例によってつらつら書くと、すでに訳出されているヴェブレンの論文でも、ときどき気になるものがある。その一つは、関係代名詞の訳である。
例えば、 a child whose father is dead は、
「父親のいない子」「父親を亡くした子」などとなろう。が、中には「その父親が死んでしまったところの子」式の訳文を載せているものがある。
もちろん、誤訳とはいえない。しかし、 数行もの長い複雑な文章の中で、「その~ところの」が出てくると、「その」は何を指示しているのか、すぐに読み取れないことが多い。
そのようなときには、原文の文章を想像し、「その」が何を指示しているかを頭の中で確認しなければならない。当然ながら、いらいらする。
また the knife with which I usually cook なども、
「私がいつもそれをもって料理する包丁」式などは「不可」で、「私がいつも料理に使う包丁」などとするべきだろう。
今回は、最初から悩ましい文が続く。
The state of the civilization, and of the state of industrial arts, into which the remote ancestry of the Northern Europeans may be said to have been born ...
「その」は入れたくないし、思い切って日本語らしくしようとすると、原文との距離が感じられるし、・・・。ということでそのまま直訳に。
ともかく、syntax の著しく異なる言語をまたいで翻訳するのは「労多く益少なし」。
T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年) 続
第二章 古い秩序
一
北ヨーロッパ人の遠い先祖が生まれついたと言ってもよい文明と産業技術の状態は、新石器時代初期――北ヨーロッパにいくつかの証拠を残している石器時代の最初期の段階――である。ヨーロッパの旧石器時代は存在しない。というのは、これらの後のヨーロッパ諸民族を生み出した雑種の住民が形成される前に旧石器時代は終わっていたからである。その上、その痕跡は、この交雑した人種の住民が生活し、移動し、生存を達成した生息地のどこにも事実上ほとんどない。ヨーロッパ全体について見てさえ、旧石器時代と新石器時代の間に文化的な連続性はなく、また人種的な連続性も皆無ではないとしてもほとんどない、と考えられる。新石器時代は、ヨーロッパにおける発展に関する限り、(旧石器時代と)無関係に始まり、おそらく第四紀末にヨーロッパに地中海人種が侵入したとき、その侵入的な文化としてやって来たと考えられる。ヨーロッパの新石器時代につながる発展の初期段階は、ヨーロッパの領域外で、新石器時代の担い手がこの片隅に浸透する前に、仕上がっていた。
それゆえに、ある意味で、この新石器時代初期の生活術の状態が北ヨーロッパ諸民族にとって生まれつきのものと言えるかもしれない。このような命題が、この文化をヨーロッパにもたらしたと考えられる地中海人種の場合に妥当するかどうかは未解決の問題として残されていよう。それはここでは直接に興味をひかない。同様なことが、新石器時代初期に東方から、おそらくアジアからやって来たと見なされており、また同様にヨーロッパの地に分け入る前に新石器時代の段階に到達していたと考えられているアルプス種族についても当てはまる。ヨーロッパに侵入した時点で存立していたようなこれらの人種のどちらも、また両者合わせても――身体的であれ精神的であれ、やがて北ヨーロッパの海岸地帯で新石器時代の技術に助けられて増加し、いまだに生計を見いだし続けている北ヨーロッパ住民の祖型を提供するという意味では――北ヨーロッパ人の先祖とは見なされない。
これらの人種のそれぞれがこの先祖を生み出すのに貢献していることは疑いない。彼らは両者とも初発から、またはほとんど初発から、交雑した北ヨーロッパ住民中に存在しており、また明らかに常にこれらの民族の人種構成の少なくとも半分を占め続けていた。しかし、長頭金髪の種族が他の二つの種族と混交し、(その結果)この地域を新石器時代から連続的に占拠し、かつ今も住んでいる諸民族を北ヨーロッパに植民した特定の雑種の種族を生じさせるまでは、北ヨーロッパ人の先祖が事実上成立したと言うことはできない。これらの民族の人種の歴史は、これらの人種型のどれか一つから別々にではなく、この三つのつながった種族から構成された雑種住民の歴史である。それゆえに、その構成に必須な三つの人種要因がつながって来るまで、それが始まったと言うことは適切ではないのである。
新石器時代の環境下にあるバルト海と北海の気候地域で生存し、また自分たちの居住地をあらゆる来訪者に対して守るのに適しているという適者選抜試験は、三つの構成要素の種族に対して別々に適用されることはなかったのであり、したがってその三つの種族の各々の最終的な適性試験ではなかった。試験と、その実験から引き出される結論とは、三者が本質的な構成要素となっている構成された住民に適用されるだけである。数千年間を通じた選択的な増加の間にその三者の構成要素型のどれも当該地域のどこでも、他の二者またはそのいずれをも追放せず、また人種型のどの一つもいかなる時点でも三つの雑種の子孫を追放しなかったのであり、明らかにそれが事実である。少なくとも間違いないのは、これらの住民はこの長い期間を通じて雑種的な混交であり続けたのであり、また一方、混交の性格は、この交雑した住民が北に向かうほど金髪が多く、南に向かうほど黒髪が多いという風に、また初発の機会が平等だとしてさえ、長身・黒髪(地中海)の住民が他の二つの構成種族のどれよりも、この特別な気候地域内の北部と南部の両方で、少ないという風に、位置的に変わってきたことである。
