保護主義の本家本元ともいうべきF・リスト(Friedrich List)の著作にもとづいて検討してみましょう。
ご存知の通り、リストは19世紀前半に活躍したドイツ人の経済学者であり、ドイツ歴史学派の祖と言われている人です。彼は、当時のイギリス自由貿易主義のイデオローグ、J・バウリング(John Bowring)と「ドイツ関税同盟」の対外関税政策をめぐって論争しました。バウリングは、イギリス功利主義の哲学者、J・ベンタムの弟子、かなり有能な弟子でした。
さて、リストの保護主義の主張は、次のように要約出来るでしょう。当時のドイツ(という国はありませんでしたが、ほぼその後のドイツ帝国の領域となる地域)の産業発展のレベルは低く、ドイツ産業は幼稚産業であり、したがってドイツ関税同盟がイギリスと自由貿易を行なったら(つまり対英輸入関税をゼロにしたら)、イギリスとの品質競争、価格競争に敗北してしまう。ドイツの商業者、プロイセンの農業者(ユンカーなど)はイギリスとの自由貿易で利益を得られるので、それでよいかもしれないが、ドイツ経済全体の調和のとれた発展にとってはよろしくない。そこで、ドイツ関税同盟は、相当程度の対外関税を課するべきである、ということになります。
これは数値例を使えば、次のようになります。今、綿布一単位がイギリスからドイツ関税同盟に10マルクで輸入されてきたが、ライン川流域で生産された同じ製品が13マルクであったとしましょう。この場合、ドイツがイギリス製品との価格競争に負けないための関税率は30パーセントになります。このような関税率を設定しようというのがリストのドイツ関税同盟に対するリストの提案でした。それは幼稚産業の保護主義政策であり、ドイツ関税同盟に参加したドイツ諸邦政府の経済介入を意味することは間違いありません。
ちなみに、19世紀前半の米国の財務長官を経験したことのあるハミルトンも保護主義者でした。彼も保護主義政策の確立のために尽力しており、実際、米国は19世紀前半から20世紀前半に至るまで保護主義を実施しています。そして、クズネッツの国民経済計算統計(時系列の推計)にもとづけば、米国が最も高い経済成長を達成したのは、保護主義の時代です。(バグワティは、自由貿易を喧伝する本の中で、米国のこの時代のことを無視していますが、それは悪意からか、無知からか?)
しかし、リストは決して経済的活動の自由を否定したわけではありません。
むしろ彼は、今日的に言えば、後発国ドイツの経済発展・成長のための「開発経済学」を構想したのであり、そのためには人々の自由な活動が必要であると主張しました。例えば、彼は『農地制度論』で、ドイツの土地制度、特に相続制度に言及しており、(イギリスと同様に)ドイツで主流の一子相続制の慣行が長子を土地相続者=農業者にすると同時に、その弟たちを自由な労働者として産業労働のために提供することを奨励しています。人々の自発的な創意・工夫のエネルギーが産業発展に必要であることは言うまでもありません。
もちろん、自由な活動は、特定の制度・ルールの中で行なわれるのであり、「仮想的な自由空間」の中で行なわれるのではありません。
もしすべての政府活動が行なわれてならないものであれば、現在の日本の公的医療保険制度、年金制度、失業保険制度、最低賃金制度、公的預金保険制度、義務教育の政府支出、高等教育に対する政府支出、農業関税の設定、労働基準法の諸規定(労働時間、休憩時間、解雇規制など)、その他諸々の制度・ルールは無用物・有害物ということになります。しかし、公的医療保険制度を一つとっても、それがなくなれば、日本社会は崩壊するでしょうい。逆に公定医療保険制度という政府の規制下でも、人々(患者、医師、看護師、経営者など)は特に不自由を感じずにやっています。
国際貿易についても同様です。一定の制度とルールの形成の下で自由に取引することが必要になります。そして、その制度とルールの中身こそが重要となるわけです。
自由貿易、自由貿易とわめき散らすしか能のない人は、「制度とルール」を知らない者、それがどのように(どのような理念または利害から、またそれらの衝突から)生まれたかを考えたこともなく、またそれがどんな役割を演じているかを考えたこともなく、キャッチコピーを繰り返しているだけのように見えます。
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