前回のアップデートからかなり時間が経ってしまったが、ヴェブレンの『帝政ドイツと産業革命』の第三章(翻訳案)を掲載する。
いつものことだが、なかなか日本語に翻訳するのが難しい英文の文章が並べられ、中には英語の単語の意味は明確なのに、文脈の中でどのような含意を持たせられているのががよく理解できない節もある。そのような節にひっかかると、一箇所で何時間も考えなければならなくなる。例えば、somewhat of a chance, much of the time という句は、除いても意味は通じるが、一体何を表現したいのだろうか、まだ完全に自信をもって日本語に訳したとは言えない状況だが、とりあえず仮訳ということで先に進むことにした。そうでもしないとずっと先に進めない箇所がいくつもある。
文章の意味を一つずつ確認し、また段落全体の位置づけを一つずつ確認しながら、少しずつ先に進むのは、かなり集中力と忍耐力のいる作業であり、70歳を目前に控えた身にはかなり苦しい。
また一般論として言うと、世の翻訳には、誤訳や不適訳がつきまとっており、また趣味(taste)の問題もあり、もっと趣味のよい訳し方もあると思う。自分が読んで意味をとれないような訳文は誤訳か不適訳に違いないはずであるが、訳者はもとの原文(英文)を知っているので、リーダブルではない日本語でもかろうじて意味を理解できるという場合もあるかもしれない。
ともかく、様々な問題があることを自認しながら、第三章を以下に掲げることにする。
T・ヴェブレン『帝政ドイツと産業革命』(1915年)
第三章 王朝国家
バルト海沿岸地域の古い居住地なのか、それともその外部の祖国と語られるようになったあの征服と移住の地なのかにかかわらず、先史時代の異教信仰から後期近代にかけての時代を通じてゲルマン諸民族にふりかかったこと、こうしたことはすべて本研究にかかわらない。またあの古めかしい文化状態の下で生き繁栄していたこれらの人々の遺伝的な人種的素質がどのようなものであるかを言及して示すのに役立つ場合を除けば、古い先史時代のこれら諸民族の特別な運命もこの関連で関心をひくことはない。これらの諸民族がそのように生き繁栄していたことは、その古い文化とそれにもとづいていた産業技術の状態が彼らの気質的な特徴に適合していたことを証するものである。この異教的な古代の特徴的な文化の成立に示されるような遺伝型の人間的性格がこれに関連して興味を引くが、というのも、それが現今の技術の提供する条件の下でこれらの諸民族が今日も生計を得るのに役立っているのと同じ人間的性質であるためである。
したがって概説的な要約する段落があってもよいだろう。概して、バルト海・北海沿岸の気候地域内に住んでいるこれらすべての北欧諸民族は、言語や国籍を問わず、一つの人種的特徴を持っている。これらの諸民族はすべて混成的な起源を有し、三つほど(またはそれ以上)の人種的種族から形成される雑種の住民であり、また散発的に投げ入れられた少数者を含んでいる。この人口構成は、いくつかの人種構成要素が雑種的な混合体に入っている相対的な割合からみて、西から東に向かってわずかに変化しており、また北から南に向かって体系的に変化している。ただし、現下の目的にとって、この特徴づけがバルト海と北海の気候地域の内部にしか当てはまらないという留保は常に必要である。したがって、これらの諸国の住民には雑種的集団に特有の広範な個人的多様性がしある。この広い多様性は、その民族に新しい環境および異質な環境にさえ容易に適応できる能力を与えるほどになっているが、しかし、この多様性さえ、結局、ある一定の広さの、選択的に決められた線内にとどまっており、これらの諸民族全体に共通する・一定の・柔軟ではあるが厳然たる人間的性質の全般的な傾向や原型が長期的に有効に成立すること(assertion)を否定するものではない――この型の人間的性質の根底的な特徴は、バルト諸民族が生き延びるのに成功した民族の生活史の初期に生み出した古い文明に示されるのと同じものである。先史のこの時代は、かなり安定した環境下で、明確に淘汰的な効果らしきものを実現するのに、またそこで彼らが何に適しており、何が彼らに適しているかを試すのに十分に長い間持続したこの住民の経験中の唯一の時期だった。この古い文化は、そこで淘汰というテストによって北欧人に生得的なものであると言えるが、その技術的な側面では、典型的に新石器文化の特徴を持っており、それ以外の特定の名称を与えられるべきではない。一方、その国内的、社会的、および市民的な諸制度の点では、それは、強制的統御の公的規定を欠いており、寛大な隣人監視の実践によって機能させるのに十分なほど小さな規模に限られていたという意味で、因習化されたアナーキー(無政府主義)と呼んでもよいだろう。利用できる証拠が示す限り、このような性格づけは宗教的儀式、そしておそらく基本的な宗教的な観念にも当てはまる。この異教的文化の政体が多くの出来事の後に最終的に崩壊したとき、その地位はヨーロッパの周辺諸国に定住したあの好戦的で海賊的な移民の間で封建制度へと発展した掠奪的な組織に受け継がれた。一方、バルト・スカンジナビア諸国の故地に残された住民の間では、それはやがて封建制を模倣して建設された似たり寄ったりの特徴を持つ強制的な統治体制によって置き替えられた。
これらの諸民族が雑種的派生物だという点に、またこの人口の人種的構成が新石器時代におけるバルト海・北海沿岸部の最初の定住以来決して大きくは変化しなかったという事実に、ここでは特に注意を払ってきた。ただし、――その到来が新石器時代のことだとしても――短頭・黒髪種族の交雑・混交が生じたのは最初の定住後のことかもしれないという保留を付しておこう。こうした人種的構成の状態からすると、この気候地域内の異なった民族間には、またはこれらの民族のどれか一つを構成する異なった社会階級間には、本質的には遺伝的な相違がないという帰結が生じる。
それらの雑種的な構成はまた、技術的な事象でも、また市民的および社会的諸制度のスキームや宗教的および知性的な観念の流布の点でも、あらゆる生活技術における幅広い適応性と並んで、外部から斬新な思想を受容するためのきわめて大きい能力を与える。同時にその同じ雑種の個人的な多様性は、受容された習慣の特定のスキームや制度が永続的な安定性を達成しないように妨げるように作用する。そのような人々の中では、どんな知識、信仰、利用法または統御のシステムも、技術的な変化や異質な文化との接触から生じうる新しい事態の衝撃を受けて、それらを変容させるのではなくむしろ破壊してしまうことになる程の不動性と硬直性を達成することはありえない。その結果、その下に構成されるすべての個人またはほぼすべての個人の気質的性向に――それ相応の寛容幅を伴うとしても――きちんと納まることになる慣習と確信のスキームは生み出されえない。それゆえ、このような性格を持つ人口の中では、習慣、知識および信仰の包括的なスキームは、事実上、必然的にある程度に暫定的となる。それは必然的に、その規則の下に生活する全住民の画一的で全面的な自然発生的合意にもとづくというよりは、関係する諸個人の多数派による承認(部分的には譲歩的な承認)にもとづくことになる。この有効な多数派がそのような標準的なスキームに与える承認も必然的に、かなりの程度に、自由なイニシアティブというよりはむしろ同意による承認である。
