2013年10月4日金曜日

ハイエクは、そんなに偉大か? その2

 ハイエクの「経済学」(というより後で述べるように「思想」)は、決して難しくありません。むしろ、その発想は驚くほど簡単です。彼の著書としては『隷従への道』が有名ですが、それを含む彼の著作の主張は次の2点にまとめられます。もちろん、彼は様々なことを述べていますが、その他のことは概ねこの2つの主張の「系論」(colorary)です。
 1 自由な経済活動とは「自由市場」における活動である。
 2 それを超え、社会的なものを志向する活動は、必ず諸個人の社会全体への「隷従」をもたらす。

 1 われわれは日常的に経済活動をしています。例えば市場で食料品を買い、貨幣を支払います。その時、肉や魚の値段を見て、購入するか、別の商品を買うか、別の店に行くかなどの決断をします。そのような日常の市場における諸個人の経済活動、これはハイエクにあっては「自由な経済活動」、彼の推奨する人間の活動です。
 2 しかし、社会的なものを志向する活動は、性質が異なる、とハイエクは言います。一例だけあげましょう。例えば所得格差が拡大しているとします。この場合、もちろん、まず所得格差が拡大しているという社会全体の傾向に対する知識が前提となります。その前提にもとづいて妥当な政策が追求されることもあるでしょう。例えば第二次世界大戦後に普及したように、累進課税制度が議会で制定され、実施されたように、です。
 しかし、ハイエクは、それこそが「隷従」を導く、社会的なものを志向する行動であるといいます。彼の見解では、それは「設計主義」、つまりあらかじめ社会全体を特定の方向に導こうとする思想に帰着し、結局は社会全体における諸個人の隷従を導くことになるというわけです。もちろん、ソ連の計画経済などはもっての他であり、ひとたびそのようなものが出来上がると、元に(どこへ?)戻ることができなくなるということになります。

 ハイエクのいくつかの系論(持論)は、ここから出てきます。
 1 近代の思想家のうちロック(John Locke)は個人主義の土壌に立脚するがゆえに、正しく、擁護される「べき」であるが、ルッソー(Jean Jack Rousseau)は、社会的正義の思想を含むがゆえに間違っており、危険であり、避ける「べき」である。
 これは社会思想に価値評価(べき)を持ち込むものですが、実際に彼の社会思想史に関する研究を読めば、事実であることがわかるはずです。
 2 自由市場における諸個人の「自由な行動」は許されるが、それを超える社会的な志向をもつ行動は許されない。したがって、チリの有権者の行動は、それが「自由と権利」(民主主義)にもとづいた行動であっても許されず、民主的・社会主義的な志向を持つアジェンデ政権も許されない。これに反して、それを阻止しようとした自分の政治的行動は許される。

 いやはや、である。「隷従」(全体主義)に至る道は、すべて阻止すべきである。たとえそれが人々の「自由と権利」(民主主義)を踏みにじり、人々を死に追いやることがあっても、だというわけですから。人の死は、個人的自由を守護するためには、何でもない!

 しかし、これこそ彼が自由主義という「隷従」の道に人々を追いやっている行為に他なりません。彼は言います。<私の言うことが正しい。言うことを聴かないと、ただではおかないぞ。>
 『アニマル・ファーム』(1984年)という小説があります。一人の社会的理想に燃えた人が理想的社会をつくろうとして結局は独裁国家を生むことになるというものであり、しばしばソ連社会主義を批判するものと解釈されています。しかし、それは実は、ハイエクにもあてはまります。市場自由主義という理想(ただし、彼は自由市場経済が様々な問題をもたらしていることを認めており、この点では確かに他の凡庸な新古典派経済学者と異なっていたかもしれません。しかし、そんなことは普通の学生でも理解できます)を守るためには、市場的・日常的知識しか許さず、それ以外の行動は禁止する。これこそ、市場自由主義版のアニマル・ファームに他なりません。
 
 社会的志向を持つ行動が「隷従」をもたらすという思想自体が誤りであり、したがってハイエクはしばしばケインズを批判しましたが、同時にケインズによってたしなまれたりしました。


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