人は何故御用学者になるのか? 島村英紀氏の同じタイトルの著書(「地震と原発」というサブタイトルが付されていますが)があり、読みました。
御用学者が生まれる理由は、ある意味では簡単であり、「アメ(権益)とムチ(不利益)」の網の目がはりめぐされていることにあることはいうまでもありません。しかし、それを抽象的にではなく、具体的に知ることが重要でしょう。島村氏の著書は、「理系」(工学や理学)の状況について紹介しており、きわめて興味深く読める本です。
ただし、理系でも、御用学者が生まれるのは、特に「複雑な現象」を研究する領域におおく、物理学や数学などの比較的単純な領域(簡単な領域とはいいません)では比較的すくないのかもしれません。
私は環境問題を軽視しているわけではなく、むしろきわめて重要視しています。資源も浪費するのでなく、大切にしなければならないと考えていますが、この複雑科学の環境問題においても「権益」がはびこっていることは、本書を読めばよく理解できます。例えばIPCC(気候変動に関する政府間パネル)はこれまで4つの報告書を出していますが、第一回目の報告書から第3回目の報告書にかけて如何に「地球気候の科学」から「政治に奉仕する下僕」に成り下がったか、がわかります。(詳しくは読んでみてください。)
島村英紀氏の著書は、「地震と原発」を対象としたものであり、さもありなんという話が沢山紹介されています。IPCCが生まれのも、「二酸化炭素を大気汚染・地球温暖化の悪者」に仕上げ、「クリーンなエネルギー源として原子力発電」を売り込むための方策だったという推理はあながち作り話(嘘)ではないでしょう。
理系と同様に、複雑科学の社会科学(経済学など)でも同じ事情は存在します。そして、ケインズやジョン・K・ガルブレイスがそのことを指摘してきたことも紹介しました。
石水喜夫氏の『日本型雇用の真実』(ちくま新書、2013年)も、御用学者論を展開するために書かれたものでは決してありませんが、経済学が「科学」から「政治の下僕」に成り下がった事情に関する書き物として有用な著書です。新古典派の「労働市場論」という現実離れした「理論」が如何にして御用学者によって展開されてきたのか、それを私もいつかは書こうと考えています。そうしないと、大学の経済学部に入学した純真な経済学徒が騙されて「科学」だと信仰しはじめないとも限りません。
しかし、この点で、私は「よいニュース」をお話しできるように思います。
以前、まだ小泉純一郎氏が「構造改革」「郵政民営化」などのキャッチコピーを展開していたとき、それに疑いを差し挟む学生はほとんどいませんでした。社会全体が聞く耳を持たないような状況にあったとき、学生も無条件で構造改革が正しいと信じているので、最初に導入部で学生にどのように説明したら、信頼してもらえるか苦労しました。
しかしながら、現在ではかなり雰囲気が違います。新自由主義、雇用柔軟化、構造改革がどんな結果をもたらすかを実際に知りはじめているからです。
・依然として「アベノミクス」に興味を持つ学生はいますが、それを懐疑する気持ちもあり、きちんとそれがどのようなものかを明らかにしたいと考えています。決して、それを疑いなきキャッチコピーとして考えているわけでもないようです。
・また依然として株価が上がると、景気がよくなるというマスコミの発信をそのまま受け入れている学生は多くいますが、株主価値論を前提としていること(アメリカ等では、株主への配当を拡大しようする経営衛が賃金を抑制しようとする傾向があり、多くの人の所得の増加と対立関係にあること)を理解してきています。
・リーマンショック後に、金融危機が何故生じたのかに興味を持ち、また失業率が上昇したのは金融危機に理由があったことを考えるようになってきています。
・特に1997年以降、賃金の低下など労働条件の悪化、失業率の上昇、ブラック企業の増加、非正規・低賃金労働の拡大などなどを肌身をもって知っているため、不安を感じ、それとともに疑問を感じ始めています。
・物価の上昇が景気の回復に導かれるという主張にはもっと懐疑的になっています。給料が上がらないのに、円安で輸入物価があがったらどうなるかも理解しています。
・残業代ゼロ、首切り特区についても同様。
・ブラック企業については、具体的に企業名をかなり知っています。
まだ政治に気兼ねなく、はっきりと自分の意見を表明できる学生は少ないと感じますが、疑問を感じ、自分で考えようとする態度をもつ学生が増えれば、御用学者を避け、「科学」を求める学生も増えるでしょう。ゆとり教育世代もなかなかかも知れません。
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