そうした事情であるということは、歴史時代にキリスト教世界の諸民族の上を通り過ぎた革命的な変化のどれ一つをとっても明白である。例えば、封建制が成長し、また後世に王朝国家が発達し、それに続いて立憲的土台に移行したときも、そのような変化が生じたのである。またキリスト教信仰が漸次的に受け入れられ、それに続いてその教会支配が成長して、それに伴って宗教的異端という多くの冒険が生じ、またそれらの種々の結果が生じたときもそうである。
この後者の範疇、つまり北欧人の中の宗教的儀式の冒険は、そのような気質の可変性や、またそれに続く知識と信仰の継起的なシステムの台頭、支配および衰微の作用について入手できる最も適切な説明になるかもしれない。もちろん、このこと自体は論争的な激しさに満ち、また摩擦熱を帯びた生活様式の一分野である。とはいえ、本論を加熱せずに説明用の材料としてそれに頼ることを認めるのは、本研究にかかわる主要な関心からはまったくそれている。
険しい道をたどり不名誉な結果をもたらしたあの献身的な企てはもちろん、信仰の領域における成功に満ちた出発においても、超自然的なものにかかわる思考習慣の新しい、または従前とは異なったスキームがいつでも特定の少数の個人の好みとして登場したことが見て取られよう。推測するに、これらの個人は、これらの問題について以前に受け入れられた見解に適合しないような、肉体的ないし精神的な訓練、またはむしろ両方の訓練によって、この新しい思考様式に適合的な心理状態に陥ったのであろう。超自然的事象の領域におけるそのような先駆者が例外的な、または誤りに満ちた個人、特別な能力を賦与された人格であり、おそらく病理学的な異常行動にさえ冒されているか、それとも呪術的または超自然的な影響の下にあったことは、通常、その改宗者以外の何人も認めるところであろう。すなわち、いずれにせよ彼らは普通の人種型の中の不規則な変種であり、その特異な気質的傾向がある特別な訓練や例外的な体験によって強められていたために、その当時正しいものとして受け入れられていた思考習慣に合わないのである。その結果生じる種類の信仰は、ついでやがて、その当時の情況の課す訓練がこの新しい潮流の宗教的観念に一致するような方向に相当数の人の思考習慣を傾けるようなものとなる場合に、より広く承認されるようになる。そして、もしこの新種の信仰が当時の日常的習慣化の趨勢とかなり一致するほどに幸運であるならば、その改宗者の一団はやがて全般的な信頼を獲得し、正統派の信仰へと拡大するほどに恐るべき人気ある宗教運動へと成長してゆくことになる。「万人によって、あらゆるところで信じられるものは、信じられるべきである」(Quid ad ominibus, quid ubique creditor,credendum est)。かくして多くの人々、恐らくどんなに挑発されても自分の羊毛から同じ毛織物を紡ぎ出せなかったと思われる人々が、新しい宗教的観念に同調することになる。そして次にその変種はその発生源となった元の信仰母体に取って代わるようにさえなるかもしれない。
ここでもまた、もし新しい信仰がまったく幸運にも世俗的事象の体系にきちんと一致するならば、その体系はその時々の必要によって形作られているのだから、この新しい信仰は唯一の真の信仰になるかもしれず、またそこですべての人に等しく義務的となるかもしれない。このことは、特に、もし同時にその遵守を実施する手段を所有したり見つけ出すことのできる支配階級の目的に合致しているならば、生じやすい。この最後の命題は逆も真となりうる。もし新しい信仰に体現された精神がその時々の日常的経験の訓練によって効果的に支えられるならば、その宗教的傾向に深く染められた人々は、人々の歓呼のうちに責任ある権能を持つ地位にたやすく投げ上げられ、そこで彼ら自身の利益の促進を、その利益を支える自分たちの敬虔な信念と結びつけ、それを自明で不寛容な不可謬性という成熟した段階へ育て上げるようになる。
慣習全体の事象にかかわる習慣的理想と信念の発生と成長の中で、あるいはどんな関連においてであれ、出来事の流れは、これらの宗教的真理の発端と普及を取り巻く環境と本質的に異なった性質のものではない。全国民の生活の顔を変えるような変化も始まりは小さい。つまり、さかのぼることのできる最初の過程は、普通、小規模な特色ある人間集団の側の何らかの公然たる行為から始まっている。これらの人々は、つぎにやがて運動が成功したとわかった場合には、洞察力と指導力を持っていると認められるであろう。かりに運動が承認とそれに続く効果を得ることができないならば、その宣伝のスポークスマンはそのとき、おそらく不健全な精神を持つ空想的な企画者だったということになるだろう。そのような事象の流れを比喩的に記述すれば、新しい精神状態の徴候は、まず先天的な性癖および例外的な露出度のために特別にそれに感染しやすいある一人の個人の態度に明確に現れるであろう。同じような感受性がそれ以外の住民の中で優勢となっている限り、また習慣化の環境が新しい観念に有利である限り、それはつぎにやがて多数の増加してゆく人々の思考習慣の中に定着するであろう――とりわけ、雑種的な遺伝の気まぐれによってその受容に特に適した気質を持つ変異者として生まれた人々の中で、または生活規律が例外的な厳しさでそうした方向に向けさせる人々の中では、そうである――。かりに新しい観念が権威筋または人々の擁護を標榜する立場にある人々の支持を得るようになれば、その趨勢は模倣によって、またおそらく強制的な遵守によって大いに支えられることになり、またそこで比較的短期間に当然の事、常識的な事になるだろう。しかし、そのような雑種人口の中では、新しい観念の浸透と確立にあれほど資するところのあった気質的多様性の広まりが同時にその持続をそれ相応に不安定にすることになるという留保を常に忘れてはならない。
この点は、近代諸国民の中で時折好戦的な思想が台頭したり没落したりすることによって説明されるかもしれない。ただし、その点を最もよく説明するのは、これらの思想の衰微ではなく、むしろ発生と支配ではある。そのような思想の、またそれらの外面的な表現というべき愛国主義的な憎悪の退潮は、(平和)宣伝と適切な訓育による攻撃的な教化というよりもむしろ等閑視を通じた旧情復帰の結果であるように見える。平和と親善のもとは、論争的な(平和)宣伝、「平和を維持する」ための精力的な戦争準備以外の何物かによってもたらされたようには見えない。
これらの近代国家には常にかなりの好戦的な精神が存在している。必然的にそうであるが、それはそれらの政府体制が必然的に強制的な性格を持っており、それらの支配階級が王朝的野心に動かされているからである。この点では、共和国はこの規則に対する大きい例外をなさないほど効果的に、無批判的に、王朝国家を模倣している。歴史的伝統と先例はそのように流れている。そのため常に紛争の危険性がある。しかし、特別な誘引がなければ、一般の住民は、他にも関心事があるため、戦いのために戦うといった生得的な気質を持っていないので、簡単に等閑視して平和的な思考習慣に入りこみ、そのため間関係については――国際関係についてさえ――親善とまではいかないにせよ平和的なものと考える習慣になっているのである。
