さらにヴェブレンは、現代の政治が企業政治であること、それが戦争と密接に関連する傾向を持つことを論じるが、この部分はとりあえず措いておき、以下に政治と私有財産の関係を論じた一節をあげておく。(訳文は、勁草書房出版の小原敬士訳を参照したが、大幅に変更してある。)
第8章 「法と政治における営利原則」の一節
企業政治の第二の制度的支柱、すなわち私有財産は、同じように過去の規律の生き残りであり、またおそらくより小さい程度であろうが、同じように最近の文化状況の規律とは無縁である。私的所有の原理は、それが現在の一般的な精神の中にゆきわたっている形態では、上段で指摘したように、手工業と零細商業の時代に由来する。それはあまり古くなく、またあまり引き続いた血筋のものではないので、愛国主義的連帯感の感覚に比べてあまり確実でない文化的遺産であるようにも思われる。その原理は、財産の所有権が人間の福祉の物質的基礎であると言い、またこの財産所有の自然的権利は、個人の生命、そして特に国民の生命が神聖であるのと同じように、神聖であると言う。マナー制度下で恊働作業が、また手工業制度下で共同の規則が教え込む生命と思考の習慣は、明らかに経済的利害の連帯性の観念に大きく貢献した。そして、この習慣は、そのような観念に、もっと後の資本主義の時代になって明らかな利害の不一致に直面しても存続することを可能とするような、高度の一貫性を与えたのである。この現在の企業体制のもとでは、企業利潤が個人の富の基礎となっており、また共同取得という(似而非の)観念がマナー制度的な共同作業の観念の位置を占めている。初期近代の手工業の規律下で形づくられたような所有権の制度的精神では、財産を生産した労働者に財産の所有権が与えられる。この形而上学的見解は、用語の弁証法的な逆転によって、財産の取得をもって富の生産を意味するものと解釈することにより、後の競争的企業の状況に適合させられている。そこで、企業者は、彼が取得するあらゆる富の推定上の生産者とみなされる。この詭弁の力によって、どんな人による財産の取得も、その所有者にとっての手段であるばかりでなく、共通の善(福祉)に役立つ活動として価値あるものと考えられる。抜け目なく取引することや、自分自身の手の仕事によって生産した以上の財を蓄積することができないことは、好機を見逃すばかりでなく、義務をなおざりにすることとして、困ったことだという感情で見られる。もちろん、金銭的な良心は、普通、各人が手元にある富全体の均等な部分以上を取得するべきだと公然と主張するドンキホーテ的な極端にまで行き着かない。しかし、他の事情が等しいならば、富全体のより大きな分け前を自分自身の所有にふりむける人が最も公共の善(福祉)に役立つものと感じられている。彼がそれを弁護する資格を獲得すれば、彼はその推定上の生産者となる。
所有権についての自然権的基礎は、この偽推理によって不可侵のものとして保護される。そして社会の中の企業者は少なくとも財産に対する資格を獲得するだけ、富全体を増大せしめるものである、と庶民に感じさせることができる。また成功した企業者は、少なくともそれと同じように、自己の、全体の富や社会全体の物質的福祉に対する関係はそのようなものであると思いこむ。そこで、企業政策によってその利得の増進をはかる企業者も、その企業利潤を保障するための手段(労働)を提供する人民も、ともに賢明な企業の目的———金銭的な事柄に熟達している者の手中への富の蓄積———のために、誠心誠意、力を合わせて働くのである。
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