ここでは、まず政府が増税しながら、支出を増やさなかったケース、つまり財政再建を目的とする緊縮財政(austerity)政策を実施した場合を紹介することから始めることとする。その最もよく知られているケースの一つは、1979年5月に政権についた英国でサッチャー首相(当時)によって始められた緊縮財政・マネタリズム政策であり、いま一つのケースは、1997年に日本の橋本首相(当時)によって実施された財政構造改革である。いずれの場合も、その結果は、かなり深刻な景気後退であった。
1 サッチャー首相の緊縮財政・マネタリズム政策
サッチャー氏(今年物故した英国の元首相)の経済政策の実態は、イギリスの経済学者N・カルドア氏(原正彦・高川清明訳『マネタリズム その罪過』日本経済評論社、1984年)がよく分析している。ここでは、まず同氏の『世界経済における成長と停滞の諸原因』(Causes of Growth and Stagnation in the World Economy, 1996)から、サッチャー氏の経済政策の帰結を紹介しておこう。
その際、1970年代に二度の石油危機(1973年と1979年)が生じていたことを確認し、また1979年の第二次石油危機の影響とサッチャー氏の経済政策の帰結を区別しておくこととしよう。
1970年代の石油危機が激しいインフレ(物価上昇)と深刻な景気後退の同時発生をもたらしたことは、周知の事実である。それは次のように要約される。
「・・・石油価格の激しい上昇の正味の影響は、実質的には激しいデフレを押し付けることであった。それは、需要の増加をもたらさずに、世界の消費者の実質的な可処分所 得を4パーセントもカットするのに相当するものであった。それは、すべての消費国が 突然公共支出をまったく増やさずに巨額な追加課税を行なったような効果をもたらした。国際収支上では、OPEC加盟国は、1974-1980年に累積的に3500億ドルの経常収支 黒字を計上した。そのピークは1979年の第二次石油危機後の1980年に1100億ドルに到達したが(1974年の2倍以上)、その後、アラブ諸国の対外収支が急激に減少したため、経常収支の黒字は急速に減少し、1983年には300億ドルのマイナスとなった。しかし、1974-77年および1979-80年には、OPECの黒字は、その他の世界に対して需要不足と国際収支上の制約を課した。」
つまり、輸入されたインフレ、OPEC諸国(原油輸出国)への巨額のオイルマネーの移転に起因する原油輸入国の総需要の激しい縮小(実質的な激しいデフレ)の同時発生が1970年代を特徴づけていたのである。
ところが、マネタリスト(一種の貨幣数量説論者)の元祖、ミルトン・フリードマンは、インフレは政府と金融当局の政策による過度の貨幣発行にあるという。これが間違っていることは、私の学生でも理解できる。「彼は馬鹿ではないか、何故、石油危機に原因があることが分からないのだろうか?」というわけである。
しかし、1980年から石油危機とは明らかに異質な景気後退の波がイギリスから始まっていた。しかも、このフリードマンの教義にそって行なわれた経済政策のためにである。
「1980年から新しい景気後退の波が押し寄せ、それは以前の景気後退とは対照的に、概ね西欧諸国に、また特にEC(EUの前身)加盟国に限定されていた。この新しい景気後退 について、私は、イギリスに、つまりほぼ同じ頃時流に乗ってあらわれた北海油田とサ ッチャー氏に責任があると考えている。・・・サッチャー氏の「マネタリスト」政府の デフレ政策は、総額でGDPの6パーセントの実質国内需要の低下(1979年のプラス3パー セントから1980年のマイナス3パーセントまで)を、さらに1981年には2.5パーセントの低 下をもたらし、登録失業者数を200万人も増やした。」
ちなみにサッチャー氏の行ったような経済政策を実施すれば、景気が悪化することは私のゼミの学生でも理解できる。総有効需要が低下すると予想されるからである。そこで彼らは質問する。「どうしてそのような理不尽な政策を実施したのでしょうか?」と。
これに回答するためには、経済学理論上は、新古典派理論・マネタリズムが「セイ法則」(供給はそれ自らの需要を作り出す」とか、「貨幣の中立性」命題とか、およぼ現実離れした仮定に立脚していることや、彼らがそれを本当に信じているらしいことを理解しなければならないが、これについては、すでに本ブログでも触れたことがあり、また後で必要な限りで触れる予定なので、ここでは省略しておこう。ただ結論だけ言えば、サッチャー氏などの政治家が「無知」だったということになる。
さて、一体、GDPの6パーセントンに相当するような実質国内需要の低下をもたらす政策とはどのようなものであったのだろうか?
