2013年12月7日土曜日

社会科学の裸の王様・経済学 3 収穫法則の誤り

 規模に関する収穫逓減の間違い

 「規模に関する収穫逓減」が間違いであることは、1920年代のイギリスではじめて明らかにされました。それ以来現在に至るまで、米国や日本で行われた企業調査によって同じことが再三確認されてきました。

 その前に「規模に関する収穫逓減」とは何かを説明します。
 もの(財・サービス)を生産(産出)するとき、ものの投入が必要となることは言うまでもありません。また労働力の投入も必要となります。もちろん、これらの投入には費用がかかります。そして普通は産出量の増加とともに費用も増加します。この費用はどのように増加するのでしょうか?
 まず産出するには、産出量がゼロでも必要な固定費が必要となります。ここでは簡単のため機械・設備(資本装備)の費用と考えておきます。次に産出量に比例的に増えてゆく費用、すなわち原材料費・燃料費や人件費(賃金コスト)があります。
 ここで重要となるのは、産出量が1単位づつ増えてゆくときの、その1単位あたりの限界費用(最後の1単位を産出するのにかかる費用)と平均費用(全産出物の平均費用)です。常識的には、限界費用は産出物を1単位生産するのに必要な原材料費・燃料費・人件費ですから一定ですが、これに対して平均費用はしだいに低下(逓減)してゆくと考えられます(1単位あたりの固定費が低下するためです)。これを費用の増加と産出量の関係から見てゆくと、「規模に関する収穫逓増」が成立しそうです。
 
 もう少し詳しく検討します。
 「規模に関する収穫逓増」は、どこまでも成立するでしょうか? 基本的・本質的には、当該企業の生産能力に達するまでは、という限定が必要です。しかし、ほとんどの企業では、エンジニアは需要をかなり超える生産能力を想定してプラントを設計しているため、生産能力以下のところで生産を行っていることが分かっています。あるいは、現実の生産量は有効需要によって決まるが、その生産量=有効需要は生産能力以下のところで決まっているということができます。
 したがって結論すると、通常の場合、規模に関する収穫逓増(費用の一定または逓減)が成立しており、新古典派の想定するような事態は見られません。
 新古典派の想定するような事態(収穫逓減、費用逓増)は、企業が生産能力を超えて生産を行おうとする場合に生じますが、そのような事態はきわめて例外的であり、新古典派でさえ想定するところではありません。
 
 1920年代に実施されたオックスフォード経済調査は、明確に新古典派の想定を非現実的として却下していたのです。しかも、その後も同様な調査が実施されましたが、いずれも同じ結果を示しています。
 1950年代に実施された調査(Eiteman & Guthrie)では、調査されたある経営者は新古典派の収穫逓減・費用逓減の想定に接して次のように言ったと言われています。「正気な経済学者」(sane economists)にして何故そのような無意味な(nonsense)ことを考えのか、と。

 1990年代のS.Blinderの企業調査(Asking about Prices, 他)も同じ結果を示していますが、ここでは詳細は省略します。興味のある人は、読んでみてください。(ちなみに、そのような優れた研究に対して、新古典派の面々は無視するのが通例であり、この場合もそうでした。このことは、引用される回数で研究者の評価をすることが馬鹿げていることを示しています。この点については、複雑系で有名な金子邦夫氏の著書も参考に。)

 それでは、もう一つの「限界効用の逓減」のほうはどうでしょうか?
 こちらはカール・ポッパー先生の「反証不可能性」の検定にひっかかります。
 もし反証可能性があるというひとがいたら、是非、効用を測定し、限界効用が逓減したという測定結果を持って来て欲しいところですが、これまで誰一人として限界効用を(もちろん効用も)測定した人はいません。

 これに対して、例えばリンゴを食べるとき、最初の一口は美味しいが、食べ続けていると美味しくなくなるという大学教授の御仁がいました。それはたしかにそうでしょう。しかし、それと限界効用の逓減はどのように関係するのでしょうか?
 私などは、毎年12月に知人から沢山のリンゴを送ってもらっていますが、毎日、家族で1、2個づつ食べており、毎日同じように美味しくいただいています。その時の気分によって美味しさの感じが変化するかもしれませんが、ついぞ美味しさが低下したと感じたことはありません。それとも新古典派の経済学者の間では、リンゴは一度に沢山食べなければならないという決まりがあるのでしょうか? もしあるとしたならば、限界効用を測定するためのルールや根拠を是非詳しく教えて欲しいものです。

 子供騙しの稚拙な「理論」への執着。それはまさに「裸の王様」に他なりません。

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