しかしながら、気質的に常軌をいっした諸個人、また特別な階級へと伝統的に訓練されているか、それとも特別な階級的利害に傾く傾向のある諸個人は、容易に好戦的な企ての利点を直ちに見てとり、国民的な憎悪の伝統を維持しようとすることになる。愛国心、掠奪および特権が共通の論点となる。こうした性質の途方もない先天的な偏見を持つ個人が同時に残忍な誇大妄想の成長に有利に働く環境にさらけだされ、自己の特異な性向を支えるような無責任な権威筋と規範的特権の立場にたまたま置かれるようなところでは、その好みが簡単に人気をはくし、流行となり、適当に維持され巧妙に管理されれば、あらゆるところで習慣的に承認されるようになり、その結果、一般大衆を熱狂的に好戦的な気分に陥らせる。特に王朝的戦略に流れる歴史的伝統を持ち、強制、大権および忠誠の類に依存する日常的な制度体系を持つ国民の場合には、そうした結果となりやすい。
ドイツが、独自とは言わないまでも華麗なる成長の非凡な事例として一般的認識のうちに座を占めるようになったのはようやく一八七〇年の新しい出発以来のことにすぎない。もちろん、それが力を開花する歴史は、いまも生きている人々の記憶内にあるこの短い期間にとどまるものではない。しかし、ドイツ国民の生活史が近代ヨーロッパにおける出来事のありふれた進展からかくも顕著に分岐することになるための力を与えた新しい出発は、結局、この時代から遠くにさかのぼるものではない。ドイツ史のこの時代が始まる正確な時期を探求する者は誰であれ、先にあげた年よりも前のどの点に決める場合でも困難を覚えることになる。そしてその日付より前に国力の開花として生じたことは、それ以降に生じたこととの関連でのみ重要な意義を持っている。
この歴史的時期にドイツ人が顕著に達成したことは、統計の語ることに従う限り、人口の増加、産業効率の上昇、そして軍事力の拡大である。おそらくスポークスマンの見解では、もっと大きい重要性をもつもっと大きい成長が他にも主張されており、ここでは、こうした物質的な領域の外部におけるドイツ人の達成を割り引いたり、矮小化したりするつもりはない。しかし、これらの他の点における進歩の規模は、ある程度まで評価と意見の問題であり、その程度に応じて自己満足あるいは軽視の感情の影響を受けるかもしれないが、一方、上段で評価した物質面の増加には反論の余地がない。しかし、これらの物理的に計測できる優越性というしるしによって判断すると、ドイツ人のこの近代の開始点にあたる歴史的時期は、普仏戦争のいくぶん前としなければならないだろう。上述の三つの関連のいずれにあっても、すでにその日付の前に発展はかなり進行していた。しかしながら、その時期の始まりは一九世紀の第二・四半期におさまると言うのが妥当だろう。そして、国民が力を展開するための諸要因の中の主たる動因が他の二つの関連のどれでもなく産業効率の上昇にあったと言ってもよいだろう。そうした効率の上昇は人口の増加によってもたらされたことは疑いないが、主導権は、これら二つのもののうち、後者ではなく前者にあったことも疑いない。産業の進歩と人口との相互関係の中では、前者が優位であった。同じことは、もちろん、軍事力の強化についてもあてはまる。
また疑いなく、成長と効率の諸原因の中で大きい位置を占めるのは、賢明な政府の政策と巧妙な行政であると信じられているが、この政府の政策の評価については、自説が大きくものを言い、このような問題に関する自説は、賛成にせよ反対にせよ、どちらかにかたよりやすい。軍事力の展開は、明確に政府の政策の結果であり、また疑いなく産業の進歩を推進するべくそのような政策が追求されてきた(1-16)。後者に関連して提起される問いは、政府――またはドイツの概念を使うと「国家」――の真摯な意図と努力に関するものではなく、ただこれらのよき意図と努力がどの程度まで有効だったかに関するものである。またこの主題については意見が一致していないので、この命題は前提から外しておくのが最善であろう。
よく知られているように、ドイツ統一のための実践的運動は、ドイツ帝国が最終的に形成されたことで成功裏に終わったが、その始まりと初期の成功はドイツ諸邦の経済的必要性のためであった――あるいは国土は小さな領邦に分かれていたが、それらの小さい領邦の政府によって生み出された人工的な悪弊という重荷によって惹起された――と言ってもよいかもしれない。かくして実践的な方策としては、それはこれらの領邦の分断的政策が築いてきた障害のいくつかを除去するように企てられた関税同盟の形成から始まる。そして帝国内の経済政策のこうした同盟と統一性はいまだにその強さの主要な源泉の一つであり、特に国内関税規制の撤廃はそうである。
それゆえ、近代ヨーロッパの産業発展に対するドイツの位置と関係とは、必然的に、この近代におけるドイツ人の富と達成を研究するための出発点となるだろう。そこで、この主題については、近代産業で使用するために利用できる天然資源は、隣国で見いだされるものと種類も範囲も同じものである。少なくとも隣国のうち最も恵まれた国と比べると、この国の資源が品質的に少し等級が劣り、また量的にわずかに不足していることを除くと、ドイツ諸国を北欧全体から区別するものは本質的に何もない。そのうえ、生得的な性向と素質の点で、ドイツの住民は、事実上その隣人たちとまったく同じである。遺伝的資質――人種的な特徴――については、それは周辺諸国民の住民と同じ民族である。――いっそう特にオランダ人、ベルギー人、そしてイングランド人と同一である。その雑種的な系統のために、ドイツ人はこれらの他の国民と同じように、広範囲の技術的な知識を獲得し、利用するための大きい能力を賦与されている。また、これらの他の国民に生命を与えている同じ職人的技量の遺伝的傾向によって、彼らは隣人たちと同じく産業と節約に勤勉に、かつ思慮深く熱中している。この関連において、主にドイツ人を他の諸国民から、またいっそう特にイングランド人から区別するものは、ドイツ人がこの産業制度にとって新参者だということである。またドイツの事例の差別的な特徴は、主に彼らがいまだに見習い期間中であるというこの事実に由来するものである。
ドイツ人の生活史における今の時代が始まったとき、つまり一九世紀の第二・四半期に、ドイツは、西側の隣人、とりわけイングランド人と比較して、はるかに遅れていた。もちろん、これは歴史の常識である。必要ならば適度に斟酌し限定して受け取ってもらってもよいかもしれないが、ある決定的な、または少なくとも本質的な点でドイツが、特に英語諸国民の占める位置から見て時代錯誤の状態にあったという主要な事実は変わらない。
当時のドイツ文化が優れていた分野でその長所を見下す必要はなく、またそれを過小評価しようと試みても無益であろう。ドイツ文化は人類の遺産におけるあまりに大きい事実であるから、言葉による暴力(批判)に真剣に悩むことはない。しかしながら、ドイツに特有な文明が卓越していた――実にドイツが勝ち誇っていた――あの天才的な領域は、ヨーロッパで当時形成されつつあった体系下の生活にとっての適合性に大きく向かっていると評価される効率性の水準にはなかった。それはそれにとって代わったものよりもっとましだったかもしれず、あるいはもっと悪かったかもしれないが、いずれにせよ稼働中の体系の明確な一部をなしていなかった。この後に証明するように、その体系の達成にドイツ国民の集積された知恵のなした貢献は取るに足らないものにすぎない。
