貯蓄と投資との現実の関係もまたしばしば間違って理解されている。
以下では簡単のために外国と政府を捨象して考えることとする。
この仮定の下では、貯蓄とは所得のうち、消費財の購入のために支出されなかった部分に等しい。これは定義のようなものだから、何故そうなるのか、理由を考えずに受け入れるしかない。いま、所得をYとし、消費財の購入のための支出(消費支出)をCとすると、貯蓄Sは、次のように示される。
S=YーC よってY=C+S (1)
定義上、貯蓄の範疇に入るのは、銀行等に預金すること、株式や国債などの金融資産を購入することである。タンス預金(現金を保有し続けること)も貯蓄であり、土地(実物資産)の購入も貯蓄の範疇にいれてよいだろう。問題となるのは、居住用の住宅を購入するような場合である。住宅は見方によっては耐久消費財と考えることもできるが、見方によっては実物資産と考えることもできる。ここでは、住宅を資産と考えて、住宅購入を貯蓄としておくこととしよう。(これに賛成できず、消費財と考える人は、貯蓄から外してもかまわない。しかし、統計上は、どちらにするか、はっきりさせることが重要。)
一方、見方を変えると、所得は、消費財の購入のために支出されるが、同時に生産財(資本財ともいう)の購入のためにも支出される。この資本財を I で示そう。すると、所得はCと I の購入のために支出されたことになる。このCと I は、それぞれ消費需要(消費財に対する需要)と投資需要(生産財に対する需要)を構成する。そして社会全体では、それぞれの需要に応じて生産が行われ、最終的にはその生産物を販売することによって所得が生まれる。したがって、結局、国民生産=国民所得は消費需要と投資需要の合計、または消費財Cと生産財 I の合計に等しくなるはずである。それを式で示すと、
Y=C+I (2)
*厳密にいうと、消費需要と消費財の生産、投資需要と生産財の生産には、わずかなズレがある。それは在庫の変動に等しい。例えば企業は100の需要を見込んで生産するかもしれないが、そのうち95しか販売されなければ、5が在庫の増加に等しくなる。しかし、企業は短期的には需要を見込んで生産しているとしても、より長期的には在庫変動を通して実際の需要の変動を把握している。したがって在庫が大きく変動することはないので、さしあたり(在庫変動が問題となる局面を除くと)需要=生産と考えても、当面は差し支えない。
ところで、上の(1)と(2)は、社会全体では、貯蓄と投資が等しくなることを示している。(ただし、ここで述べられている貯蓄と投資は、一定期間中に実現されるフローの量である。後に言及するストック(一時点における量)と区別しなければならない。)
S=I (社会全体で成立する等式)
もちろん、個々の経済主体に関する限り、この等式は成立しない。このことは明白である。例えばある年に100万円を貯蓄した人は必ず100万円を投資したことになるということはない。ただし、ここで投資というのは、企業の行う設備投資(機械や設備の購入・設置)のことであり、株式や国債の購入、預金などはそこに含まれない。
また社会全体でも、事前の期待に関する限り、貯蓄と投資が一致することはないであろう。あくまで一致するのは事後的な結果である。
しかし、社会全体について、かつ事後的にであれ、この等式は一体どうして成立するのだろうか?
