マルクスの経済学(または経済学批判)については、今日の時点で、どのような側面が大きな意義を持っているのか?
まず言いうるのは、資本主義の制度・システム分析の面で、マルクスの経済学は新古典派の経済学などを大きく超えていることである。マルクスの後に、この点で大きな貢献がなされたが、マルクスの分析は基礎理論として意味を失っていない。
しかし、大問題となってきたのは、労働価値説である。
労働価値説というと多くの人々、特に専門家でない人は、すぐに相対価値論を考えるようである。相対価値論というのは、一定量の商品Aと一定量の商品Bが同じ価格であるとき、それらに投下された労働量は同じである(例えば10時間労働の産物である)といったことである。
この相対価値論が証明しがたい議論であることを説明するのは、それほど難しいことではない。実際、例えばインド人の生産する商品£100と英国人の生産する商品£100を比較したとき、そこに同量の労働(時間)が投下されているということはあり得ない。いま現在の数値は調べていないが、私が学生の頃(1970年代)には、労働タームで見ると、インド人の10〜20時間労働が英国人の1時間労働と交換されるというような「不等価交換」が行われているという統計があったように記憶している。いや同じ国内であっても、同じ価格の商品に同量の労働時間が投下されている(体化されている)ことはなく、むしろ異なった労働時間が「含まれている」。
これに対して無理に相対価値論を通そうとすると、次のような議論になる。すなわち、同じ労働時間であっても、労働の密度や複雑性が異なる、と。1時間の労働生産物が2時間の労働生産物と等価なのは、前者の労働が後者の労働の2倍の密度・複雑性・その他を有するからである、というわけである。
しかし、この論理を実証することは無理である。われわれは労働時間を計測することができるとしても、労働の密度・複雑性・その他(相対価値に影響を与える要因)を誰もが納得できるように定量的に計測することはできない。したがってしばしば論理が転倒される。すなわち、同じ労働時間でも価値が2倍ということは密度・複雑性が2倍であるということを意味する、と。だが、このように述べた時点で、それは科学が依拠している経験主義の土壌から決定的に離れてしまう。それは新古典派の依拠する心理的な「効用」が客観的に計測不能であるのと、同様である。
しかし、翻って考えてみよう。マルクスは、ここで示したような相対価値論を主張しようとしたのであろうか?
実は、マルクスの価値論には、相対価値論とは別に、剰余価値論と呼ばれるものがある。また『資本論』では述べられていないが、マルクスが手紙で書いた事柄がある。後者から説明しよう。
『資本論』の出版(1868年)ののち、マルクスは親友の医師から、『資本論』では労働価値論が前提とされているが、証明されていないという手紙を受け取ったことがある。理解を得られると期待していた親友からのこの手紙に対してマルクスはむっとしたらしく、労働価値論が正しいとする返信をすぐ医師にしたためた。その内容な誰にでもわかる簡単なものである。
マルクスは、労働が唯一の主体的要素であり、それなしでは(誰も労働しなければ)社会が一週間も存続できないと述べている。確かにそうである。もし労働価値説がそのような意味で捉えられるならば、その通りであり、否定はできないだろう。それを最も簡単なモデルで示し、数式で書けば次のようになる。
Y=α・L ただし、Y:生産量、α:労働生産性、L:労働時間
この意味は明確である。生産量は、労働生産性を一定とすると、労働時間に比例するという意味である。したがって誰も働かなければ、生産もされず、諸個人は死に絶え、社会は崩壊する。これは経験主義的な観察にも合致する。この数式は、マクロ(社会全体)についても、ミクロ(個別の経済主体)についても成立する。
実は、この式を前提とすれば、マルクスの労働価値説のもう一つ(剰余価値説)も一定の条件下で成立する。(これについては後に触れる。)
だが、それでは、相対価値論は完全に放棄されるべきなのであろうか?
これについて結論を出すためには、アダム・スミスの『諸国民の富』(The Wealth of Nations)の記述と論理を見ておく必要があるように思われる。(以下、続く)
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