サッチャー氏は1979年に政権についたとき、米国の連邦準備制度と同様に、インフレを抑えるためにマネーサプライを規制するという「マネタリストの綱領」を正式に採用した。しかし、イギリスの制度の現状では、イングランド銀行は、マネーサプライを直接に規制することはもちろん、法定銀行準備の大きさやマネタリー・ベースを固定することもできなかった。総じて中央銀行が出来ることは金利を適宜上下に変動させることによって貨幣需要に影響を与えることに過ぎない。そこで、彼女らは、マネーサプライ(M3)の増加について四カ年の漸減目標(初年度の7〜11%から最終年度の4〜8%まで)を設定した。そして、彼女らは公共部門赤字がマネーサプライ増加の主要因であるという確信にもとづいて、それを着実に減少させようとした。また適宜に短期金利を引き上げるという金融政策をそれに混ぜ合わせた。
しかし、その計画は破滅的な失敗を経験した。マネーサプライの増加は最初から目標範囲を超過し、第二会計年度には22%という前例のない率で増加した。しかも、公共部門の赤字の削減も彼女らの公表した目的を達成することはできなかった。公共支出の削減と租税負担の激しい増加がはかられたにもかかわらずである。
その理由は明白である(カルドア、1984年)。サッチャー氏は、「深刻な経済後退ーー他のいかなる西側工業国が経験したよりもはるかに深刻な後退ーーを創り出すことに成功した。」とりわけ製造業の受けた打撃は深刻であり、その産出高は1980年に13.5%も低下した。ポンド(£、英通貨)の実質実効為替相場は急上昇し、それは英国の競争力を40%ほど低下させた。
確かにインフレ率は低下してきたが、その「功績」はマネタリズム(貨幣数量説)の妥当性を示すものでは決してない。実際には、インフレ率の低下は、失業者が120万人から320万人へと8パーセントも増加し、その結果、労働組合の力を非常に弱め、賃金上昇率が低下したためである。それは景気後退に伴う大量失業の結果であり、決してマネタリズムの妥当性を示すものではなかった。繰り返そう。マネーサプライが22%という前例のないペースで増加したときにインフレ率が低下したのである。それはマネタリズム(貨幣数量説)が誤りであることを示している。(ここでは詳しく述べないが、マネタリズムの実験の失敗は、1979年〜1981年の米国におけるFedの実験(金融引締め政策)からも明らかとなっている。なお、マネタリズムの誤りについては、別の機会に検討することとしよう。)
1979年から始められたイギリス(サッチャー政権)のマネタリズム政策の失敗、それは、公共支出の削減と租税負担の激しい増加の組み合わせによる公共部門赤字の削減策(緊縮財政政策)の壮大な失敗を示すものでもあった。
その理由はきわめて簡単に示すことができる。それは、一方で租税負担の激しい増加で人々の購買力を奪いながら、他方では公共支出の削減によって一国の総需要を大幅に削減し、景気後退をもたらした英国政府の経済政策にあったのである。
論より証拠。下の図を見ればここで示したことが確認できるだろう。
表1 政府の緊縮政策(財政支出の縮小)に起因する有効需要の低下
表2 失業者の大幅な増加
これが賃金圧縮と、その後の低賃金労働の拡大、所得格差拡大の要因となる。
表3 マネタリズムの政策を実施したとたんに、それが依拠していた<貨幣供給量の増加率とインフレーションとの相関>も失われた。
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