シュルツェ・ゲーヴァニッツは、ここでアイルランドとイングランドの精神史に、特に宗教改革の遂行の歴史的意義について述べます。
宗教改革については、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」」があり、その内容は、理解の濃淡の相違はあれ、よく知られていると思います。しかし、シュルツェ・ゲーヴァニッツは、マックス・ヴェーバーの言及していない多くの事柄に触れており、きわめて興味深いものがあります。
(シュルツェ・ゲーヴァニッツの続き)
否定的な側面は、中世の諸個人が担い、支え、保護していた伝統と社会的結びつきの衰退、個人の精神的、国家的な解放を意味している。この運動の始まりは時間的にははるかに古く、場所的にはイタリアにさかのぼる。すでにダンテは、人間に理性があることを告げている。「汝はこれからは汝自身の司祭(精神的主人)であり、汝の侯(世俗生活における主人)である。」しかし、この目的がはじめてより広範な、経済的に指導的な国民階層についてのものとなったのは、オランドとイングランドの土壌においてであり、国民全体に到達したのはイングランドにおいてであった。
他のすべての事の基礎となったのは、言葉の最も広い意味での伝統主義の粉砕であった。そんなに長い間、僧侶と教会が人間を宗教的な未成年扱いしており、そんなに長い間、彼は経済的な事柄において習慣と権威に選ぶことなく喜んで従っていた。そんなに長い間、近代のself made manは子供の学校にこっそり隠れていた。人間に経済的自助と自己責任を呼び起こし、「資本主義的精神」が高揚する土壌を準備するためには、過去との徹底した決別、一つの大きな精神的な打撃が遂行されなければならなかった。ヨーロッパ大陸はイングランド人を「商人根性の国民」として扱うとき、軽蔑だけでなく、同時に紳士をたらしこみ、しゃぶりつくす資本の秘密に満ちた力に対する恐怖を感じたのである。
しかし、この優越についての説明として「個人の解放」、「資本主義的精神」等のような言葉で安心するだけでは十分ではない。資本主義的精神自体は、きわめて複雑な精神史的な発展時代の所産である。教会改革との関連について、マックス・ヴェーバーは、最近、輝く強烈な光を投げかけた。(教会の)祭壇神聖視的伝統と権威は、カルヴィニストが全人間仲間から離れ、神だけに対峙するあの孤高の高みの下に深く横たわっている。説教からも秘跡からも救いを期待しない人、独自の解答を求めて聖書を解釈する人、人間に頼らず友情をさえ被造物神化として疑う人は、経済的自己規定の入口に立つ。疑いなく、そのような「異端者の資本家」は、すでにペティが示したように、資本主義発展の重要な経過点である。これは、ロシアについては、今日古信仰派(正教会から分離した宗派)とストゥンディスト(時間派と呼ばれた宗派)の間で繰り返されている現象である。だが、後には資本主義的精神は宗教的な支えをもはや必要でなくなり、純粋に此岸の土壌に自分の家を建てた最近の金融家で完成する。それは、宗教改革時代人の宗教的な寄せて砕ける波が引いた後では、沈殿物として余計なものとなっているあの本質的に否定的な世界観の土台で満足している。
そのような「近代的な貨幣人」に対して、やっかいな世界観の問題を出してみよう。彼はそこから喜んで「実践的な」質問に移ってゆく。われわれが彼に見いだすわずかな、ステレオタイプの一片の制度は、総じて「イングランド製」(made in England)であり、しかも18世紀型のそれである。われわれはそれを次の文章をもって、三つの方向で簡潔に記述することができる。
a. 長い間、人間は此岸について、価値ある彼岸に至る短くて、どうでもよい遍歴の旅と捉えており、長い間、彼の此岸における実在を整えることは、ホテルの部屋での退屈が家に向って急ぐ客にとってどうでもよいように、どうでもよかった。高みを目指す精神は修道院の現世逃避に入った。今でも、古風なアイルランド人、ロシアの農民、総じて多くの所で生活している中世的な人間はそのように考え、行動する。資本主義的精神は、実在の此岸化を求める。マックス・ヴェーバーは、ピューリタンにとって彼岸は確かに目的として存立しているが、此岸が選ばれた者と神の主人化の守護の領域としてどのように意義を得たかを示している。しかし、後になって彼岸は色あせた。それとともに子供と動物のナイーブな形而上学がふたたび打ち立てられ、それは啓蒙によってただ理論的な形にまとめられた。現実的なものは外的な、われわれから独立した物であり、それは経験によって模写される。その際、人間に固有な活動は重要ではないと考えられ、ますます背後に退く。つまり経験主義である。このような彼岸の廃止のための範式を見つけることがイングランドの哲学の課題であった。「反省」は「感覚」と組み合わされて、最終的に放棄される。
