2019年3月4日月曜日


T・ヴェブレン(3)

 ヴェブレンはまた、戦争全般の問題に、また直接的には、当然ながら第一次世界大戦に深い関心を寄せていた。


 戦争、軍事への訴えは、国内の困難を「愛国心」(patriotism)に訴えることによって対外的にそらすための(「不在所有者」にとって)有効な一手段である。これは、『近時における不在所有 アメリカの事例』でも一つのテーマとなっている。しかし、戦争は結局のところ社会に利益をもたらさず、人々の負担を重くする。そして、その負担は、最終的には社会の「基礎的な人口」(つまり今風に言うと99%の人々)に転嫁される。
 しかし、かつてない多大の混乱と破壊、欠乏、負担増をもたらした第一次世界大戦の後の「休戦」の事態にあっては必ずしもそうではない。しかも、文明諸国民(欧米諸国)の政治家たちは、ここで「ボリシェヴィズムと戦争」という運命的な選択にせまられた。そしてジレンマのどちら側に立つにせよ、財産を持つ人々にとっては、「小さな慰め」にしかならなかった。このジレンマを深く分析する。
  
 本論文は、The Freeman. Vol. VIII, May 25, 1921 年に掲載された。



ボリシェヴィズムと戦争との間で(T・ヴェブレン、1921年)

 平和が戻ってから、文明諸国民は、ボリシェヴィズムと戦争との運命的な選択に直面することになった。これまで公式の声明はこの事態を認めてこなかった。また公的な新聞もこの皮肉な運命について論評せず、公的な演説者もそれに注意を払っていない。それは疑いなく事物の性質――公的新聞と公的演説者にかかわる事物の性質――の通りである。もちろん、それは不愉快な事態であり、人はそれを見逃したいと思っている。そして、それは高名な政治家が解説するこのとのできないようなジレンマをなす。そのような政治家は、どちらかに立たねばならず、自分の財産を楽観主義の表明にゆだねなければならない人にとってはジレンマのどちら側に立ってもわずかな慰めしかない。
 だが、それなりに情報を得ている人になら、ちょっと考えただけで、主要な事実は明らかであろう。それは、事実上、休戦に続くこのかすかな平和に含まれる皮肉な運命性の中で最も大きく、最も明白な事実である。またボリシェヴィズムとそこなしの戦争の間の決定の箇条に立っているこれらの諸国民の中では、もちろんアメリカがその他の文明人とならんでやってくる。おそらくは、いくつかの諸国民のように無謀にではないが、他のいくつかの諸国民よりもはっきりと瀬戸際にあって。
 文明諸国民がそのように直面しているのは、二つの代替的な政策路線の間の自由選択の問題ではまったくない。それはむしろ環境の変化の問題である。いまはまだ事件の外的な進展が明瞭でないため、まだそれは代替的な種類の行為の間に公然たる選択のように見える。さしあたり推移は戦争に向かっているように見える。しかし、見える推移は、主に、これらの様々な国民における当局によって作成されている政治家らしい策略の推移である。むしろそれから基礎的な人口の間の感情の長期的な推移である。
 政治的な策略の推移を方向づけるか、それに従うことを自分の義務的な特権としているこれらの政治家たちが彼らのかく直面している邪悪な選択を公的に承認しなかったという状況は、おそらく政治家らしい沈黙のせいであろう。政治家術は、事物の性質上、必然的にひそかなものとなる。それは政治家たちが自分の取り扱わなければならない状況の中の主要な事実を全体的に無知で知らないということではまずないだろう。検閲を受けた新聞派遣員のほのかに宗教的な光からさえ、これらの主要な事実を概略的に見ることができる。情報源がすべて当局の恣意にまかせられている一方で、適切な事実を知しることが公的な圏内に慎重に保たれている。実際、基礎的人口が彼らの事柄を管理する役人たちの信頼を失ったことは明らかである。そのため、徹底した民主主義的な諸国民の中でさえ、政治家のようにふるまう役人は、適切な事実を当局に知られないようにすることを賢明なことと考えている。したがって、この点に関する政治家らしい役人の密かな沈黙が彼らの側におけるどんな程度もの無知を示すと考える理由はない。また彼らの様々な提案およびすでに取られた方策は、政治家たちが暴くのは都合が悪いと考える多くの適切な事実があるということになる。それゆえ、政治家らしい策略の眼にみえる推移がボリシェヴィズムに対する相殺として戦争の方向に一貫して向かうことはとりわけ意味深いことである。
