所有権または私的所有権は、経済学的にはどのように基礎づけられるか? 今日、多くの経済学者は、この大問題を迂回するのが普通であり、真面目に取り上げないが、言うまでもなく歴史上は最大の問題であったし、現在もそうである。
この問題は、マルクスにとどまらず、ヴェブレンもケインズも論じている。ここでは、あまり触れられることのないヴェブレンの『営利企業の理論』(邦訳は『企業の理論』、小原敬士訳、勁草書房)の第4章「営利原則」を見ておこう。(若干訳を変える。)
(ヨーロッパ)中世には、所有権は次のように捉えられていた(とヴェブレンは言う)。それは「慣習上の権威」がおおよその根拠であり、権利、権能、特権などはここに由来していた。所有権は上位者(優位者)と下位者(劣位者)に分化しており、優位者は習慣によって守られた武勇によって力を保持し、権利の委譲によって劣位者の権利の主張に根拠を与える。両者の関係は、「人的関係」(personal relation)であり、また身分、権威、服従の関係だった。権利の委譲の関係は、より上の優位者を通じて最高の優位者に達し、さらに神にさかのぼるものと考えられた。神が人間の権利と義務の源泉をなしたのは、至高の存在としての神の職務であった。このような秩序における所有権は管理権であった。
しかし、このような中世的概念は、まず最初ルネサンス期のイタリアで崩壊しはじめ、近代的概念に席を譲るようになった。しかし、「現代の自然権の概念の基礎となっているような観念が最初に形づくられ、十分な表現に達したのは、英語国民(アングロサクソン民族)においてであった。」それは、「中世期の身分と武勇の制度とは異なって、手工業や貿易の近代的な経済的要因によって与えられる。」「権利や真理の新しい格率が古いものを押しのける。」
そして、新旧の思考習慣の交代、新旧の格率の闘争は、政治学説上の究極因に関する対抗的な諸概念の間の闘争として現れ、「このような代替の過程は1688年の革命(内戦)の中で劇的なクライマックスを迎えた。」もちろん、(以前示したように)ジョン・ロックが「自己労働」にもとづいて所有権を正当化したことは言うまでもない。「まず最初、労働が所有財産権を与えた」のである。一方、フィルマーは、「委譲」に関する中世期的な格率の最後の有力な代弁者だった。」「労働が富の原初的な源泉であり、所有権の基礎であるということは、事物の自然的秩序の原則となった。」
さて、ジョン・ロックが自己労働によって所有権を基礎づけたのは、17世紀の手工業や手職の時代である。しかし、それは18世紀の標準化を通じて、大きな役割を果たした。要するに、「その世紀(18世紀は)は、信用取引きの安全と便宜とともに、契約の自由を与え、それによって企業の競争的秩序が最終的に確率されたのである。」
だが、もちろん、19世紀に最終的に確立した企業を主体とする資本主義経済秩序は、17世紀にジョン・ロックが見ていた秩序(自己労働にもとづく所有権)とは明らかに異質な経済秩序である。
そうであればこそ、新たに成立した企業者経済の秩序は、さっそく批判されることになった。マルクス『資本論』による「領有法則の転回」(自己労働の否定と資本家的領有=資本による搾取)という批判的認識が生まれ、また20世紀には、「前工業社会における労働の果実を所有する権利と、ロックフェラー氏やウェストミンスター公が労働力を所有し何千人もの他の人々の生活条件をコントロールする権利とを同一視するような驚くべき混同」に対して、しかも未曾有の大量失業を前にして、ケインズもまた批判的知見を加えなければならなかったのである。(「デモクラシーと効率」1939年の対談)
もちろん、ジョン・ロックが擁護したような「自己労働にもとづく私的所有」は、「金融市場に参加し、人を雇用し、解雇し、あるいは自分の思い通りの賃金を支払う権利という意味での所有権」とは決して混同できないものである。またビッグ・ビジネス=巨大企業という組織を前にして、個人個人が自由な市場で取り引を行なうといった原子論的個人からなる自由市場の理論が成立すると考えるのは、はなはだしい時代錯誤である。
それでは、19世紀に成立し現在まで続いている「営利企業」とはどのようなものであろうか? それはどのような行動様式をとり、それは経済社会全体にとってどのような帰結をもたらすのか? 言うまでもなく、それこそが『企業の理論』全体の主題であり、現代の経済学がその解明を義務づけられている課題である。
(続く)
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