ドイツは、産業技術およびその政治制度において遅れており、また制度体系中のこれらの基本的な働きと密接な相互関係を持つか、それともその圧倒的な影響下に入っているような市民的および家族的な生活体系の特徴の点でも遅れていた。これは、表面的な慣行の特徴および無用に装飾的な文化の要素を除けば、当時のドイツ国民と英国国民の事例との顕著な相違である。産業の点では、ドイツはいまだに手工業の段階にあり、制度的な障害物と些事の細心の標準化という意味合いで述べられるすべてのものを伴っていた。イングランド社会をその当時に立っていた地点にもたらしていた進度歩によって計測すると、
ドイツの産業制度は、二世紀半か三世紀ほど遅れており、エリザベス女王時代のどこかにあった。その政治制度はいっそう古めかしかった。そして社会関係を細部にまで支配する慣習は、この経済的および政治的状況が必然的に育てあげるような性格のものであった。
このように描かれる性格づけは、均衡のとれた包括的な機能システムとしての産業組織に当てはまる。それは西ヨーロッパのより近代的な産業社会とのドイツの不可避的な接触のために様々な異質の細々したことがこの古めかしい制度に導入されていたという事実を見落とすものではない。しかし、外来の要素が古めかしい体系の枠組みを本格的に乱し始めたのは一九世紀後半になってからだった。
政治的にもまったく同じことがあてはまる。ただし、この領域の国境を越えて入り込んだ近代思想はより少なかったし、またそうした近代思想は政体組織に等しく確実な惑乱のための拠点を持っていなかった点を除いておこう。ドイツは、いまだに一貫して「領邦国家」――ゲルマン諸民族の中においてのみ最上の成熟に到達し、そして祖国内で目覚ましい粘り強さをもってその地位を保持していた特別に小さく特別に無責任な専制国家――のパターン上に組織されていた。
領邦国家、あるいは呼び方を変えると、洗練されていないその模造品は、北欧諸国でも知られていなかったわけではないが、他の北欧諸国民の中では少し前に古めかしくなって消えてしまった。そのため北欧諸国、つまり地理的な必要性から小さくなるように設計されたように見える諸国さえ、ドイツで統合(supersession)の問題が(効力のない)思弁的関心を引き付け始めた頃までには、この古い流儀の国家政策と政治的統御を捨て去っていたように見える。領域国家とは実際には領域的な統合体であり、その住民は用益権として特定の君主に属する財産と考えられている。この観念は明らかに封建制に由来するものであり、それを実現可能な形の政治組織にする心的習慣は主人個人に対する人格的な従属という封建的な習慣である。そのような政治的従属にあっては、人格的忠誠が主要な美徳、その継続に先行する主要な条件である。一方、不従順は致命的な悪徳であり、そのような強制的システムとは相容れない。
そのような国家における政治的な利害関係の観点から見れば、自己犠牲の精神は弁護論的な婉曲表現では「義務」と言われ、他方、不従順は「法廷侮辱」と呼ばれる。前者は持続的で一貫した抑圧によってもたらされた心の習慣であり、また領域国家のような隷従的な政治組織の基礎となる。後者は、もし自由なふるまいが許されるならば、いま祖国となっている地で野蛮人の侵入が強制的な支配を確立する前の先史時代にゲルマン社会の憲法をなしていたように見える無政府主義的な自律性を結果するだろう。後者はこれらの諸民族の自然的な性向に一致するように思われる。しかし、前者は一五世紀に由来する強制という専横的な訓練に服従する精神にしっかりと根をおろしている。これらの人々の中にある「義務」の精神は、明らかに、生得的な性向という意味の「天性」ではないが、それは長期にわたる一貫した経験によって誘発された根深い伝統的な態度として、祖国の諸民族の「第二の天性」となっている。
近代的な文明人に通用している用語でこれらのことについて語るときには、「義務」というこの隷従的または屈従的な態度を非難するように見えることを避けるのはほぼ不可能である。この困難は特に英語を使用する人を悩ますだろう。――利用できる語句の帯びている軽蔑的な調子の縁取りは、たとえばドイツでは、それほどやっかいではないが、そこでさえ、日常的な語彙は多大の能弁をもって近代的な愛国心のこうした諸要素を賞賛するのではなく、盲従と無責任な支配を非難するのに与するのである――。そのことは、疑いなく、近代西欧における制度的発展の潮流によるものであり、この潮流は全体としてどうやら一貫して王朝的専制政治の威力をしだいに緩める方向に向けられてきた。この変化はおそらくそれほど無政府主義的な(すなわち非隷従的な)精神の成長を創造したり、開始したというよりは、それを許容しながらかくまったのであり、かくしてこれらの諸民族の生来の無政府主義的な傾向が、あらゆる遺伝的性向の特徴となる取り消せない回復力によって、大きく再生することを可能にしたのである(2-17)。
近代ヨーロッパの自由な、または広まった制度の歴史的成長のどんな調査も、そのかなり大雑把な調査でさえ、こうした成長が実現したのは、当局が自由裁量権と権力とを賦与されており、機会があればいつでも成長を打破しようと考えなかったからというわけではなく、それを条件づける環境が当局に十分にそれを打破することができるようにしなかったからであると、あらゆる関係者を満足させるはずである。また近代諸民族の間における思想の緊密で容易な伝達によって、無政府主義的な傾向は、教育と隣人的な交流の手段により、より維持されてきた領邦国家の臣民たちにさえ感染するに至った。その結果、そこでさえ、専横の陰で、現在の語彙は自由制度と主人を持たない人にとって弱みを示している。
それゆえ、こうした言語の状態のために、祖国の国民の中に生き残っている自己犠牲という習慣についてのいかなる議論もほとんど不可避的に非難の色を帯びざるを得ないが、ここではかくもドイツ文化とドイツの達成の基礎にあるこの隷従の精神を称賛したり、責めるつもりはない。それはこの国の近代の創出をもたらしたにより大きい要因の一つであり、またこの時代とその「システム」は、この封建制の生命がその結果にいかなる強さや弱さを提供したかにかかわらず重要である。
さて、忠誠と従属というこの生き残っている封建的な魂は、――おそらく社会の経済効率の奉仕するべき政治的目的を別として、経済システムにとっても力の源泉であったように――明らかにこれまでドイツ国家にとって力の源泉となっていた。このことは、他のあらゆる関連における人々のそうした気質の究極的長所についての疑問、あるいは国家目的にとっての秘められた価値についての疑問とはまったく切り離して認識され考察するべきである。本研究にかかわるあらゆることについて、大抵の英語諸国民の心には疑いなくそう見えるかもしれないが、次のように見えるかもしれず、また見えないかもしれない。つまり、プロイセンの行政能力システムが依拠しているこの従属的活発さの精神は自由人としての人間的尊厳に値しないこと、それは臣民の精神であって市民の精神ではないこと、王朝に役立つ点を除くと、それは欠点であり怠慢であること、また結局文明生活の要求はそのような中世主義の時代錯誤的な残存物に耐えることができず、その習慣はいいずれ消え去るであろうこと、である。今日眼に見える限りでは、それが王朝国家に役立つということさえ一時的な価値しか持たないこともありうるかもしれない。しかし、それらがこれまで明らかにドイツ国家にとっての、またおそらく経済的主体としてのドイツ国民全体にとっての強さの源泉であったという事実を崩すことはない。
