2013年12月10日火曜日
社会科学の裸の王様・経済学 9 新古典派経済学の正体を暴露する
世界の著名な・優れた経済学者が「主流派(新古典派)」の経済学についてどのように述べているか、ちょっと覗いてみましょう。それぞれ異口同音に、それが現実離れした前提の上に構築されており、現実世界を映すものではないことを強調しています。
ジョン・M・ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』
「(新)古典派理論の想定する特殊な事例はあいにくわれわれが現実に生活を営んでいる経済社会の実相を映すものではない。それゆえ古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人を導き、悲惨な結果を招来することになるであろう。」
スティーヴ・キーン『経済学の正体を暴く』(Debunking Economics)
「それは現実の資本主義経済の動学的には妥当せず、事実上は間違った直感的で静態的なスナップ・ショットに過ぎない。」
*これは近代の(例えばニュートンの)力学(dinamics)などと決定的に異なる点です。ご存知のように、ニュートンは物質が時間の経過とともに運動する状態を説明することに成功しました。ところが、「科学」を自称する新古典派はいまだに動学を語ることができません。(ポスト・ケインズ派は、ハロッド、ドーマー、カレツキなどの努力もあり、かなりの程度に動学理論(dinamics)に成功しています。)
ジョウン・ロビンソン『経済論集、第4巻』
「(新古典派は)恣意的に構築された前提条件にもとづいてモデルを組み立て、それらの前提が現実にあてはまることを取り繕おうともせずに、そこからの「結論」を現実の出来事に当てはめようとする。」
マーク・ブローグ「近代経済学における混乱をもたらす潮流」(Challenge!, Vol.41, No.3, May-June, 1998.
「経済学は、その実践的な帰結のためにではなく、ますます自分自身のために演じられる知的ゲームになってきた。経済学者は、しだいに主題を、数学科で理解されているような分析的な厳格さがすべてであり、(物理学科で理解されているような)経験的妥当性がまったく当てはまらない無一種の社会数学に、・・・つまり「価格」、「量」、「生産要素」等々のような用語を使うが、それにもかかわらず、明らかにも、また恥ずべきことながら、どんな認識可能な経済システムにも当てはまりもしない一般均衡理論に転換してきた。
完全競争は、決して存在しなかったし、また決して存在できなかった。その理由は、企業は小規模なときでさえ、価格を受け入れるだけということはなく、価格を創り出そうとするからである。すべての現在の教科書は多くを語るが、次に即座に、完全競争という「夢の世界の」幻想の国が現実世界の競争についてわれわれが何か意味のあることをいうための基準であるとまで言う。・・・しかし、理想化された完成状態は、われわれがそれと現実世界の競争との間のギャップを計測する方法を決して語らないときにどのようにして基準となりうるのだろうか。すべての現実世界の競争は「近似的には」完全競争に似ているが、近似の程度は、漠然とさえ、決して特定されないことが意味されている。・・・
次の典型的な前提条件を考えよう。完全に確実な、まったく全能な、いつまでも長期的に同一の消費者:取引費用ゼロ:すべてのあり得る出来事に対するすべての時間について記述された要求に対する完全市場。不均衡価格でのどんな種類の取引も存在しない:価格と量のかなり急速な変化率:現実の時間においては急激な計算できない不確実は存在しないが、論理的時間においてはただ確立的にのみ計算可能なリスクが存在する:ただ線形的に同質な生産関数:どんな技術進歩も具体的な資本投資を必要しない、等々、等々。これらすべては現実離れした仮定というだけでなく、不真面目な前提である。それでも、これらは主導的な経済諸理論の中に決定的に出てくるのである。
*いや、まさに「不真面目な」馬鹿らしい前提です。これらがどれほど馬鹿らしい仮定であるかは、その他にもまだまだあります。そこから生まれるのは、現実世界の経済学ではなく、仮想空間の経済学。これについては、いつか書くこともあると思います。
何の本だったか忘れてしまいましたが、宇沢弘文氏(東大名誉教授)はかつて、<米国で書かれる経済学の論文のほとんどはゴミである>という趣旨のことを述べたことがありました。これも上と同じ趣旨からの発言です。
ジョン・K・ガルブレイスも多くの名言を残していますが、最近一つを紹介しましたので、ここでは省略します。
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