世に経済学の教科書や入門書は多数ある。中には「サルでも分かる」と銘うったものもあるが、サルに分かる経済学など大した内容ではないだろう。
それはさて、不思議なことに、現在の経済では、人々は所得を、しかもほとんどの場合、貨幣所得を得ることを目的としているにもかかわらず、所得分配を実相に即して論じていない経済学の教科書や入門書があるのが驚きである。
いったい何のための経済学なのかと、驚くばかりである。
さて、所得とは何か? 出発点のところで、簡単に言えば、それは収入(売上げ)から物的費用を差し引いたものである。付加価値と言い換えてもよい。
所得=付加価値=収入ー物的費用
ここで経済学の父といわれるアダム・スミス『諸国民の富』の説明を取り上げよう。
スミスは、彼が想定したような古い時代、つまり人々が労働者(職人)と資本家・企業者(主人)に分かれる以前の時代には、資本(道具や原材料など)も自分で生産したと想定している。したがって、すべての収入は自分の所得(付加価値)となった。
ただし、分業(商品交換)が想定されているので、モノには値段(価格、物価)があり、交換(販売)が生産者の所得を実現する。
所得=価格 × 生産(販売)数量 Y=p・Q (1)
ところで、生産するには、労働が必須であり、一定期間(年、月、日など)にある時間の労働を行なわなければならない。いま、期間に年をとり、労働時間を T とする。また労働生産性を ρ (ロー)とする。すると、生産物の量(金額)=所得 Y は、次式で示される。
所得=労働時間 × 労働生産性 Y=T・ρ (2)
ここで、スミスは考えた。いますべての人々が様々な点で、平等であり、ただ生産物の種類が異なるだけであれば、等しい労働時間によって得られる所得も等しくなるはずであると。年に2000時間のある労働の産物は2000時間の別の労働の産物と交換される。
例えば2000時間の産物(ムギ200kg)は、2000時間の労働の産物(布20単位)と交換される。労働の生産性は、それぞれ1kg/10時間、1単位/100時間である。(これがアダム・スミスの素朴な、しかしリアリティのある投下労働価値説である。)
だが、近代の「商業社会」では、この単純な関係は存在しない。まず世の中が職人(労働者)と資本家(主人、企業者)に分かれているからである。ここでは職人に支払う賃金は自分の所得ではなく、人件費となる。また資本家は生産を組織するが、その際、道具や機械、それに原材料も市場で購入してきたものであり、自分の生産物ではない。だから、費用は、自分の所得ではない。
そこで、個々の作業場・工場で、生産と販売によって実現される所得は、次のように変形される。
A=E+M+W+R Y=減価償却費+原材料費+賃金+利潤
詳しい説明は省くが、この作業場で実現される付加価値は、このうち賃金と利潤である。つまり、 Y=W+R
しかも、この付加価値 Y がすべて資本家の所得(利潤)となるわけではない。利潤 R は、付加価値から賃金 R を差し引いたものである。
R=YーW (3)
さて、アダム・スミスは考えた。この場合でも、上記の原理は成立するだろうか、と。
もちろん成立しない。何故ならば、第一に、職人と主人とは、同じ時間労働しても(主人の仕事も労働と考えて)同じ所得を得ることはない。スミスは、より具体的に観察し、労働者たちが生活のためにやむを得ず団結し(労働組合を結成し)、労働条件のために運動しても、当時の法律(団結を禁止する法律)によって弾圧されているのに対して、資本家(主人)たちは陰でこっそり団結していることを指摘している。ともかく、同じ人間ではあるが、所得額が桁外れに違う。その背後には、資本家は、一定の金額(賃金)で多数の労働者を支配しているという関係がある。決して対等な権利・力を持つ人々の交換関係ではない。20世紀にジョン・ガルブレイスは、労働側に「対抗力」を付ける必要があると主張したが、ある意味でスミスはその主張の先行者である。
第二に、個々の作業場における R と W の関係ではなく、作業場と作業場との間における所得額は、どうか? つまり、小麦粉を生産する作業場Aと布を生産する作業場Bでは、(資本家+職人)一人あたりの付加価値は、同じになるだろうか? スミスは、この点については、明示的に示していないが、いくつかの点から、大きい乖離が生じていることを認めているように思われる。つまり、企業間には、労働生産性、資本規模、労働者数によって大きい差があるのであり、それは労働時間による等価交換を(ある程度は反映しているかもしれないが)実現してはいない。
現実世界をきちんと観察した上で成立する現代の経済学も、上のスミスの想定をほぼ認めている。
しかも、マルクス、マルサス、ケインズの天才は、所得分配(賃金と利潤)を、有効需要(D=C+I+X-M)と結びつけるという点で、大きい貢献をなした。
賃金(W)→ ある時期・年齢の個人はともかく、社会全体では、ほぼ消費のために支 出される。CL=W
利潤(R)→ 経営者報酬、配当、利子・地代、内部留保、減価償却費(粗利潤の場合)
社会全体では、消費支出 CK と貯蓄 S に分かれる。R=CK+S
もちろん、(閉鎖経済の前提では)I = S である。
したがって Y=W+R=Q(生産)=D(有効需要)=(CL+CK)+I
この式は、個々の企業が(厳しい競争などを理由として)賃金を圧縮すると、社会全体では、1)結局のところ消費支出・消費需要を圧縮し、2)さらに消費需要の停滞を企業に「期待」させることになり、企業の投資計画を萎えさせ、投資需要も縮小することを示している。
この式はまた、所得分配について論じることなしには、経済(成長、発展、構造など)について語ることができないことを示している。
現代の主流派経済学者が所得分配に触れたがらないのは、まさしくケインズが言う「思想」と「権益」のためであろうが、それは経済学を「裸の王様」にする行為に他ならない。
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