この論旨を補強するような対照例としては、このバルト海・北海地域に近いところにあるどの国からでも説明のための事例を引き出すことができよう。この地域の雑種住民は、ここでもまた、ほとんど絶え間なく境界を壊し、力ずくで他国に移住し、そのためこれら他民族との交雑によって混血してきたた。しかし、彼らは、その実験がまったく確実となるのに十分な時間を持っていた場合には、どんな場合でも、先住民を排除し、移住時にいた(先住)人種を自分たちの人種構成に変えてしまうような結果をもたらし、民族の人種構成を作り変えることには成功しなかった。――少なくとも北部の雑種を作り上げることになる人種的要因の一つ(長身金髪)は、やがてすべての場合に、その要因を取り入れたこれらの周辺住民から選択(淘汰)によって消え去った。そして複合的な北部の住民は、その複合的な性格では、バルト海・北海の地域外に住むのに適さないことが判明し、それと同時に、その複合住民は複合せずにはこれらの地域を保持するのに適さないことが判明した。
また純血種であれ混合であれ、集団移動であれ浸透であれ、異なった人種に由来する侵入住民は、この地域から北部の雑種を追放することに成功しなかった――たとえばバルト諸国、とりわけ淘汰の過程によって金髪雑種民族に属することとなった当該地域の北部と北東部へのフィン族(ラップ族)の侵入のような実験がかなりの規模で試みられたにもかかわらず、成功していない――。少なくともフィンランドの事例では、またそれより不確かだが、北と東に向かう他のところでは、侵入者の開始は初期住民の言語にとって代わるほどにずっと成功したが、長期的には、住民の人種構成は実質的にフィン族が来る前の状態に逆戻りした。そのため、バルト海の二つの海岸の間には知覚できるような人種的相違は現在ない。
その上、初期のバルト文化は、実質的にすべての北ヨーロッパ人の本来的に慣習となっていた生活様式の状態を示すものとして興味をひく。実際、この文化はこれらの人々に生得的だと言ってもよいかもしれない。この文化は、証拠から見られる限りでは、長期間にわたって――バルト住民の文化が提供した生活様式に適合していることを試すのに十分長く、また同時に外部の他の人種的要素や集合体との接触にさらされてきたため、これらのバルト諸民族の特有の雑種混合が、その技術的な基礎にもとづき、自らの置かれている地理的および気候的条件下での生活にどの競合的な住民より適していることを明らかにするほどに十分長く――ほぼ順調な経過をたどってきた。証拠が許す限り、この文化期の特徴と顕著な出来事を要約的に繰り返すことは、その主張の正しいことを証するであろう(2)。
総じて、バルトの石器時代は比較的小規模――小規模な農耕システムとその後の混合農業システム――に描かれた地理的状況に置かれた相対的に進んだ野蛮時代と特徴づけられるかもしれない。それはおそらく野蛮の比較的低い段階と呼ぶのが適正かもしれない。この二つの代替的な用語のどちらがよいかについては議論の必要はない。それらはともに技術的に有効な記述的用語というよりはむしろ示唆的なものである。そして同じく大雑把な名称の青銅器時代がやってくるが、それは全体としてより大きい技術的効率の登場とより大きい富の蓄積によって――またおそらくより定住的な生活慣習によっても――特色づけられるということに注意する必要がある。
(1)例えば、A.H・キーン『過去と現在の人類』第九章を参照。
(2)注Ⅱ、291ページ参照。【ページは、原著のもの】
新石器時代の住民は、その期間中、またその領域全体を通じて、耕作と牧畜に利用できる土地が決めるままに、地表に分散した決して大きくはない規模の開放的な定住地に住んでいたように思われる。これらの定住地が村落にまとまっていたか、それとも開放的な国土上にゆるやかに個別世帯に散らばっていたかは、確かでない。しかし、いずれにしても町の証拠はなく、大きい村の証拠もなく、要塞の痕跡や天然の防御場所を好んだという証拠もない。武器の相対的な少なさ、そして――利用できる証拠によれば――どんな形の防御的な甲冑もまったく欠如していることと関連してとらえると、この無防備な定住地の分布は、おそらく平和な生活習慣がかなり広まっていたという示唆を伝える。ただし、資料が示さないこと、またおそらく示すことのできないことを考慮に入れるように適切な注意を払えば、この文化が特徴的に平和的なものであったという状況証拠を無視することはできない。またすでに上段で示した考察に照らしてみると、必然的に、その住民が概して平穏な気質を持っていたであろうということになろう。石器時代だけではなく、それに続く青銅器銅を通じて同様の状況が続いており、また状況証拠もある程度の一貫性をもって同じ結果を示している。特に後期には、いくつかの場所で人口分布をいくぶん詳しく跡づけることができ、地形に従って最も実用的な浅瀬と道路を考慮したことが示されており、これらの浅瀬や道路の多くはいまだに使われている。
(3) デンマークの土地におけるきわめて多数で広範な台所ゴミ――廃棄物の堆積(貝塚)――は大きい定住地がなかったことについての疑問を提示するかもしれない。貝塚の初期の調査では、その規模がかつてこの場所を占めていた定住地の規模と存続期間をほぼ示すことがいくぶん単純にも自自明と受け取られていた。この問題のもっと後の、より批判的な取り扱いは、明らかに次の結論に達している。すなわち、とりわけ後に増加した貝塚の多くについては、これらの貝塚が主な関心と永住地とを遠く離れた内陸の耕地に求めていた住民によって海岸上の場所の季節的な占取によって形成されたものだったということである。一方、もちろん、貝塚が同時に恒久的な漁村のしるしだったかもしれないことも否定されていない。
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