かつて(1980年代に)イギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャー氏(故人)は、かずかずの名言(迷言?)を残しました。
「他の代替案はない。」(There is no alternative. 略してTINA)
「くやしかったらがんばりなさい。」
「社会というものなどない。」
(その他は省略します。)
「他の代替案」というのは、彼女の推進する「新自由主義政策」で、「くやしかったらがんばりなさい」というのは、これからは何でも「自助」でゆくから、貧しいひとは一生懸命頑張って豊かになりなさい、といった意味ですjが、そもそも社会では、スタートラインに大きな格差があるのだから、誰でも頑張れば大金持ち(資産家)になれるわけではありません。
このうち「社会というものなどない」(There is no such thing as society.) というのは、社会科学者なら少々考えさせられる言葉ですから、今でもよく覚えています。
社会学者なら、「社会とは諸個人の社会的関係のアンサンブル(総体)である」といって、答えるかもしれません。
私は詳しくはありませんが、仏教では、華厳教に「事事無礙の法界縁起」が説かれており、すべての世界事象は、相互に関係しており、相互に溶け合い、関係して存在している(dependent-rising)、というかもしれません。曹洞宗を開いた道元も『正法眼蔵』で法界縁起に時々触れています。
相互関係ですから、たしかに「物」ではないことは言うまでもありませんが、上記のような意味ならば存在していることは間違いありません。
ただし、サッチャー氏も、さすがにこれではまずいと思ったのでしょうか、「ただし家族を除いて」と補足しています。つまり、家族関係だけが社会関係だというわけです。
しかし、仏教の「法界縁起」を持ち出すまでもなく、私たちの住む世界では、家族以外の社会関係が満ちあふれるほど存在しています。
むしろ、人間は一人で孤独に暮らすことができないようになっているといってよいかもしれません。もちろん、いろんな人が暮らしているのですから、何らかの「妥協」(生物学でいう「共生」symbiosis)が必要となるでしょう。
経済の世界で現在もっとも基礎的で重要な社会関係をなしているのが「企業」、「会社」であることは、言うまでもありません。その多面的な分析は、経済学者の重要な仕事です。
ですから、マルクスも、ケインズも、ヴェブレンも、ガルブレイスも、そもそも偉大な研究をなしとげた一流の経済学者は皆企業(または会社、資本)に関する考察・分析を残しています。
ここで思い出しました。名前は売れているかもしれないけれど、企業や会社のことなどにほとんどまってく触れていない経済学者もいました。例えばミルトン・フリードマンやハイエクです。
彼らは、市場原理主義に偏執狂的にとりつかれた経済学者といっても過言ではなく、個人と個人との市場取引について多くを語っていますが、企業という組織の分析をしたことはありません。彼らは、企業を組織を持たない一つの点としか捉えず、その内部組織と性質を研究することはしませんでした。これは物理学で言えば、原子の中の構造を研究しないのと同じことではないでしょうか。
なぜ彼らが企業組織を研究しなかったかと言えば、そんなことをすれば現代の経済組織が「自由市場」からのみ成立しているのではないことがバレバレだったからと思われます。
サッチャー氏の頭の中も同様だったのでしょう。
ここまで書いて思い出しましたが、何年か前に新潟大学在職中に学内の研究会でアメリカ経済学会の会長(オルブロウ氏)に会うことができました。
彼はサッチャー氏の言葉にむしろ研究意欲をかき立てられたと書いています。
研究会が終わったあと、会長が問わず語りに、「日本はなぜアメリカ流の市場主義、訴訟社会をつくりだそうとしているのか? 理会に苦しむ。アメリカは、訴訟にお金がかかりすぎて大変だ。日本のように、訴訟に頼らずにやってゆける社会が最善なのに・・・。」といった趣旨の言葉を私に話しかけてまいりました。
「私もその通りと思います。」と答えたのを思い出します。
この訴訟というのも、社会関係の一つです。
社会は存在している。ただし、物質ではなく、その社会の成員一人一人の相互関係として、存在している。 しかも、現在の経済社会では、人は、相互に原子的な(atomic)な個人の集合としてではなく、市場で取引をするにすぎないのではなく、様々な仕方で、また領域で相互に社会的関係を取り持つ。
これが現実的な経済学の出発点でしょう。
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