一九世紀第2四半期にドイツでは事態の再調整と再生という複雑な動きが始まった。少なくとも表面的には、この動きは主に経済的な性質のものであり、それを実際の活動へと直接に刺激したのは、通商と君侯財政の必要性だった。これらの実践的な手段とならんで、多くの学究的な種類の優れた思索ならびに国家的理念についての多くの啓発的な広まった説明と論議が進み、この知的、精神的な騒ぎは実際にとられた諸方策と、また国民的政策の一般的な趨勢と多少なりとも関係していたであろう。この精神的な騒ぎがこの時期に進行していた実際の変化の原因または帰結であるとして評価されるかどうかを述べることは簡単ではないが、これら両者の根拠にもとづいて位置づけることは妥当に思われる。
その当時の歴史家、特に愛国的な歴史家の間で流行したのは、一九世紀の中葉を通じてドイツ史を形成するこうした物質的または非物質的な諸力の複雑な動きを、この人種の溢れんばかりの国民的才能によって始められたドイツ精神の運動であると解釈することだった。それは伝統というものであるが、その伝統はロマン主義時代に由来している。だが、そこからはより実際的な性格を持った伝統が出て来ることができるとは思えない。
そのような歴史上の運動についての現実的な見解は、必然的にその当時の思考習慣を形成するに一役買ったかもしれない要因に注目するものであり、ここでは――現在流行しているような、運命の顕示、国民的才能、神の摂理の導き、等々のような、どんな神秘的な作用も考えなければ――分析が確実に頼れるのは二種類の派生物しかない。もちろん、それらの神秘的な作用を過小評価するように求めるつもりはないが、あれやこれやのそうしたものが隠れた原因だと認めるとしても、隠れていることがそれらの性質だということを、そしてそれゆえに、これらの隠れていると考えられる主要な動因の働きによって発現する有形の作用は、隠れている原因に頼らずとも十分に作用するに違いないことを、思い出すべきである。隠れた原因は呪術的な効能によってしか効力を発揮できない。それらの出来事の流れに対する関係は、因果関係の効力ではなく、神秘的または呪術的な効能という性質のものである。そして、これらの科学研究の問題における近代の唯物主義的偏見の下では、出来事の説明が求められる因果関係の連鎖は、有形の事実しか頼らず、「データ」の性質を持つ事象の上に動機づけと結果にかかわるあらゆる要素において完全でなければならない。効能あらたかな導きを求めるロマン主義と比べると、能率的な因果関係をより好む近代的な先入観にとっては、実際の事実以外のものによって論理的目的を打ち立てるいかなる試みもまったく無効である。それは天才的な豊饒な仕事であるかもしれず、また演劇術や説教上の言説としてなら価値があるかもしれないが、科学的研究の家では、そのような命題、そのような用語を用いた一般論は金管楽器の響きやシンバルの音でしかない。
上述した再調整と復興という複合的な動きの中で、人々の思考習慣を形成するように明確に働く二種類の流れがある。それは受け入れられている習慣の体系および産業技術の新しい状態である。そして、再調整に向かうのが後者であるのを見ることは難しいことではない。また受け入れられている習慣の体系の監視下で必ず再調整がなされるのを見ることもそれほど難しいことではない。後者は産業技術の新しい様相によって強制されるこの新領域の習慣化の中で修正される。しかし、習慣に生じる変化は、他所と同じくここでも生じ、もはや時代遅れとなった慣習を明白に容認しようとしない事態の影響を受けて、ゆっくりした譲歩の形で行われる
ここで問題としている複合的な動きは、新しい技術的状態の要求に合わせるために生活様式を再調整する動きであり、またそれを新しい技術的な条件下で働きうるようにするために君主の受容されている政策体系を再生する動きである。それゆえ、その結果生じる変化は、新しい技術的進歩に主導されて、またそれを自身の目的に合わせて利用する当局側の便宜的譲歩と抜け目ない努力によって生まれる。その際の意識的・指導的管理は、政府組織の手中にあり、また新しい産業技術の状態の強制する拡大した規模における事業を行うことができ、かつ新しい産業体制がかくして自分の自由に使えるようにした諸力を十分に行使できるようにする領邦国家の復興を目指している。
技術的改善が君主の軍事力増強に直接に貢献する限り、何百年間も、これらの改善を利用するために多くのことがなされ、また地方的統御と財政的管理の拡張のついでに通信手段および交通の改善の形で多くのことがなされてきた。しかし、近代的な産業体系は、それ自体としては、また外部の本質的に異質の要因としての側面を除くと、ドイツ人に深くかかわっておらず、特に一九世紀にドイツ復興の中心的位置を獲得したあのプロイセン領についてはそうである。しかし、
ドイツの産業状態は所詮近代的というよりもむしろ中世的であり、それゆえ、その産業技術の状態はいまだに全体的にみると古い体制を維持するのに好都合であり続けた。この古い体制が王朝支配者および特権階級の利益と伝統的理念にしっかりと育まれていたのであるからには、殊にそうであった。
近代化に先立つドイツ文化の成長には技術的な側面からの副次的な影響があり、これは近代の展開の中で生じたことを理解するどんな試みでも特筆するべきことである。印刷術とそれに続く印刷物の利用は、その技術進歩が初めてなされたときから常にずっとドイツ人の間では馴染みのことであった。その初発から一九世紀に入るまで、印刷工の技術は手工業的な過程であり、ドイツではよく発展していた。しかし、印刷物を利用する習慣の制度的な帰結、その習慣の影響は、だからといって手工業的な秩序のものであるとはかぎらない。印刷物の自由な利用は、思想の自由交通を意味し、したがって消費者の直接的な個人的交際範囲を越えて流行している思想との接触に消費者をさらすことになる。
印刷物の習慣的な消費は、機械産業の引き起こす生活様式の広範な標準化への習慣化とまったく同じ規模の訓練上の影響をもたらすが、印刷物の利用がかく引き起す影響は、それに慣れ親しんでいる階級の人々を超えて拡大することはあまりないことは言うまでもない。すなわち、読み書きできない人々、そしてとにかく印刷物をほとんど利用しない諸階級はそれほど、あるいは広範に攪乱されることはないだろう――印刷文献の氾濫と呼べるものは、多大な帰結をもたらすものではない――たしかに印刷物が読み書きできない人々の間に思想を拡散させることは、常に相応のものになることは否定できないのではあるが――。一方、事物を標準化する機械産業の体制下では、生活の教え込みの価値のほうが読み書きできない人におそらくもっと直接的かつ親密に影響し、また読書を習慣とする階級にかかわるのとほとんど同じほど包括的に影響する。