 「ボリシェヴィズム」というのは粗雑な記述的用語である。そしてここでは、一般的な語法以上に正確な意味を与えようとせずに、そのように使うことにする。一般的な語法は、まだこの言葉によく定義された意味を与えていない。しかし、実際にはそれはこの言葉を使用する人の間では、粗雑かつ一般的に理解するのに十分なほどはっきりしている。この広まっている用法では、この言葉は、少なくとも既存の経済的スキームに代替するような種類の革命運動を常に示す程にはっきりした意味を持っている。この点を超えると、ボリシェヴィズムを支持する人と反対する人の間に合理的な意見の一致はない。それは思うに、古い経済体制にかわる新しい経済体制の平和的な交代を意味するかもしれず、それとも暴力に訴えることを含むかもしれない。それは状況による。しかし、いずれにせよ、ボリシェヴィズムは、ある点で既存の法と慣習の転覆を含むという意味で、法の外にあり、法を侵犯している。
 いずれにせよ、ボリシェヴィズムは、事物の既存体制と和解できず、紛争点は経済的な性質のものである。それらの最低の用語に薄めると、これらの紛争点は単一の項目の下にまとめられうる。つまり不在所有権の禁止である。この主要な項目に上では、ボリシェヴィズムと既存体制との紛争は和解不能であり、考えれば、マイナーな紛争点のいずれもこの主要な論点の項目から生じるということがわかるだろう。いまのところ、ボリシェヴィズムがこの一つの行動原理より他の一般的な原理を含むと想定する包括的な根拠はない。ボリシェヴィズムの経験はまだその精神がこれと同じほど広い関連の何かを有する他の行動原理を要求するかどうかを示すか、明らかにする機会を持ってこなかった。事実上、それはこの一つの大きな不在所有権という制度を捨てる運動であるように見えるのであり、この不在所有が文明諸国民の経済生活を支配しているのである。それゆえ、事実上、それは不在所有と基礎的人口との紛争であり、そこでは当局が不在所有制の諸権利の保護者として登場する。当局は既存の法と秩序の保護者であり、それが現存する条件の下では当局を不在所有の正当な権利の擁護者の地位に置く。
 それゆえ、今までは、行動原理については、ボリシェヴィズムのどのような実際的定義も、当面のところ、どんな同意がそこから出てこようとも、不在所有を捨てるというこの一つの性格づけしか含まない。しかし、方法、またはやりかたと手段の点で、ボリシェヴィズムはソヴェトに関与している。ソヴェトの組織形態がボリシェヴィズムの精神を鼓舞するこの行動原理を作り上げる指定された方法と手段のように見える。不在所有はソヴェト以外の他のなんらかの組織および統御形態によって廃止されるかもしれないと考える考えることができる。しかし、他のなんらかの統御方法にそのように頼るのは、ほとんどボリシェヴィズムと呼ばれないだろう。またソヴェト的行政形態に頼ることによって不在所有を廃絶することは、ボリシェヴィズム以外の何かと呼ばれうることはほとんどないだろう。
 不在所有者を奪うそのような運動では、ソヴェトはまた民主主義と代表制政府にとって代わり、必然的にそうであろう。というのは民主主義と代表制政府は、不在所有制の保証と優遇的な調整を超える他の目的にとって無能であり、不適切であることがわかったからである。民主的用法と法的解釈は近時にそのような展開をとげた。そのため、ボリシェヴィキ体制が成立するやいなや、議会政府と民主的適法性はそれらの存在理由を失うに至ったのである。
 その要素において、ソヴェトはニューイングランド史で知られている町集会にきわめて近似しているように見える。この言葉の辞書的な意味は、「集会」、「評議会」である。しかし、自己正当化された町集会にその権限内で不在所有制のすべての事項を請け負わせておけば、明らかに革命的な刷新、法と秩序の転覆となるだろう。
