2019年7月27日土曜日

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 「経験」と「歴史」はどう違うか?
 
 その前に、歴史はおろか、経験にさえ学ぼうとしない人もいるかもしれないと思うと、ともかく学ぼうとするのはよほどましということになるかもしれないと思う。

 さて、夏目漱石の「創作家の態度」というエッセイは、漱石としてはめずらしく一種哲学的な趣のあるエッセイだが、ちょっと読んだところでは、その辺にある哲学書の解説というよりは、自分の脳で考えたものらしい。ただ、その中で最初の部分に「ジェームスと云う人」に言及しており、その人の「吾人の意識するところの現象は皆選択を経たものだと云う事」を紹介している。後の方になると、かなり難しい議論を展開しているが、これなどは最初の導入部だけあってずいぶんと分かり易い。
 「経験」というのは、皆、個人個人の生涯(life-history)の限度中で得られた体験であることは言うまでもないが、それだけでなく、何らかの「選択を経たもの」であるという制限・制約を受けていることになり、歴史に比べていっそう狭くるしいものであることはわかる。しかも、個々人にこうした選択をさせる脳(意識)の働きは、漱石が別の処で論じている「模倣」、つまり社会学でいうところの「社会化」、広い意味での「教育」によって条件づけられており、当該個人を育ててきた社会(国、地域、一族、家族など)の「バイアス」(ある傾向への偏り)、「先入観」(preconception)、「思考習慣」--これはソースティン・ヴェブレンの用語から借用している--の働きに関与していると言えるだろうから、国籍や地域性によって異なるということもできよう。
 またこれとはことなった方向から考えることもできるように思う。
 「柳の下にドジョウはいない」ということわざがあるが、これは、ある人がある時にたまたま柳の木の下を流れる流れにドジョウを見つけ、獲ることが出来たとしても、柳の下を流れる川で常にドジョウを捕まえることができるわけではないことを示したものである。言うまでもなく、仏教の有難い御経をひもとかなくても、すべての現象・事象は相互依存的に生成する(dependent-rising)という縁起が成り立つことは、ちょっと哲学的な思考をすることができる人には自明の理である。ある時に川にドジョウがいたのは、そのための他の諸条件が整っていたからに他ならない。私が子供の頃は、春まだ田圃の耕作が始まる前だったか、刈り取りが終わった後だったかよく覚えていないが、シャベルで田圃の土をかくとドジョウがうようよといたものだが、いまはいない。強力な殺虫剤、多分今では使用されていないホリドールという強烈な薬品によって絶滅したからであろう。そういえば、昔は田圃のあちこちにいたタニシ(貝)もいない。ただ、源氏ホタルのエサになる「ビンドジ」という巻貝は郷里の家の後ろの池とも側溝とも言えない処に細々と生息しており、そのために我が旧家は貴重な源氏ホタルの発生地となっている。

 つい話しがそれてしまうが、経験とはどのようなものかを説明、いや自分で納得するために考えながら書きつらねているため、ついそうなってしまう。
 さて、以上の「経験」と対比すると、おそらく歴史とはそうした個人個人の選択を経た経験を越えるものということになろう。でなければ、この文章にとって都合が悪い。
 それはむしろいくつかの層からなる人々(社会)の経験を脱構築する(deconstruct)ものでなければならない。それは少なくとも、様々な人を特定の方向に偏らせる諸要因を自覚化させるものでなければならず、したがってある選択をもたらした意識上の諸要因を明らかにするものでなければならない。
  またそれは別の観点から言うと、相互依存的な世界をそのようなものとして見直し、その相互依存関係、あるいは因果関係の実相にせまるものでなければならない。

  さて、自分は何故このようなどうでもよさそうなことにこれほどにこだわっているのか?
 それは、私のちょっとした経済学上のこだわり(発見というほどのものではない。というのはすでに多くの人が指摘しているようにも思うためである)に解決の糸口を見つけることができるかもしれないと考えるためである。その発見というのは、経済が例えば「オランダ病」や「イギリス病」、そして現今の「日本病」などの病に罹った場合、 人々は合理的に行動し、その病から脱出する手段を簡単に見つけることができるのではなく、むしろ反対に悪化する方向の行動(経済的行動にとどまらず、政治的選択を含める)を取ることが往々にしてありうるということに他ならない。
 さすがに、ケインズは、『一般理論』の本論で、彼の基礎理論を展開し終えたのち、最後の部分でこれに取り組んでいるように見える。彼の見解は「思想」と「与えられた利害関係」(idea and vested interest)というものである。ただし、この両者は別々のものであるかのように捉えられているかもしれないが、分かちがたく相互に密接に関連していると捉えるのがよいように思う。また彼が本論中で指摘した「合成の誤謬」という論理的誤謬も両者の関連を歴史の中で具体的に把握するためには、論理的な環として重要なことであるように思われる。しかし、従来の経済研究の中では、この側面を深めることはあまり追求されてこなかったように思う。
 
 ともあれ、いわゆる経済学研究が政策科学として成立するためには、こうした制度派的な視角からの分析が必須であるように思う。

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