これに直接関連して、印刷物という媒体によるだけでは、あるいは他の、全般的な影響をもたらす本質的により厳格で断固たる習慣化の要素なくしては、事の性質上、既成秩序の深く、大規模な革命的騒乱がやり遂げられないということは、一般的に妥当する命題であるとしても、銘記するべきである。例えば、ドイツの事例では、一部の読書人口は、ヨーロッパ全体の知的運動と長らく接触し、また実際、折々、その当時の思想形成に大きくかかわってきたとはいえ、この部分はきわめて小さい階級をなすにすぎず、住民大衆とはきわめてわずかしか接触しておらず、またそのような「学術的」な保有権の上に――すなわち、自分自身の機械的事実の経験によって補強することなくきわめて一律に――知的な確信を保持していたので、最上の意図を持ってはいても、一般大衆に新しい秩序に関する自分自身の思想を浸透させたり、古い秩序の保有権ならびに利用権を持つ公職者を攪乱することがかなわなかったのである。
同時に印刷物は、他の点では生活様式の日常的な要求と一致する思考習慣の普及、同化および標準化のためのかなり効率的な媒体である。そこでまた、本を読む習慣は、一九世紀にドイツ社会に浸透したあの機械技術にとってほとんど欠かせない援軍であり、その当時(一九世紀中葉)には後のどの時代よりもそうならなかったことは無論であるが、その結果の成否に大きくかかわるほどにはそうである。さて、読み書き能力は、より高い「学習」能力の点でも、また印刷物をすらすら読むというより素朴な形の能力の点でも、新時代が到来した時のドイツ人にとっては比較的ありふれたことだった。そして民衆を教育する手段を改善し、拡張する運動がすでに充分に実現できる状態にあったので、この点の欠陥は治療を要することがわかるとすぐに克服されたのである。学識ある人々を過剰にかかえる頭でっかちだということは、ドイツ社会に対する決まり文句の悪口の一つだった。この点について探しは一九世紀後半から終わり、学識ある階級が有用であることがわかり、また科学に堪能な人々に対する需要が十分に追いついてきた。その間、この学問の性格、あるいはその方向ともいうべきものはいくらか変化したが、
その変化は全体としては何らかの技術的または商業的な価値を持つ知識諸領域に向かう顕著な移行の中で生じたものである(20)。
ドイツにおける近代産業の進歩と近代化された王朝国家との論理的な関係について述べれば、この国家の創設者たち、フリードリヒ大王からヴィルヘルム二世までのホーエンツォレルン王朝の政策が領域を拡大し、国家の能力を改善するために利用できるありとあらゆる技術的な改善を利用してきたと考えられるだろう。あるいは他方では、戦争技術上のより大規模で、より高価な装備と戦略はいうまでもなく、産業と商業の規模の拡大を強化するための技術進歩も王朝国家を新しく拡大された方式にもとづく再組織化に駆り立て、行政機構のいっそうの細分化と収入源のより細かく厳しい統制をもたらしたと考えることができるよう(21)。
どちらの見解も等しく正しいように見える。この事例を取り扱うドイツの研究者たちは、普通、前者を採用し、後者の見解がどれほど有効かは無視しがちである。ドイツの分裂主義の最高潮にあった小さな領邦国家が、その政治術がはっきり成立していなかったため、一九世紀のヨーロッパに広まっていたような条件下では生き延びる可能性を持っていなかったことは明白であろう。この分裂主義の圏内にある王朝政治家たちは、洞察力かそれとも特別な必要性と不確実な手段のいずれかによって新時代のより大きく、機械的により効率のよい装置を利用するように導かれ、自分たちの保守的隣人に対して差別的利点を享受することになること、そして最終的に政治的手腕の領域で隣人たちに取って代わり、やがてそれを継承することになるのも等しく明らかである――王朝国家は必然的に競争的または強欲な性格のものであり、手中にできるどんな手段をも自由に使うことができるのである――。それは何らかの方針にもとづく統治をおこなっている人々の競争的策略を通じて実現される淘汰的生存の一事例である。
産業技術の状態が市民的および政治的な戦略の物理的な範囲を拡張して大規模な国民的組織を明確に実施できるようにするに至ったとき、自給自足的な諸小公国という古い秩序は存続不可能となった。この変化はドイツの領土には西欧の中では最後に到達し、またかくも遅い時期まで国民生活の再編成に成功することがなかったので、この遅滞は、歴史家があらゆる説明を提供したにもかかわらず、驚くべき出来事だった。しかし、この遅滞に続いてひとたび再編成がなされると、その規模もまた、歴史家が神の摂理の側における縁故主義的偏愛という魔術的効力や、この事例(ドイツ人)にのみあてはまるという人種的な特徴を持ちださずには、説明することができないほどのものであり、彼らを途方に暮れたままにしておくほどのものだった。
政策の決定権と行政機構の統御権を手にした王朝政治家側の賢明な管理によって、ドイツ社会の物質的な効率の急速な上昇――これは近代的な産業技術状態の導入によるものであった――は、西欧の他のところでは達成されない程に成功裏に国家的利用に充てられてきた。そのため、実質的にドイツ社会のホーエンツォレルン国家に対して、百年前のドイツの諸領邦における財政事情の財政主義的行政のやり方にまったく従って、王朝的目的のために管理される王朝国家、準荘園的な王室御料地や領域に対するのとほぼ同じ関係に立っている。王朝的目的と王朝的行政に対するドイツ社会のこうした従属は、大局的には好戦的な侵略政策によって、また細部では官僚制的監視と臣民の私生活への絶えざる干渉の制度によって保全されてきた。
そのような王朝的な利用権と統制権の体系には、人々の感情という忠実な支柱の他には確固たる基盤がないことは言うまでもない。またそのような人々の感情の状態が絶えざる習慣化、この目的に賢明に、かつたゆみなく奉げられる訓練によってしか維持されないことも言うまでもない。とりわけ、これを目的とする習慣化の行程は、もしそれが近代的生活――ここでは機械産業が広範な非生命的要因と機械的過程を前にして人格的な力と大権の不要性とを絶えず強めており、また各人が自分の主人であることをいたるところにある価格制度の作用が絶えず教えているのである――の(王朝の精神的支柱を)堀り崩す訓練にさらされている臣民の人格的な忠誠を維持せんとするならば、首尾一貫し、かつ不動のものでなければならない。プロイセン支配下では、このすべてが配慮され、比類なき徹底性と効果をもたらしてきたことは周知のところである(21)。ドイツ国民の国家への従順な忠誠を緊密に保ってきた要因のうち主要なものは、もちろん成功をおさめた戦争であり、それは戦争準備と好戦的な傲慢さと野心を教化するという訓練による効果によって補強されてきた。これらの事柄に慎重に払われてきた注意も周知の事実である。そのようなわけで、実際、それはこの制度のスポークスマンがそれを当然のことと考えるようになり、またかくしてそれをつい見逃してしまうほどである。戦争の体験は好戦的な心理状態を生み出す。また戦争の遂行は、自分の指揮官と恣意的な命令に従う訓練の実行であり、熱狂的な従属および権威に対する盲従の精神を生む。
