自然科学・社会科学を問わず、偉大な科学者には、徹底して事物を観察し、考え抜く力がある。これは言わずもがなかもしれない。が、それだけではなく、普通の人があえて疑問としないことを問うという能力を備えているように思う。そもそも問うことなしに、観察も考察もないだろうから、これは当然のことかもしれないが、必ずしも明確に意識されていないかもしれない。
問いには、はじめて接する事柄に対する疑問もあろうが、多くの場合、世界事象はすでにわれわれの前に現出していたものである。つまりは、当たり前のことであり、多くの場合は問うに値しないようなもの--常識--である。例えば太陽が東に上り、西に沈むことは常識であり、日々の生活にその理由・事情を明らかにすることは必ずしも必要ない。もしそのような常識事を明らかにすることが必要な事情が生じたとするならば、よほどの事態あるいは変化が生じたということななるであろう。
結論的に言えば、問いには「脱構築」(deconstruction)が前提となっているように思う。 日常的に私たちの前に現出している事態と、その把握方法、つまり常識を問いなおすことが「問い」である以上、このことは同義反復といってもよいほどのものであろう。
ケインズは、『貨幣・利子および雇用の一般理論』(1936年)で、いわゆる「有効需要」の理論とそれにもとづく貨幣・利子・雇用の理論を構築したが、そのためには、彼を育てた常識的な理論(新古典派理論)との格闘を必要とした。ケインズの場合、新古典派の中から生まれた自己批判として『一般理論』を構築したのであるから、その格闘の程度は、例えばマルクス経済学--つまりあらかじめ脱構築を果たしていた経済学--から出発したカレツキに比べて、はるかに激しかったはずである。私などは、カレツキが比較的簡単に彼の有効需要理論を展開しえたのに、何故、ケインズがまわりくどい説明をしているかが理解不能とも言えるほどである。
そのケインズであるが、『一般理論』の最後の諸章で、何故人々は間違った政策--というのは不況時に不況を深刻化させるような政策ー-を実施しようとするのかを論じている。私にとっては、理論本体よりもこちらの方がより興味深く感じるが、一般的には必ずしもそうではないかもしれない。ともあれ、この問いに対して、ケインズは「権益」と「思想」(vested interest and idea)という回答を与えている。この権益と思想という用語であるが、「権益」も「思想」も適訳ではないように思う。特に vested interest というのは、各人がそれそれの状況の中で賦与された利害や利害関係のことだから、「権益」はあまりふさわしくない。例えば、私事になるが、私は数年前まである大学に勤務しており、給与所得を得ていたが、したがってその当時の私の vested interest は、深くその事(大学をとりまく状況など)にかかわっている。それを「権益」というのは、少々オーバーである。誰でも必ず何らかの意味で、関連で権益を持つ。だが、これについては後で詳しく検討することにする。
しかし、人々が現実の経済活動とどのように係わっており、またその中でどのような意識の傾向(bias*, preconceptionなど)を持つにいたるか、を深く問うたのは、ケインズよりもっと先の人、アメリカの経済学者、ソースティン・ヴェブレンである。このヴェブレンの経済学は、弟子のガルブレイスに受け継がれている。後にガルブレイスはケインズの理論に大きな影響を受けたが、ヴェブレンの問いを確実に引き継いでいた。
そして、現在、私が最も関心を持つに至ったのが、この「権益」と「思想」であり、また両者の関連であり、かつ後者が持つ傾向・特徴(bias*, preconception)がどのようにして形成されるか、という問題群である。
*bias という言葉であるが、日本語で「偏見」とも訳される。しかし、ヴェブレンのbias には非難めいた響きはない。それぞれの社会がその特性に応じて特定の「かたより」 「傾向」を持つというにすぎない。それは個々人にとっては彼が生まれついた社会から与えられた先入観(preconception)でもある。
といったところであるが、ヴェブレンの著作は、目下、翻訳中であり、その一部はすでに本ブログでも公開したが、簡単な解説も順次公開したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