2013年10月10日木曜日

第二次世界大戦 オリバー・ストーン

 第二次世界大戦は、1939年に始まり、1945年に終わりました。
 この戦争の死者は全世界で数千万人。戦争の直接の影響で死亡した人の数です。人類史上かってない「大量殺戮」が行われた戦争でしたが、敗戦国がイタリア(すぐに)、ドイツ、日本などであり、戦勝国がイギリス、フランス、ソ連、米国などであったこと以外、「実相」は驚くほど知られていません。
 オリバー・ストーンの制作した現代米国史に関する映画は、映像を交えて多くの事実を語っています。特に注目されるのは、次のような点でしょうか? 決してオリバー・ストーンの独創的な見解という訳けではなく、国際関係史の研究者にとってはよく知られている事もたくさんありますが、それだけに一度見ておく価値があります。

1 イギリス、特にチャーチル首相の態度
 大戦は、ナチス・ドイツのソ連侵攻から始まり、初期の段階で、ソ連軍が敗北し後退することはよく知られていますが、その時、連合国側(英・仏・米・ソ連)が一枚岩的な団結を誇っていたわけではありません。
 むしろチャーチル氏は、ナチス・ドイツとソ連が戦争をして共倒れに終わることを願っていました。彼は、最初の段階でナチス・ドイツが勝利し、ソ連が戦線から脱落すると、ドイツの矛先が西部、つまりイギリスに向かうことを恐れ、その限りでソ連を支援する姿勢を示しましたが、決してソ連が勝利することを望んでいたわけではありません。ソ連が優勢になった場合には、ドイツを支援する心づもりさえありました。
 チャーチルは根っからの保守主義者でした。その彼が1925年以降、ずっとケインズによって批判され続けたのは理由なしとはしません。

2 セオドア・ローズベルト
 これに比べると、米国の大統領だったローズベルト氏は、はるかに理想主義的・リベラル(寛容派)だったと言えます。彼は、1932年の大統領選挙で圧倒的な勝利を納めると、有能なブレインを置き、ニューディール政策を実施しますが、戦争終結にあたっても画期的な4項目の提案(自由と諸権利、信仰の自由、欠乏からの自由など)を世界に向けて行います。彼が、植民地主義に反対していたこと、米国において福祉国家への道の第一歩を歩もうとしていたこともよく知られています。また彼は巨大企業がとてつもなく大きな権力を持ち(プルートクラシー=金権主義)、社会を支配することを警戒していました。
 ところが、ローズベルトの提案に対してチャーチル氏は、姑息にも「現在の社会的条件が許す限りで」という限定を無理やり挿入しています。

3 さて、そもそも第二次世界大戦は、何故生じたのでしょうか?
 歴史をさかのぼれば、1929年末の米国発金融恐慌、世界大不況、1932年のドイツ総選挙におけるSPD(ドイツ社会民主党)、特にその指導者だったR・ヒルファディングの失敗と、それを大きな理由の一つとするナチスの台頭・政権掌握・軍備再拡張、スペイン内戦におけるフランコ派への(英米の)事実上の支援など、1930年代にあったことがあることは間違いありませんが、その前に、1919年のパリ・ヴェルサイユ講話条約における巨額の対独賠償金要求もあります。ケインズは、それが将来の災難を招くことを予期し、この自国政府の要求を批判し、辞職して抗議しました。 
 現代の歴史家が明らかにしているように、戦争の根源はそれだけではありません。
 その一つの問題に植民地の問題があります。イギリスは、18世紀以来、巨大な植民地帝国を築いてきました。その領域は、19世紀にさらに拡大してゆきます。
 これに対してドイツ人は、1871年にドイツ帝国にまとめられてゆき、産業革命を達成しつつ工業国として台頭してきます。しかし、1873年から1896年にかけて「大不況」がヨーロッパ諸国を襲います。この大不況に関して、この時期にも実質GDPはそれ相応に増加しているから「不況」ではなかったという人(研究者)がいますが、それは正しくありません。何故ならば、この時期は賃金率(貨幣、実質)とも停滞し、さらに失業率が周期的に著しく高い水準に達しているからです。後の経済学者(Straicheyなど)が指摘したように、賃金率の停滞は総需要の停滞を惹起し、多くの人々を雇用できないような状態にします。このような時に必ず出てくる議論は、(現在でもそうですが)外国市場の拡大というものです。国内需要が制約されているので、輸出を拡大すれば、経済を成長させられるという議論です。
 まさに19世紀末〜20世紀初頭にそのような議論がイギリスでも、ドイツでも現れて来ています。ドイツの方では、ドイツの歴史家ヴェーラー氏の『ドイツ帝国』(未来社)が1890年代におけるヴィルヘルム二世の「新航路政策」への転換を明らかにしています。「敵は海外にあり」と主張し、国内では資本家と労働者の融和を図る政策が実施されました。ビスマルクは罷免され、カプリヴィが新宰相に任命されます。これとまったく同様なことがイギリスでも再現されます。グラッドストーンの「関税同盟構想」などがそれです。
 しかし、イギリスは広大な植民地を保有していましたが、ドイツは決してそうではありません。もちろん、ドイツもアフリカに植民地を有するに至っていましたが、その領土はイギリスに比べられるべくもありません。
 世紀末から始まる植民地帝国主義が第一次世界大戦の最大の要因でした。しかも、それは第一次世界大戦によって最終的に終わったわけではありません。
 アメリカは、ローズベルトの下で、フィリピンという植民地領有を終わらせようとしていました。しかし、イギリス(特にチャーチル氏)は決してそうではありませんでした。チャーチルは、ローズベルトの4項目を受け入れることが出来なかったのです。
 
 しかし、物語はこれで終わりではありません。米国もまた第二次世界大戦の中で誤った選択をすることになります。アメリカ兵への被害を少なくして戦争を終結させるという名目で行った日本への原爆投下もそうですが、1970年代末からのネオリベラル政策への転換もそうです。それは1930年代の大不況と米国がそこからどのように回復したかという教訓を無視するものです。

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