 ボリシェヴィズムのこの特徴づけは色彩なく、不毛のように見える。またそれはその味方にも敵にも適さないだろう。それはただわずかな修辞的な意味を持つにすぎない。弁護者も批判者も同じく彼らの聴衆の人間的な感受性をいらいらさせることになる用語を使用する。彼らにとっては感情的な問題、あるいはまたいわゆる道徳的な問題を提起することが必要である。そしてその使用のために、称賛し非難するのに与する用語が必要となる。しかし、ここでの目的は称賛でも非難でもないのであるから、色彩のない記述的な性格づけしか求められていない。また文明的な諸国民の政府がいま直面している政策選択の中で戦争に代わるものとして設定されているのが、この客観的な意味におけるボリシェヴィズムである。またボリシェヴィズムを戦争の持続および戦争の準備の唯一の代替物として語るとき、ボリシェヴィズムが必然的に平和を意味すると主張するつもりは毛頭ない。
 この単純で客観的なボリシェヴィズムの定義を設定する理由は、一部は不要な警戒を避けるためであり、一部はボリシェヴィズムをよく知られた無政府主義者、または正統派社会主義者、または完璧な共産主義者の態度と混同するのを避けるためである。ボリシェヴィズムと不寛容な共産主義者との相違は十分に明らかである。しかし、注意不足で厳しい批判家がボリシェヴィズムを社会主義者と混同し、そうすることで両者を一緒くたにけなすこと、とりわけ社会主義者の信用を地に落とすこも稀なことではない。しかし、ボリシェヴィキも社会主義者も両者が本質的に似ているとは認めないだろう。実際、正真正銘の社会主義者は、まったく理解できるように、ボリシェヴィズムの堅固な敵である。より厳格な順守の社会主義者は、人間世界の連鎖を支配する自然法の力によって、あらゆる所有制、不在所有制が終局的に老いて朽ちることを一貫して主張する。そして彼らは、ボリシェヴィズムがその正統的な想定を狂わせ、古臭くするという腹の立つ認識に到達しつつある。社会主義は死んだ馬である。一方、ボリシェヴィズムはそうではない。そして公認の社会主義者は残されたものの中の特定の譲り渡すことのできない持ち分にとりつかれるが、そのすべてが隣人的な気分の助けなるわけではない。社会主義者は既存の政治組織を手つかずに維持し、最終的に自分たち自身の受け継ぐのを期待していた。ボリシェヴィキは、そのような幻想を保持していないように見える。
 不在所有を廃絶するための運動以上でも以下でもないものとしてのボリシェヴィズムという無造作な性格づけは、それに賛成および反対の党派によって疑問とされやすい。またそれは権威ある出典からの章句から引用して容易に根拠づけることができない。伝わってきたボリシェヴィキの文書は、普通、不在所有を彼らの親しからざる注意の特殊な対象として語らない。またボリシェヴィキの実践は、この項目についてまったく首尾一貫していなかった。ボリシェヴィキの実践は、またおそらくボリシェヴィキの告白は、必要性の極度の協調によって推進される一連の揺れ動く妥協と便宜に従ってきた。そしてまだ全体としてボリシェヴィキの政策の推進は、結局明らかに、変化する条件の強調が許すような多くの一貫性をもってその方法を設定してきた。一方では、その直接の使用者による有益な財産の所有がきわめて確かにボリシェヴィキが作成しているようなボリシェヴィキ政策の統合的一部であり、まったく不可避的にそうであることがますます明らかになってきた。また他方、ボリシェヴィズムの敵対者が敵対者であるのは、それが不在所有の諸権利を否定するためであり、実際の他の理由によるものではないことも、同様に明らかである。
 ボリシェヴィズムは、不在所有にとって脅威である。それがその許されない罪である。しかし、それはまた既存の法と秩序の精霊に対する罪であるだけ、十分に道徳的な罪である。不在所有を禁止すれば、事物の既存の経済的および政治的秩序の基礎をなぎ倒すことになるであろう。よくもあしくも、それは既存の法と慣習の秩序を破壊し、ヨーロッパ文明の現今の局面を終末にもたらすことになろう。そのすべてがすべての文明諸国民において当局が代表するすべてのものを冒す。それは基礎的な人口の側からの当局に対する反乱となるだろう。彼らの事務所によって、当局は、不在所有の指定された保護者である。これらの文明諸国民のいずれにおける当局のケアと注意をいまだに集めている他のどんな利害も、この主要な問題にとってまったく副次的である。