2014年3月10日月曜日

ヨーロッパ気候史 いくつかのエピソード

 気候史は、本来、自然科学上の問題であり、またそれが社会に与えた影響を取り扱う限りで社会科学上の問題と言えます。
 しかし、今日、それは著しく政治問題化しています。単に人為的地球温暖化の「仮説」が正しいのか、誤っているのかが学問上の問題となっているのではありません。
 とりわけ IPCC の報告書によってオーソライズされた「ホッケースティック理論」の支持者たちは、それが学問的検討の対象となることさえ好まないように見えます。彼らは懐疑派がもちだす中世に温暖化した時期があったという見解に対して不快感を抱きますが、それは、中世温暖化が20世紀末の人為的温暖化を過小評価するのではないかという懸念に由来していることは間違いないでしょう。(ヴルフガンク・ベーリンガー『気候の文化史』丸善プラネット、2014年などを参照。)

 そもそも中世温暖期とは、1965年にヒューバート・ラム(Hubert Lamb)が歴史的な諸記録(古文書)の綿密な調査と気象学的・物理的なデータを基に導き出した概念でした。かれは、中世温暖期の頂点は1000年から1300年の間(中世中期)にあり、当時の気温は1931年〜1960年より1ー2度高く、極北では4度ほど高かったと推定しました。
 彼がこのように考えた根拠はたくさんあります。
 1)バイキングの航海は流氷によって妨げられることはなかった。またグリーンランドにあるバイキングの墓地は今日でも永久凍土の中に埋まっている。(これは、時代を異にしますが、マンモスが氷の中から出てくるのと類似しています。まさか昔マンモスが氷の上を歩いていたと考える人はいないでしょう。)
 2)別の証拠は、900年から1300年の間の時期に氷河が世界的に後退していたことを示している。
 1850年以来後退している氷河の多くから中世の植物が出て来ている。これは氷河の範囲が現在より狭かったことを意味している。
 1186/87年には1月にストラスブールで木が花を咲かせていた。 
 1130年の夏には降雨量が少なく、ライン河が歩いて渡れるほどだった。
 1035年には、ダニューブ河の水が少なく歩行可能だった。同年、レーゲンスブルクに石橋がかけられた。
 3)中世温暖期の証拠は、園芸作物の耕作限界地にも見られる。
 アルプスにおける木の生育地は今日より高く標高2000メートルにまで達した。
 ラインとモーゼルにおけるドイツの葡萄栽培は、今日の限界より200メートル高い位置でも可能だった。
 葡萄は、ポメラニア、東プロイセン、イングランド、南部スコットランド、それにノルウェーでも育っていた。これは今日の北限のはるか北にある。
 中世には北部でも盛んに森林開墾が行われ、人口が増加したが、それはまさにこの時期に一致している。
 4)古い花粉の記録でも次のことが証明される。
 中世のノルウェーでは、小麦がトロントハイムでも栽培されていた。
 北緯70度でもある種類の燕麦が栽培されていた。
 大ブリテンの多くの地域でも、栽培地は今日の北限より北に達していた。
 5)昆虫の生育などの考古学的史料
 寒さに敏感な heterogaster urticae がイングランド北部のヨーク市にいたことが知られている。この昆虫は現在ではイングランドの南部の暖かい場所でしか見られない。
 中世中期には、バイキングのロシアへの拡大、アイスランド、グリーンランドなどの植民活動が行われた。グリーンランドでは、特定種類の穀物も栽培されていた。しかし、中世温暖期が終わるとともに、バイキングの繁栄も終わり、グリーンランドの植民地の多くは放棄され、ノルウェーでも極北や標高の高い地点は放棄された。
 http://www.science-skeptical.de/blog/the-medieval-warm-period-%E2%80%93-a-global-phenomenon-unprecedented-warming-or-unprecedented-data-manipulation/001342/

 このように現在の温暖化の理由が何であれ、それとは別に確かに中世温暖化はあったということができます。
 ところが、ヨーロッパでも中世中期を過ぎ、14世紀初頭になると寒い年が多くなってきました。さらにその後、徐々に寒冷化がはじまったと考えられます。
 実は、中世温暖期にも寒冷の年がなかったわけではありません。天候が悪く飢饉が生じる年はありました。しかし、1310年代は寒冷(厳しく長い冬、雨の多い夏)、雹や洪水によって引き起こされた飢饉によって特徴づけられ、しかも、その深刻さと広がりにおいて前世紀のあらゆる飢饉をはるかにしのいでいたと考えられています。
 当時の記録をいくつか紹介します。(W・アーベル『農業恐慌と景気循環 中世中期以来の中央農業及び人口扶養経済の歴史』未来社、原著は1996年刊行。)

