経済学者、特にノーベル経済学賞(正確にはノーベル記念スウェーデン銀行賞)を与えられるような経済学者は、難しい(どれほど難しいのか私にはわかりませんが)数学を駆使して理論を組み立てるのですから、きっと頭がよいはずです。
しかし、彼らが現実の経済社会を説明する段になると、<馬鹿じゃないの>と思うことがしばしばあります。今日はその一例を紹介することにします。
1 出発点として「フィリプス曲線」から始めます。
フィリプス曲線というのは、縦軸に貨幣賃金の上昇率をとり、横軸に失業率をとったときに描かれる曲線(関数関係)です。(下図参照)
このような図を描くためには、貨幣賃金率と失業率に関するデータが必要ですが、イギルやフランス、ドイツ、米国については、1950年頃までに様々な人(統計家)の努力によってそれらのデータが集められてきました。イギリスのデータは、1861年から利用可能となっています。これらの時系列データを用いると、例えば18xx年に(失業率、賃金上昇率)が(5.8%、2.3%)、グラフ上のその点をプロットできます。何十年間ものデータにもとづいて点をプロットしたのが、下図です。
ちなみに、戦乱など異常な年のデータは賃金率と失業率の関係を見るのに不都合なため、フィリプス氏は取り除いています。(この点を覚えておいてください。)
彼は、このプロット図から「フィリプス曲線」と呼ばれるような非線形の関係があることを結論しました。簡単に言えば、失業率の低いときには賃金上昇率は高く、失業率の高いときには賃金上昇率は低い、という関係です。
これは特に驚くようなことではありません。失業率の低いときは景気のよいときであり、賃金(所得)がより高くなっても不思議ではないはずです。もちろん、逆の場合もです。フィリプス自身は、景気の善し悪しによる、労働に対する需要と労働の供給の関係の変化によってそうした関連が生じると説明しています。
2 ところが、フィリプス氏が思いもしなかったと思われる展開が待ち受けていました。
場所もヨーロッパではなく、アメリカ合衆国に移ります。
当時「アメリカ・ケインジアン」は、物価水準の変動の理由に関する理論的説明で悩んでいました。そこに、この「フィリプス曲線」が現れたのです。彼らはそれに飛びつきました。ただし、賃金変化と失業率ではなくて、物価変動と失業率の関係を示す理論として改変することを通じてです。しばしば経済理論は、大西洋を渡ると変質するといわれていますが、今回もそうです。こうして「物価版フィリプス曲線」が生まれました。この新版では、縦軸を計るのは賃金率の変化率ではなく、物価の変動率です。
賃金と物価を置き換えてはいけないのか、と質問がでるかもしれませんが、もちろん簡単には許されません。というのは、もし賃金上昇が必ず物価上昇を招くということが実証されるならば、賃金と物価を自由自在に交換してもよいでしょう。しかし、そうではありません。その理由は簡単な数式で説明されます。物価は次のような式で示されます。
p=(m+w+r)/ρ
(ただし、m、w、r は、単位時間あたりの生産に際して必要な物的費用(原材料費、減価償却費など)、賃金、利潤であり、ρは労働生産性)
このように物価変動は、物的費用や利潤の変動によっても生じるはずですが、いまは簡単のために一定としておきましょう。賃金が上がっても、それ相応に労働生産性が上がれば、物価は上昇しません。
たしかに、もし賃金が労働生産性以上に上昇すれば、それが物価上昇(インフレーション)の原因となります。しかし、インフレは賃金の過度の引き上げだけが原因というわけではありまえん。上式をよく見ればわかるように、インフレは利潤の労働生産性と比べて不相応な引き上げによっても生じます。これは1990年代のソヴェイト後のロシアで見られたものです。このような場合にも、物価上昇が生じると、実質賃金が低下するので、普通、労働者は貨幣賃金(名目賃金)の引き上げを要求します。その結果、貨幣賃金率が労働生産性の上昇率を超えて引き上げられるといった事も生じます。しかし、それは賃金率の引き上げが原因というわけではありません。
その上、m の上昇、特に外国から輸入された原材料や機械の価格の引き上げが物価上昇を引き起こすこともあります。これは、例えば第四次中東戦争(1973年)、イラン革命(1979年)と関連している「石油危機」が物価上昇を亢進させることもあります。(フィリプスが戦乱の年を慎重に避けた理由がこれです。)さらに1960年代末から1970年代初頭にかけての時期のようにドルの減価(つまり為替相場の変化)によって価格水準は変化します。
こんな簡単なことが何故理解できないのでょうか? やはりバカなのでしょうか?
ともかく、物価上昇率は、貨幣賃金、利潤、労働生産性と密接に関係しています。 そのため「物価版フィリプス曲線」は、「本当のフィリプス曲線」と比べて格段に物価と失業率の相関関係が低下します。ほとんど無相関といってよいほどです。
話はさらに続きます。(続く)
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