その理由に関して、現代の経済学者は2つのグループに分かれる。
1)貯蓄が投資を決めると考える。
2)投資が貯蓄を決めると考える。
このうちどれが正しいのかを示すために、いくつかのことを考えよう。
まずまだあまり経済学を勉強したことのない人は、1)が正しいと考えるかもしれない。というのは、私たちの日常の常識では、まずお金が先にあって、次にそれを支出するからである。そこで、上の問題についても、お金(貯蓄)があり、次にそこから支出(投資)がなされると考える。これで間違いない、というわけである。
しかし、結論を急がないで、もっと深く考えてみよう。
実は、ある時点でお金を持っていなくても、次の時点で支出することは可能である。例えば銀行から借用することができれば、その借用資金(借金)を使って支出することができる。あるいは企業のように新規の社債や株式を発行し貨幣=資金を調達しても支出が可能となる。あるいはまた自分が所有している株式や国債、土地などの資産を売却したり、自分の預金を引き出してお金(現金)を作れば、何か(消費財や生産財)を買うことができる。これらの場合には、貯蓄を取り崩すので、経済学的に言えば、マイナスの貯蓄をしたことになる。ただし、この場合、株式や国債を購入した人や、預金を引き出された銀行は貯蓄をしたことになり、全体としては過去に行われた貯蓄のストックの金額は変化しない。
ともかく、人々はある時点で一定の(過去になされた)貯蓄のストックを有しており、その一部を利用して消費財や生産財を購入するための支出を行うことができる。そして、その金額は、その後の(つまり将来の)一定期間(週、月、年)中に実現されるであろう所得に制約されているわけではない。
むしろ経済の実相は、こうである。まず人々によって独立的に(外生的に)支出(消費支出、投資支出)が行われると、それに応じて有効需要(消費需要と投資需要)が生じ、(上述のように)企業はその需要に応じて生産を決定する。またその生産物は販売されて所得を生み出す。
このように考えると、正しいのはむしろ2)の見解だということになる。
このことが正しいのは、景気変動(不況や好況)の存在という事実によっても示される。
2)の見解による景気変動の説明
人々がその時々の時点で決定する消費需要の変化によって説明される。多くの場合、人々は前期に行われた消費支出の金額を基準にして時期の消費支出を決めるであろう。それはルーティン的なものであるということができる。もちろん、その時々の経済社会の条件・社会的雰囲気も影響する。高度成長の時期であれば、労働生産性の上昇に応じて、賃金が上昇していたので、人は前期よりも消費を増やそうとするであろう。しかし、現在のように労働生産性が上昇しても賃金の引き上げが実現されない時期には、人は消費を増やさない・抑制しようとするであろう。
歴史的に有名な事例を持ち出せば、次のようなこともある。1929年末〜1932年のように不況が発生し、人々が不安に陥ったとき、多くの人が共通して取る行為は、貯蓄を殖やそうとして消費支出を削るというものである。この場合、最初の短い期間においては、人々は増加した貯蓄を実現することができるかもしれない。しかし、多くの人が消費支出を減らすとともに景気後退が感じられるようにようになり、企業が生産力を増強させるための投資を縮減しはじめるとともに、生産財の生産も縮小される。これによって総需要(消費需要+投資需要)が低下し、不況のいっそうの深化と失業の拡大がもたらされる。その結果、多くの人が当初意図した貯蓄の増加もしだいに実現できなくなる。
このように個々の企業が(また社会全体の企業も)将来の期待利潤やリスクを考慮して、投資を決定することは、ケインズやカレツキの発見した事実であるが、このような事情は経済社会にある種の「不確実性」をもたらす。
これと反対に、1)のように、貯蓄が投資を決定すると考えるのは新古典派に特有な思想であるが、それによって景気循環を説明することは絶望的に不可能となる。
そもそも新古典派の経済理論には、本来、市場経済が景気後退や失業をもたらすという思想自体が欠如している。事実、彼らの見解では、貯蓄が投資を決定するが、その貯蓄を決定するのは、マーシャリアン・クロスである。それによれば、貨幣市場では、右上がりの貨幣供給曲線と右下がりの貨幣需要があり、その交点で利子率と貯蓄量が決定されるとされている。言うまでもなく、その利子率と貯蓄量は市場を均衡させる量である。
したがって、ここでも不均衡は、もっぱら市場外部の要因によって説明されることとなる。曰く、貨幣供給を司る金融政策や財政政策の誤り、労働者の高賃金、その元となっている労働者保護立法の誤り、等々である。
このように述べてくれば、貯蓄が投資を決定するという思想は、「供給がそれ自らの需要を創出する」という「セイ法則」の亜種であることがわかるであろう。ただし、この婆には供給とは貯蓄(資金)の供給であり、需要とは投資需要のことである、が。
ともあれ、新古典派はここでも貯蓄の供給側から物事を説き、例によって富裕者を優遇し、反対に労働側に対する集中砲火を浴びせることになる。富裕者の優遇策とは、富裕者減税、法人税率の引下げ、「株主価値」の喧伝(と賃金の抑制)等々であることは繰り返すまでもないであろう。
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