2017年6月24日土曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 3

 さて、新自由主義政策と安倍氏の経済政策との関係であるが、それらが同じであると断定できるかどうかは別として、両者がきわめて親和的な関係にあることは否定できないとういのが結論である。なぜか?

 ここでふたたび新自由主義」の発想(idea)に戻らなければならないが、それが市場原理主義とともに広義における「供給側の経済学」(サプライサイドの経済学)に立脚している点を指摘しなければならないだろう。
 そもそも新古典派の経済学自体が「供給側の経済学」としての性質を濃厚に帯びているのだが、この発想は、供給側、あるいは端的に言って企業側の置かれている環境・条件を改善すれば、経済は好調になり、高成長を実現できると教える。なぜ、そう言えるのか?
 かつてレーガン大統領は、次のように考え説明した。
 もし企業(および富裕者と付け加える)の置かれている環境を改善するならば、例えばその生産に要する費用、特に人件費=賃金を抑制したり、法人税・社会保障費負担などを軽減すれば、企業(および富裕者)の純所得が増え、貯蓄が増え、したがって(設備)投資が増える。この投資の拡大は企業(供給側)の生産能力の成長をもたらし、したがって経済のより高い成長率が実現されるであろう、と。
 この論理は一見すると非のうちようがないように見えるかも知れないが、しかし、その論理は、事実上、破綻している。なぜか?
 たしかに賃金抑制や企業・富裕者減税などは、供給者(企業所得やその企業所得からの分配を受ける利潤所得者=富裕者)の純所得は増加するであろう。
 しかし、この増えた所得が貯蓄され、最終的に(設備)投資に向けられると確実に言うことはできない。貯蓄(資金の供給量)が増えれば、(設備)投資(資金の需要量)が増えるというのは、まさに供給側の発想であるが、これはいわゆる「セー法則」を前提として初めて成立するロジックである。
 「セー法則」とは、19世紀のフランスの経済学者 Baptiste Say にちなんだ名称であるが、「法則」でも何でもなく、ただ「供給はそれ自らの需要を創り出す」という命題に与えられた名称にすぎない。
 もしこれが「実現された需要は、実現された供給に等しい」という真理(!)を意味する語句として用いられるだけならば、特に異論はない。しかし、この語句はしばしば「企業の生産能力は、それに対応する需要量(=購入量)を生み出す」という意味で用いられる。そして、この後者は明らかに誤りである。
 もし企業の生産能力が常にそれに等しい需要量を生み出すならば、1930年代の大不況も生じなかったであろう。そもそもどんな不況も(また失業も)生じないであろう。なぜならば、企業がその生産能力を高めれるに応じて、それに対する需要が生まれるからである。そこでは財やサービスの市場における実現の問題は(部分的、例外的な現象として以外には)生じない。
 
 上の論理のどこが間違っているのであろうか? それはすでにマルサス、マルクス、ヴェブレン、カレツキ、ケインズなどが明確に指摘した通りである。
 簡単に言えば、最も本来的には、(設備)投資需要は、財・サービスに対する需要量がその適正な生産能力に近づくにつれて、(限界に達する前に)企業者が設備投資によって供給能力を高めておかなければならないと判断することによって生まれる。逆に言うと、工場・プラント・機械設備等の設計者は、予測される需要量をあるマージンで超えるように設計することを、経営者から要請されている。
 このことは、本来的には、(設備)投資が財やサービスに対する需要によって決定されることを示している。たしかに、ケインズは、その他に企業者の持つ「アニマル・スピリット」の役割について言及している。不況感が漂っていても、また将来の需要に対する若干の不安・不確実性があろうと、企業者は設備投資を行うかもしれない。しかし、それも程度の問題である。企業者は、将来の需要拡大を期待して(予測して)投資を行うことはまったく現実的な事態である。
 
 以上のことから、次のことが導かれる。もし企業がもっぱら賃金圧縮を行い、また法人税や所得税の減税による純可処分所得の増加をはかるならば、それは当面企業所得および企業からの利潤所得の二次的配分にあずかる富裕者の純所得を増やすであろうが、社会全体の需要を冷やす効果を持つことが予測されることである。
 
 もちろん、現実の経済社会は、多数の要因が複雑にからみあっているという意味で複雑であり、また原因が結果を生み、その結果がまた別の事象の原因となるという意味で累積的な因果関係の成立する複雑系であり、そのため単純な算術的計算によって事態を正確に描くことはできない。

 しかし、簡単な算術計算による第一次的接近でも、上述のことから描かれる事態が生じることは否定できないだろう。それは、<供給側の改善→貯蓄の増加→投資の増加→経済成長>という因果関係とはまったく別の帰結をもたらす。
 むしろ、期待される(予期される)のは、次の経過である。

 総需要の停滞→設備投資の停滞→抑制された経済成長
  付随減少:企業所得の増加、賃金の抑制→富と所得の格差拡大

 さて、まわり道をしたが、アベノミクスが新自由主義のわなからまったく抜け出せていないだけでなく、むしろ新自由主義政策そのものをめざしていたことはこれで理解されただろう。(ただし、安倍氏の政策の特徴は、小泉構造改革とは若干異なっており、そこに国家主義の色彩が漂っている。これについては、後でゆっくり検討することとする。)
 それは安倍政権による次のような施策からうかがうことができる。
  規制緩和(国家戦略特区など)
  TPPの推進
  大企業に対する法人税の大幅減税/消費税増税(税制のフラット化)
  他(略)
 

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