戦時に軍事組織となるものは平時には奉仕的組織である。そのシステムは同じであり、それがうまく働くのに求められる人々の精神もどちらの場合でも同じである。いずれにせよ、戦時であれ平時であれ、恣意的な権威と無条件の忠誠の習慣が徹底的に染みこみ、従属が臣民の情熱的な念願となったときに、また臣民の自由の理想が命令に従うことを許容するほどの自動化にまで忠誠の習慣が到達するところでのみ、それは最高の効率性に達する。それは神のすべての命令を遂行することが至高の義務となるといった類の信仰者の自由を神学者が解釈する流儀にいくらか似ている。ここに示した意味の「義務」が「自由」とともにドイツ精神の熱望する目標をなしていると説明する通俗的な追従者の言によるならば、そのような愛国的感情の理想的な成長は、ドイツの場合、許容できるほど近いところまで、達せられたらしい。もちろん「義務」は、下位者の服従だけでなく、上位者の側の恣意的な指令の実行を含むが、そのような恣意的な権威はより上位の権威へのしかるべき服従によってのみ実現され、ついで王朝の長にさかのぼるに至る。しかし、この王朝の長は、神の恩寵によって彼個人に授けられた委託された権威しか実行しないらしい。
ここでは「家産制国家」より「王朝国家」という語句を好んで用いるが、その理由は、この二つの概念に本質的な相違があるからではなく、むしろ帝政時代に活動しているようなドイツ国家に対する後代のドイツ人スポークスマンが前者の用語を嫌悪しているように見えるからである。彼らは、それを代議制と議会形態を僅かに含む憲法を採択して復興したような国家に対照させて、帝政に先立つ時代の領邦国家に適用しようと望んでいる。しかしながら、「王朝」という名称はいまだに適用可能である。また実質的に憲法による復興はドイツ国家を家産君主制という範疇の外に出しはしなかった。帝国憲法から生じた相違は、大部分が形式上の相違であり、行政機構の相違である。それは皇帝の有効な権力、権利と行動の自由をあまり制限していない。その上、それはいまだにプロイセン国王の権力、あるいはプロイセンの継続のために授けられた宗主権という王朝的要求を制限していない。その憲法の下でさえ、それは議会の議決権ではなく、国王の宗主権にもとづく政府である。換言すれば、それは憲法によって緩和された絶対主義政府であり、君主制で緩和された議会による議決権の政府ではない。
分裂主義から帝国への移行には、一六八八の革命によって連合王国で始まった変化に比べられるような革命的な運動は起きなかった。もしそうした民主主義的憲法への移行がドイツ国家に襲いかかるとしても、その動きは将来のことであろう。帝国憲法とともに導入さた変化は、実際に効力があった限りでは、新しい国民的司法権が機能するために求められた規模の拡大によって必要とされたものであり、領土と資源・人口・貿易と産業の統御と利用のために必要となるような議会的組織および地域的組織に対する代議制的な司法権をごく僅かに伴ったにすぎない――これらの組織は小領邦国家に特徴的なより素朴な官僚制の効力範囲を超えていたのである。帝政時代の経済政策は、近代の経済事情の規模と複雑さが要求するような譲歩的な修正を受けているが、いまだに「官房学的」政策であり続けている。たしかに、ビスマルク政権下には、一九世紀後半の大半を通じてあらゆるヨーロッパの政治家の努力に無意識のうちに偏向を与えているあの「自由主義的な」予断の方向に向う傾向が感じられる。しかし、この傾向は、貿易、植民地および萌芽的な責任内閣制というビスマルクの政策に現れているが、彼の手では決して決定的なものにはならなかった。またそれは帝国の宗主権の完全な請求権(revendication)を目指した後代の皇帝たちの努力をはっきりと妨害するまでには至らなかった。帝国憲法下では最高の権威は議会にではなく、君主にあった。ただし、これは帝国政府よりプロシア政府についていっそう制限なしに当てはまる。しかし、これらの点で、ドイツは帝政時代にしだいにプロイセン化され、他方、プロイセンは、他の北欧と中欧の諸国を少なくとも限定的で暫定的な条件であれ保っている類の民主主義的自治に向かって行かなかった。
帝政ドイツは、国民政策または行政統御の目的と方法の点で、フリードリヒ大王下の型からはっきりと隔たっておらず、またその政治家の予断は、あの悪逆な国家形成期の王朝寄生者の間で流行していた予断とまったく違っていない。相違点は主に政治と行政の機構にかかわるものであり、主に近代の産業と商業の結果をかつて初期の実践家にとってよさそうに見えた目的を説明するために使おうとする努力に見られるような特徴を帯びている。
そうではあっても、この機会に非難しようというわけではない。少なくともここではそのような含みはまったくない。このような主張を十分に証明するようなものはまだ見えていないとはいえ、それはおそらく不運な事態なのであろう。ここでそれを特記するのは、それが西欧文化内部における諸制度の発展の一段階と考えられる帝政ドイツの事例の主要な一要因だからである。
以前に実現可能だった規模を超える規模でドイツにおける王朝国家の復興に導いたこの近代的な産業技術の状態、この技術進歩はドイツで生まれたものではなかったが、英語諸国民から、そのうちでも主に、そして結局はほとんど全面的にイングランドから、直接に、または間接的に借用したものである。上段で主張したことは、技術以外の点における英国の習慣はドイツ社会によって同時には引き継がれなかったということである。その結果は、それはイングランド人の作り上げた近代的な産業技術の状態の働きを示すものであるとはいえ、この近代的な産業技術の状態の成長に付随して英語諸国民の中で成長してきた一連の特有の制度と信念を欠如させているという点で、ドイツはイングランドと対比して変則とされるものを提供することになったことにある。ドイツは、近代技術の発展におけるイングランドの経験の成果を、近代的な産業体制が到来する前にイングランドに普及していたのとほぼ等しい他の生活様式の状態と結びつける。そのため、ドイツ人は、イングランド人の技術的な遺産を、それを達成する際の経験によってイングランド社会に誘発された思考習慣や習慣にかかわる代価を支払わずに、受け継ぐことができた。近代技術はドイツに既製品として始まったのであり、それを始め、その発展をたどることを決めた経験を持つ諸民族の中では漸次的に発展し、持続的に利用して生まれてきた文化的な帰結を伴わずに、到来したのでえる。
この点でドイツ人の位置はまったく独自というわけではない。ある程度まで、他の西欧諸国にも同じ一般的な命題が当てはまるだろう。しかし、それは同じ幅ではどこにも当てはまらない。ドイツの事例は、この技術の習熟の急速さ、完全さおよび規模についても、この習得の時点における文化内容の古めかしさについても西欧諸国民中に先例がない。
これに関連して、工芸技術を国内の成長によって発展させるより、それを借用する利点について先の章で述べたことを想起してもらいたい。