そしてどんなそのようなマイナーな利益も、この国民の有力市民の主要な問題に従属しつづけるだけで、公的な保護と公的な忍耐力をいまだに効果的に求めることができる。これは、あらゆる民主的な国民において近年形成されてきたような民主政府の性質から、またその民主的政府が承認されている用語の意味の範囲内で民主的である程度において、必然的に生まれる。有力市民とは多くの財産の不在所有者である。歴史的現在においては、民主的政府とは有力市民のための、有力市民による、基礎的人口の政府である。一方、ボリシェヴィキ政府とは――もしそれがあれば――あらゆる現在の民主的用法に違反して――非力な市民のための、非力な市民による基礎的住民の政府となるだろうと、言われている。それゆえ、遠かろうが近かろうがボリシェヴィズムの性質をもつ人々の運動を、正しくとも不正であろうとも、あらゆる手段で抑圧することがこれらの民主的諸国民の運命を導くすべての政治家の第一の義務となったのである。
 その間ずっと、戦争と休戦に続く状況の変化は、これらの民主的な諸国民の中の危機的な峠に至った。そのため、ボリシェヴィキの脅威を回避することを義務とする安全で正気の政治家にとっていまだに開かれていた唯一の実践的な政策路線は、さらなる戦争事業、さらなる持続的な戦争準備であり、また基礎的な人口の中に好戦的な気分を勤勉に助長することである。これは、文明諸国民が公然と認めることはないが、いまやはっきりと乗り出している類の政策である。そして、この種の政策は、少なくともボリシェヴィキの警告からの本質的な一時的中止を約束する。その将来の費用は高いが、この政策の便益は費用に相当する。とりわけ、有力市民に役立つ便益が費用に相当するのに、一方ではその費用が基礎的な人口にふりかかるのであるから。明らかに、だが上品におしゃべりする(戦争)否認者と同じく、すべての文明国の当局は、このジレンマから抜け出す方法を選んできた。休戦に続く平和は、軍事の拡大、国民的嫉妬の拡大、そして絶え間なき国民的宣伝に満ちた平和である。
 あらゆるボリシェヴィキ的気まぐれと幻想を実践的にただす手段は、愛国的憎悪と権威に対する法に則った従属である。戦争事業と戦争の準備は、基礎的人口における愛国的気質をもたらし、それと同時に当局に対する隷従的な従順を強要する。それゆえに、これらのことは基礎的な人口がボリシェヴィキ的な気分に向かうあの経済的不平に考えと感情を向けないようにそらすものと考えられるであろう。そして、まさにいまその目的を達成する他の方法はない。また、愛国心と戦争事業は、他の使い道を持たなくなった。
 これらの文明国の基礎的人口が愛国的ひびきと国民的嫉妬に十分にとらわれている限り、これら諸国民内部の、使うことのできるより多くを所有する者と所有するより多くのさしせまった必要を持つ者との間の利害と感情の分裂は棚上げされることになる。国民的憎悪と疑念の交響曲が国内で聴かれ、不在所有は安全となる。しかし、事実上の(de facto)平和の諸条件が当該社会に浸透することを許されるとすぐに、基礎的な人口は既存の法・秩序システムの下で自分たちに事実上相続権がないことを見積もるはめになる。そして、よかれあしかれ、次にやがて――予期されない混乱的原因がなければ――最終的には基礎的人口を赤旗のようなものの下に引き込むような感情の推移に従うはめになり、不在所有は安全ではなくなる。アメリカに関する限り、その出来事は遠い。しかし、アメリカもその方向に向かうように思われる。どんな社会もその思考習慣をゆっくりと、圧力の下でしか変化しないが、新しい条件の圧力が極端で、統一的、かつ一貫している場合には、伝統的な思考習慣の広範囲におよぶ断層(混乱)が最もよく規制されている社会でさえ探すことができる。