 ・マンスフェルト年代記
 「この陰鬱な飢饉の教訓はここに示す短句の最後の言葉に書かれている。すなわち、何人にも飢餓の時の記憶されんためにこそ、悪徳農夫(CVCVLLUM)と覚書を記したのである。」
 「それゆえ若干の農地には雑草さえ生茂っていた。そして諸都市では実際すべてが食べ尽くされてしまったので、多くの人々は衰弱し、餓死せざるを得なかったし、彼らが路上のあちこちに横たわり、死と格闘している姿が見られた。そのためエルフルトの人々は荷車を待たねばならず、それに死者をのせて、特別の墓が用意されたシュミーデシュテットに運び、自ら埋葬したのである。」

 若干コメントすると、ここで CVCVLLUM(cucullus)と綴られている言葉は「郭公」を意味するが、それは飢饉の年に穀物を高値で売って儲けることのできた悪徳農夫を示す。同時にそれは並べ替えるとローマ数字の1315年を意味する。

 ・シトー派修道院カムプの年代記作者は、1317年について、人々が死んだ獣を食べていると述べ、またラムゼイ修道院の一農場では、1319年について次のように述べた。「その後、突然の疫病が私たちの家畜に襲いかかっているため、それらがきわめて大量に死んだ。そのため多くの家畜の屍体から大気感染した。その後にはおそらく人間の疫病の恐れが生じるだろう。」

 ・プロイセン年代記は、多くの人間が都市でも農村でも死んだので、「土地はほとんど完全に荒廃したままとなり、そこでは農地を耕作しうる人が誰もいなくなってしまったほどであった」と記載している。


 この時期の飢饉が前世紀の飢饉と異なりかなり深刻だったことは、14世紀初頭における穀物価格の急速かつ持続的な上昇からうかがえます。

 しかも、この後に歴史上有名な1347年〜1350年の黒死病(ペストと推測されている)によるヨーロッパ人口の減少が生じました。これによって人口の3分の1、あるいは半分が失われたとされています。黒死病は、最初、コルシカ島やサルデニャ島から始まり、フランス南部の港町マルセーユからヨーロッパ大陸に広まったため、イタリア商人の船で東方から運び込まれたネズミが病原菌の発生源と考えられており、あまり気候と関連づけられることはありませんでした。
 しかし、14世紀初頭に始まる寒冷化と飢饉が人々の体力を奪ったため、被害が大きくなったことが考えられます。黒死病は、この時が最初でも最後でもありませんでしたが、その被害はこの時に最も大きくなりました。しかも、黒死病がしばしば飢饉の時に猛威を振るうことは14世紀中葉に限ったことではありませんでした。

 ところで、14世紀から17世紀にかけて寒冷化が進行したとするならば、それに照応する様々な変化もまたこの時代の記録に残されているはずですが、どうなのでしょうか? これについては、さらに実証を進めなければなりませんが、現在でも多くのことが明らかにされています。

 1)湖・河川・海の凍結の頻度の上昇
 2)植物相と動物相の変化
    小麦、葡萄、オリーブの栽培地域の南下
    アルプスの樹木限界の低下
    ハマダラカの南下(マラリアの危険は去る)
 3)定住における変化
  グリーンランドのバイキングの滅亡
  アイスランドとノルウェーの衰退
  人々の寒冷地(ヨークの事例など)からの撤退(中世の廃村研究グループによる)

 私にとって特に興味深いのは、14世紀中葉の黒死病の時期に前後して「廃村」または「荒廃」と称する大規模な現象が始まり、17世紀まで続いたという事実が研究史上はやくから指摘されていた点です。荒廃はしばしば村人口の減少や村落全体の消滅という形を取り、村人の死亡や別の土地への移住を伴いました。では、一体、人々はどこからどこへ移住したのでしょうか?
 W・アーベルは、彼の著書の一部で、中世末期の「荒廃」と「移住」を取り上げており、その際、①農地の荒廃と集落の荒廃、②一時的荒廃と永続的荒廃、③部分的荒廃と全面的荒廃を区別する必要を論じており、多くの場合、一時的荒廃が永続的荒廃に、部分的荒廃が全面的荒廃に至ことを認めています。また農地の荒廃と集落の荒廃が多くの場合に密接に関連していたことを認めています。
 しかし、彼は荒廃の諸原因として、「疫病および戦争、火災、盗みと略奪、地震と洪水、地味の悪い土地、不利な気候状態、細分化された農地、(三圃制における)恊働への強制、またはその逆、つまり一層大規模な共同社会における恊働の要請(および狭小すぎる村農地の放棄)」を羅列しているだけであり、われわれの注目する気候的要因(寒冷化)には触れていません。しかし、そこにも一つだけ注目されている点があります。それは彼が<地理的な要因>としているものです。彼が実際に示した人々の移住は、明らかに北部から南部へ、標高の高い土地から低い土地へ、つまり寒さを避ける方向を指し示しています。例えば、スカンジナビア、ドイツの南部(アルプスに近い部分)などで廃村が顕著なのに対して、フランスではそれほどではありませんでした。
 
 もちろん中世の温暖期ではなく、中世末から近代初期の小氷期に人々がきわめて厳しい環境に置かれていたことは間違いありません。

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