そのような借用された技術的要素は、ある社会から別の社会への移転の中で、その発展と利用の間にそれにまとわりついて成長してきた他の付随的な文化的要素を持ち越すことはない。新しい必要品は、それらを使用する上で想定的か因習的な関連しか持たないものはすべてはぎ取られた状態で到来する。より低水準の文化の上では、ある技術的装置の使用としっかり結びついた因習的または想定的な強要物(exactions)というこの付属物は、主に呪術的または宗教的な儀式の性質を持つだろう。しかしもっと高い水準の文化では、ここで問題としている階級の場合、それらは習慣に、またある程度まで法に埋め込まれているが、例えばかなり高い生活水準の要求のような、しばしば義務的性格の宗教的儀式に近づく因習となりやすい。
注
(16)例えば、W・H・ドーソン『近代ドイツの進化』第三章を参照。またもっと全般的には、フォン・ジューベル『ドイツ帝国の建設』第一巻。またゾンバルト『十九世紀におけるドイツ国民経済』第二巻を参照せよ。
(17)すでに前段で示したように、ドイツの伝説や他の民話は、近隣社会の自治というこの古めかしい小規模な体系がいまだにドイツ民族の精神にいまだに保持している堅固な砦手の証明となる。これらの民話は、王朝的な領邦国家の強制的支配の下で服従と疑いなく忠誠心に縛り付けられていた何世代もの非識字者の平凡な夢想家を通じて伝えられてきたその日暮らしの有名な伝説の中にひっそりと生きてきた。しかし、それらが表現している理想は、いまだに、異教時代が終わるはるか前から、これらの諸民族の経験の地平、あるいは彼らの現実の物語の地平の中にさえ入って来なかった準無政府主義的な隣人的生活の理想である。こうした民話の状態は、教会、十字架、司祭および修道士が完全にとけ込んだ雰囲気で現れる宗教的信仰(キリスト教)に関連するあらゆる点で、これらの物語がほぼ完全な修正を受けてきたという事実から判断して、ますます注目に値する。これらの「信仰対象」と呼ぶことのできるものは、中世のもの、または近代的なパターンのものでさえある。これに対して、社会的および政治的な生活および機構はいまだに典型的にキリスト教以前のありかたにならって理想化されている。この古風な型の素朴な民話の保存は下層民の仕事だった。これに対応する支配階級の伝説的な民話は、これも当時の現実と比べてみると古風であるとはいえ、別の、かつより後の時代の精神のものであり、その理想的な創造物の点では当代的というよりも中世的な体系に傾いている。
(18)一八四八年の騒動はこの点で事態がどう推移したかを示すのに役立つかもしれない。ここでは知識ある少数派の啓蒙的な思想と衝動が肉体的苦痛という耐えがたい諸条件のために立腹した非識字者と手を握り、一時的に成功したような外観が生まれ、結局は誤解による両党派が不服従により有罪と宜告されるという最終結果になる。
同様に、例えばロシアのような古めかしい国家における政治的な古代遺物の守護者たちの小心翼々たる警戒は、特に過度に現代的な思想を提供する醜悪な文献の流通に関しては、ゆきすぎ(supererogation)とみなされるべきである。あらゆる努力にもかかわらず、印刷物の形で入ってくる思想の普及が印刷物の読者を超えて及ぶことはほとんどない。そして、ここでも、これらのうち読んだものによって深刻に乱される者はほんの一部にすぎない。そして読者は幸いにも大衆のうち取るに足りない割合でしかない。このようにして産業の日常的な慣習の土台を踏まずに入ってくる外来の思考方法は、知識の木の上枝に羽毛のねぐらを作る鳥を羽ばたかせるかもしれないが、すべての騒動は支配階級にとって利用する価値のある民衆の頭上を超えて行きすぎるであろう。民衆の思考習慣は日常の習慣によって作られるのであり、システムの習慣が深刻に乱されないと仮定するならば、彼らは同じ心理状態のままにあることになり、そのためどの鵞鳥番の娘もいまだに彼らを満足して羽毟り小屋に連れてゆくことができるのである。他方、新しい産業システムへの変更は、これまでと違った傾向の日常的習慣をおしつけ、簡単にあやまちを育てかねない。しかし、ドイツの事例を実地教育として判断すると、無責任的統治制度の致命的な乱れに対してより賢く備えるならば、それは明らかに新しい産業秩序の同化を容易にし、効率と肉体的快適さの画期的な前進をもたらし、次いでよく考えられた甘言を用いて強制を抑えるほどに広く読書の習慣を生み出すことだろう。
宗教的な関心の現状(status quo)維持をねらった読み書きできない人々の育成と有害な文献の除去とはこれとはまったく別の事柄かもしれない。この場合にはばむべき混乱は、いくぶん表面的な種類のこと――その時々の迷信の色調配合の変化――であり、異教の教義は技術的な類の矛盾がなくてさえ災いを与えるかもしれないと考えられる。
(19)例えば読み書きできないことがロシア社会(または諸社会)の近代的産業体系の上に現状を再編するのに深刻な、おそらくは決定的な障害をなすという命題について合意を得ることは、あえて主張したり強調する必要もない。またドイツ人や英語諸国民の中で読み書き能力の割合と範囲が高いことが彼らの優れた産業効率の多くを説明することにも疑問を差し挟む余地はない。手工業と家内産業という旧体制の下では、読み書きできないことはもしあったとしても比較的小さな欠陥だった。
(20)古い体制下におけるドイツの学問の熱心な(supererogatory)性格が広く理論的に推定する問題をつきつけるような大規模な技術が欠けていることと結びついていることは疑いない。社会生活が階級にそって組織されていること、また思弁的な価値と信頼性、出生と先例による社会生活の標準化もまた、思弁的な理論構成と、「事実の事象」よりも本質的な、すなわち形而上的な被造物と性質の知識に対する関心とを優遇する傾向に貢献してきただろう。それらの(知識)階級は(有用または儲かる職業に就くことを認めない因習的な礼儀の標準を持ち)、彼らの偏在する貧困のために、スポーツと標準的となっていた浪費の生活にいつも――少なくとも上流階級のゆるみを取り上げるような規模で、かつ気前よく――入ることができなかった。学問は、このきわめて多数の、またきわめて貧しい紳士階級の手の届く範囲にある形の浪費であり、彼らの手元でより多くの注目を集め、また例えばイングランドまたはフランスにおけるよりも上品な性格のしるしとしてより確信的に評価されるようになった。しかし、利益をもたらすか、または利益をもたらすかもしれない、あるいは生計の必要や世俗的な産業の方法と手段に密接に関連する諸問題にかかわる学問は、とりわけ産業が世俗的な肉体労働の性質を典型的に持っており、肉体労働が紳士にとって因習的にタブーとなっている社会である限り、上品ではありえなかった。
(21)典型的にはフリードリヒ大王の追求したようなプロイセンのこの経済政策のおそらく最も簡潔で、なおかつ最も解明的な報告は、シュモラー教授の報告であろう。『重商主義体系』(『経済学の古典』に再版された翻訳、アシュリー編)。
(22)それは少なくとも同等の説得力をもって日本の事例にも当てはまり、実に日本の事例は、これに関連して、きわめて印象的にドイツの事例に類似している。『人種の発展誌』、一九一五年七月の「日本の機会」を参照。
0 件のコメント:
コメントを投稿