実践的な関連では、発展は倫理を神学と形而上学から分離することに、エゴイズムの運動根拠に対する共感的なものを無視することに行き着いた。それとともにあの、近代の貨幣人を包摂する実践的な唯物論が発生した。イングランドの倫理哲学の発展全体が、ヘンゼルの強調するように、一目散にこの方向に向かい、それはベンタムにおいて頂点に達する。
ベンタムではないとしても、何千人もの頭脳にあるベンタムの精神が、「地質学者の捉えられた水が地殻を粉砕するように、旧世界を粉砕した」。ベンタムにあっては、ほんのちょっと前のイングランド急進主義者と異なって、宗教的な前時代の記憶は完全に失われている。その倫理は純粋に此岸的である。善意の欲求は、エゴイズムの計算に還元されている。「最大多数の幸福」は、そうすれば個人の啓発されたエゴイズムにとって有用として現れるという理由づけだけで、追求される。統治者にあっては、通常、個々の利益が統治されるものの利益と乖離しているので、国家権力の所有者を最大多数の幸福に結びつけるためには人為的な統制手段が必要である。ベンタムの偉大さは、彼の首尾一貫した、しばしば学術的な一面性にある。それより好意を持てるが成果に乏しいのは、「すべての参加者の幸福」を倫理的な基準とし、功利主義から個人の幸福の犠牲者を蒸留しようとしたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)である。
求められる快感は、粗雑にも感覚的に捉えられ、それで事実上の一般的有効性という利益がもたらされる。食事、飲み、性交。洗練されたもの、おそらく希少な性質のものには「より高い」効用が考えられよう。美術的に形成された環境、芸術的な生活がスローガンとなり、その背後には単純な功利主義が隠れている。芸術(かつて高貴な世界の娘だった)は、贅沢の侍女となり、近侍、maitressen, 競馬、および多くの人の尊敬する「社会的地位」と同列に低下する。粗悪なものと素敵なものを慎重に混合する両種の快感を理解する者は最も確実にすすむ。ベンタムに従ってすべての快感を同等なものと見ることは最も首尾一貫している。ベンタムの考えでは、何か高貴なもののために音楽と詩歌を、事情によってはあれより多くの効用を準備することができるボーリングとして説明することは常套語句である。
この教えの実施可能性は、生命の体系化を求めており、ピューリタンの自己管理はその前例を提供している。様々な効用と負の効用の感情は一様ではない。その量的な相違は、功利主義の求めているあの比較計量を妨げる。それを実践的に実施するためには、共通の名称が必要である。これを提供するのは、資本主義経済制度の土壌の上では、貨幣である。すべての効用は、名誉も愛も、貨幣で購入することができ、貨幣で交換可能である。「貨幣は、総じて個々の目的に特別の関係を持たないので、目的の総合のためにそのようなものを獲得する。」貨幣は決して目的とはならない。貨幣の中では、人間の目的設定のすべての量的相違が量的に失われているように見えるので、人間の生命の数学的な利得と損失計算を行うことが可能であり、複式簿記がそれを指導する。この土壌の上で、(苦悩と感情を気にせずに)人間と事物を純粋に理性的に、有効な簿記の目的に沿って取り扱う、あの型の人間が完成する。この経済的な急進主義は、ジンメルが正当にも強調するように、倫理には無関心である。しかし、まさにこの故に、それには世界を根本から変えるのに必要な意思の衝動が欠けている。それは功利主義的世界観の実践的エゴイズムと結びついてはじめて経済的前時代を粉々に粉砕する破壊力を与えられる。
この見解は、リカードウで頂点に到達する。リカードウにとって、有効な簿記はすべての人間存在の目的をなしている。アダム・スミスに対立して、彼は、「純所得」が個々人にとってだけでなく、どれだけの人間があの所得の産出に従事したかに関係なく、国民全体にとって決定的な利益であると説明する。
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