 この陰険な出来事に対する指定された安全策は、「戦争と戦争のうわさ」である。このすべての中で、もちろん、悲惨な精神的破滅を避けるために当てにしなければならないのは、戦争事業と軍事的規律の精神的な便益である。それは、不在所有の安全性と、不在所有に基礎を置くあの法・慣習システムの持続的維持を優遇しつづけるような社会における思考習慣を修復し、強要するという問題である。もちろん、物質的な点では、戦争事業は純利得をもたらさない。もちろん、物質的な点では、軍事支出は純損失と考えられる。それはこの国における現在の連邦財政支出の90パーセントほどに達すると言われている。もちろん、アメリカは――きわめて上品におしゃべりする(戦争)否認者とともに――戦争の機会を逃さない。しかし、軍事支出からの非物質的、精神的な報酬はまったく別のことであり、まったく別の価値を持つ。部外者すべてに対する一致した国民的憎悪を繁殖させ、軍事規律は当局に対する道徳的に従属的な気質と不合理な従属を誘発する。
     彼らは答えてはならない
     彼らは理由を問うてはならない
     彼らはたたかい、死ぬだけである。
そのすべてがしばしば分別と呼ばれるものにむかう。
 文明的諸国民の運命を導く政治家たちは、彼らの基礎的人口の注意が国民的威信と愛国的嫉妬という政治的価値からまったく真剣にそらされ、不在所有と彼らの産業システムの決定するような彼ら自身の物質的状況の考慮に向かう場合に、何が生じるべきであるかを素早く理解する理由を持っている。これらの諸国民の複数の国ですでに明らかになってきているように、そのような場合には、基礎的な人口に現在の所有および統御システムを捨てることによって失うものを持っていると説得するのはきわめて困難である。よりよいスキームが考案されており、現存システムに代わって設定される準備ができているというのはなく、ただ現存システムが国の産業とその人口の物質的富のケアをするのに公然と不適切だとわかっているというだけである。これらの文明的諸国民の中の揺れ動くボリシェヴィキ的気質とその結果現れる頑固なボリシェヴィキ的冒険をいまだに邪魔しているのは、過ぎ去った世代の遅れた保守主義、事実上は古びた過去からの精神的な遺制であるが、その時代には、不在所有はまだその国民の産業システムを引き継いでおらなかったのであり、国民的嫉妬はまだ公然とはばかげたことになっていなかった。既存秩序は、経済的であれ政治的であれ、しばらく前に存在しなくなった物質的状況に依存する。そして、その物質的に古臭くなった過去の精神的な対応物を人為的に保持することによってしか維持できない。
 過去二三年間の経験が十分に明らかにしているように、既存のビジネスライクな所有・統御システムはもはや働かないであろう。人間の性質はあるがままのものであり、産業技術の状態はいまやあるがままのものとなったので、既存の所有・統御システムは国の人口にとって相当な家計をもたらすほどには国の産業を管理するのに適していない。これはもっとましなシステムが知られており、老朽化した現存システムに代わる用意があるというものではなく――それほどの楽観主義の確実な根拠はない――、ただ現存するビジネスライクな統御システムが老朽化しているというだけである。
 現在の緊急性はこの事態を試験してきた。戦争と休戦は世界を不在所有と通常のビジネスにとって安全なものにしてきた。すべての文明諸国民は生産的産業の完全な操業を悲痛にも必要としている。歴史に知られている最も効率的な産業装備、最も豊富な天然資源、そして最も知性的で熟練した産業労働力が準備され、待機している。また二年半の間、産業のキャプテン(総帥)と偉大な政治家たちは、不在所有と通常のビジネスの支配下にこれらの前例のない産業資源をいくぶん利用するために協働してきた。これまでの彼らの協調的な努力の最善の結果は、飢饉、伝染病および赤い暴動に取り囲まれた産業の「無痛分娩法」(麻酔状態)という不安定な状態である。そしてこれらの文明諸国民のいまの最も希望に満ちた――そして疑わしい――期待は、この信じることのできないほど恥ずべき事態が不在所有と営利企業の持続的管理下にもっと悪くならないということである。その間ずっと、いつになく豊作で好ましい気候条件だったにもかかわらず、休戦以降の二年半に状況は目に見えて悪くなってきた。不在所有と通常のビジネスが国の産業的必要と食い違っていることは明らかである。そのすべてが証している。政治家たちが抑圧的手段を取り、人々の気持ちを何か他のことについていらだたせるのが狡猾なことである、と。



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