。
 4)浜田氏や岩田氏は、物価上昇が景気をよくすると述べるが、厳密に言えば、このような見解は元祖「貨幣数量説」のフリードマンのものではない。それはFRB議長を務めたバーナンキの思想・政策に由来する。その思想は、カルトじみたものであり、簡単には、インフレ期待が人々によって持たれるならば、人々は成長を確信して消費支出を拡大することになると要約される。
 しかし、はたして中央銀行の政策が人々に同じインフレ期待をもたせるに至り、その結果また同じく一様に成長期待を持つと言えるだろうか? ガルブレイスが彼の思想・政策を「バーナンケンシュタイ」と揶揄する所以である。
 5)「マネー経営資本主義」がくびきから解き放たれた現在、巨額のマネーが資産取引にむかっていることは、ことによると中学生や高校生でも知っているだろう。
 ところが、多くの財やサービスの取引と異なって、資産取引では、需要と供給のバランスが大きく資産価格を変動させる。資産を購入するために多量の資産購入資金が資産市場に投じられれば、それは資産バブルをひきおこすことになる。それはただで純利得(kゃやピタルゲイン)をもたらす。だが何らかのきっかけでいったん資産価格が下落し、純損失(キャピタルロス)が予想されるや、多量の資金が逃避し、資産価格をいっそう暴落させることになる。
 貨幣量の増加が、財やサービスの物価上昇ではなく、資産価格の異常な上昇(バブル)をもたらしたことは、1980年代末に日本人が経験したところである。

 ここでよく考えてみよう。貨幣数量説の説くところは、「物価水準」、つまり諸物価の一種の平均値にすぎない。ところが、実際には、個々の財やサービスによって価格はまちまちに変動(上がり、下がり)する。このような個別商品の価格変動を説明できない欠陥理論が「貨幣数量説」である。
 それでは、それに代わる物価の説明理論は、あるのか? もちろん、ある。それは費用=所得の理論である。
 ちょっと考えればわかることだが、私たちがモノを生産し、他の人に提供するのは所得を得るためである。もちろん、Aにとっての所得は、Bにとっての負担(費用)となる。
 人が市場経済のルールにそって所得を増やすためには、供給量を増やすか、価格を引きあげるかするしかない。このことを示すために、場面・必要に応じて、様々なモデルを提示することが可能だが、ここでは、賃金(労働者の所得)および利潤(企業の所得)と物価との関係を示しておこう。 
  P=(W+R)/Q 
 ここで、Pは個別の商品の価格、Wはそれを生産するのに要した人件費(賃金)、Rはその生産と供給によって実現した利潤である。ここでは、簡単のため、生産に必要な原材料費や設備投資(減価償却)は省略する。これはズバリ、生産費(利潤を含む)を産出量で割ったものである。例えば100万円で販売した商品の生産量が100単位であれば、一単位の価格は1万円となる。
 その際、企業が製品価格を安くするためには、人件費か利潤を減らせばよい。そうすれば、売れ行きが増え、結果的には、賃金も利潤もそれほど減らないかもしれないし、場合によっては増えるかもしれない。逆に、人件費や利潤を増やそうとして、価格を引きあげた場合、売れ行きが減ってしまい、目的を達成できないかもしれない。
 しかし、すべては不確実である。そのため、企業は簡単には価格を引きあげたり、引き下げたりしたがらない。重要なことは、価格は、人々の所得および支出(負担、費用)と密接に関係していることである。
 もちろん1997年以降の長期停滞--「リフレ論者」が「デフレ不況」と呼んできたものーーは、こうしたことと密接に関係しているのである。
 「異次元の金融緩和」は失敗するべくして、失敗したといわなければならない。
 繰り返すが、それは人々の所得と支出に関する状況を無視して、中央銀行のマネタリーベースをいじったにすぎない。
  
 「リフレ論者」がどのような見苦しい言い訳をしているかは、本ブログの本来の趣旨ではないので、あえて詳しくは紹介しないが、最初にあげたサイトをよく呼んで欲しい。
 彼らは、そうならなかった「偶発的な事情」をことさら強調するが、それらはいずれも理論の破綻を示すものに他ならない。
 安倍首相が白川日銀に圧力をかけ、白川総裁をやめさせ、黒田氏に交替させて実現した異次元の金融緩和だったが、黒田氏の約束した期限がとうに過ぎたにもかかわらず、適度なインフレとすばらしい経済成長、実質賃金の上昇は生まれていない。
 彼らは失敗したとは言えないので、「道半ば」、「失敗していない」などと取り繕うばかりである。黒田氏など、すでにリフレ政策を実施していた白川総裁に対して、期限を明示していないと非難していたが、その黒田氏の明示した期限はとうに過ぎている。すると、彼はその期限をさらに先に延ばし、先に延ばししてきた。「モラルハザード」もいいところである。
 誠実であるならば、「私が間違っていました」と言うべきだろう。















 

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