2013年12月12日木曜日

社会科学の裸の王様・経済学 10 ケインズ主義って何?

 ジョン・M・ケインズが20世紀の偉大な経済学者であったことは言うまでもありません。しかし、しばしば「ケインズ主義」や「ケインズ政策」なるものが批判の俎上に載せられることがあります。これらは一体何なのでしょうか?
 そもそもケインズの名前のついた呼称はたくさんあります。上の他にも、「ケインズの経済学」、「ケインズ経済学」、「ポスト・ケインズ派」、「新ケインズ派」(ニューケインジアン)など様々です。これらはどのように使い分けられているのでしょうか?
 まずケインズ主義。昔、あるときカール・マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったという逸話は有名ですが、ケインズにも同様な話があります。あるとき彼は「私はケインズ主義者ではない」と言いました。一般的に言って、ある思想家の思想を別の人々が本人の思想とは別様に解釈するということは大いにありうることです。その意味で、「ケインズ主義」(Keynesianism)などという言葉は、無意味な言葉と言ってもよいでしょう。もしケインズ自身の経済学という意味で用いるならば「ケインズの経済学」というべきです。ただし、もちろんケインズほどの偉大な人物の経済学ともなると、それをどのように解釈するかは人によって相違点が出てきますから、難しいところです。
 「ケインズ政策」という言葉はどうでしょうか? これなども手垢のついた言葉となってしまいました。およそケインズの著書(『貨幣論』や『一般理論』、その他)などを読んだことなど決してないと思われる経済学者が「ケインズ政策」などという言葉を使って、しかも批判するのですから、「世も末」と嘆きたくなります。ケインズの乗数の「波及論的理解」などはケインズが聞いたら、おそらく怒り狂うでしょう。(これについては、私の恩師の一人、故宮崎義一氏と伊東光晴氏の『コンメンタール 一般理論』(古いけれども、高水準)などを見てもらえば、了解できるはずです。)しかも、無知な経済学者の中には、財政支出についてもこれを使う人がいるのですから、何をかいわんやです。ケインズの乗数は、Y=C+I (有効需要)の式におけるYと I との(一定期間における)関係を示すもの以外の何物でもありません。歪めて解釈しておいて、ケインズは誤っているといっても、世の中では通用するかもしれませんが、きちんと経済学を理解している人にとっては、馬鹿丸出しの所作に他なりません。
 では、ポスト・ケインズ派のほうはどうでしょうか? これは、通常、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に刊行前後に、ケインズ・サーカス(ケインズの周囲にいてケインズの『一般理論』の形成・普及に貢献したした人々)によって形成されてきた経済学を意味しています。その中心にはジョウン・ロビンソンがおり、その他にハロッド、カルドア、カーン、カレツキなどがいました。これらの経済学者は、ケインズと直接に意見交換を行い、ケインズに影響を与えつつ、またケインズから強い影響を受けていました。その中でも特筆されるのは、ミハウ・カレツキです。彼はケインズ以前に「ケインズ革命」を成し遂げた人物としてよく知られています。(彼はポーランド出身であり、その初期の著作はポーランド語で書かれていたため、広くしられていませんでした。)
 彼ら、つまりケインズ自身およびポスト・ケインズ派には共通する経済的ヴィジョンがあります。それは、「不均衡」、「不確実性」、「有効需要の原理」、「市場の失敗」、「非自発的失業」などのタームで示すことができます。そこに共通しているのは、現代の「企業者経済」(資本主義経済)では、失業(非自発的失業)や金融危機などに示されるように、不均衡が本質的な特徴であるため、政府が様々な制度を構築することによってそれを修正することが必要であるという見解です。それを基礎づけるのが、不確実性や有効需要の原理に他なりません。
 ところが、・・・。
 ケインズの経済学は、イギリスでも誤って解釈されましたが(ヒックスのIS-LMなど)、大西洋を渡り米国に達するやさらに大きく変容を遂げていましました。しかも、それは本来のケインズの見解とは似ても似つかないものになりました。その変容した果ての経済学が「新古典派総合」や「ニューケインジアン」の経済学です。どのように変容したのでしょうか?
 それは、これらの経済学では「均衡」「確実性」「セイ法則」「市場原理主義」、「自発的失業」などのタームがきわめて重要となっていることによって示されます。たしかにケインズの経済学のごく一部分(労働市場に関連する一部)はそこに取り入れられています。しかし、ケインズの経済学の本質的な部分は古めかしい(19世紀以来の)新古典派経済学によって換骨奪胎されてしまいました。ケインズがそれを知ったら、抗議することは間違いありません。「諸君らは間違っている。私の名前を用いないように」、と。何しろ、ケインズにあっては資本主義は欠陥(失業、不安定、不均衡)を持つために修正しなければならない代物だったのに、米国ではむしろ安定と均衡、効率性を実現する立派な構築物に祭りあげられたのですから。
 しかも、この変容に際して、ケインズが「現実離れしている」ため「悲惨な結果をもたらす」と警告した諸前提がふたたびこっそりと経済学に持ち込まれました。

 最後に、誤解のないように一言。アメリカ大陸にもポスト・ケインズ派の経済学者はいます。ジョン・K・ガルブレイスもその一人でしたが、その子息のジェームス・ガルブレイス氏もその伝統を引き継いでいます。またH・ミンスキー氏やその影響を受けた一連の経済学者、H・ラヴォア氏、アルフレッド・S・アイクナー氏などもあげられます。
 しかし、米国の主流派が新古典派の人々にあるという事実に変りはありません。どうしてそうなのでしょうか? これにはアメリカ合衆国の経済の成立事情がかかわっていると考えられます。ご存知のように米国はイギリス人(スコットラドやイングランドのアングロ・サクソン系民族)が植民して作りあげた国です。そこでは、資本主義を欠点のない・完璧な構築物と見なさなければならないという「歴史的使命」のようなものが見え隠れしているかのように見えます。しかし、これについてここでは深入りすることは出来ません。

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