この国では、しばしば「官」と「民」という言葉が使われます。しかも、その際、「官」には否定的な語感が感じられ、「民」には肯定的な語感が含まれていることは、多くの人が感じていることと思います。
しかし、官、民とはいったい何でしょうか?
まず官は官僚の官を連想させます。「官僚制はよろしくない、なくすべきべきだ。」こんなところでしょうか。
一方、「民の声は神の声」(Vox populi vox dei.)などという言葉があり、こちらは肯定的な響きがあります。
しかし、「官と民」という言葉を多用する人(例えば竹中平蔵氏など)が、「民」というとき、実際には人々(諸個人)という意味で使っているのではなく、会社やビジネスという意味で使っていることに気づいている人は多いと思います。
ちなみに、ガルブレイスの著作に『悪意なき欺瞞』(ダイヤモンド社)という本がありますが、原著では corporate sector (会社セクター)という言葉が翻訳では「民」と訳されています。偉大なる誤訳といってもよいかもしれませんが、日本ではまさにビジネス界が「民」という用語で示されているのですから、その意味では日本の現実を素直に反映するものといえるかもしれません。「民活」(民間活力)などという言葉がありますが、この言葉をキャッチコピーとする政策は、往々にして従業員を「自由に」使って経営者や株主だけが所得を増やすブラック企業(これも民です)を許容する結果をもたらしてきました。本来は、「民」の活力ですから、従業員が所得を増やし、元気を出さなければならないはずですが、・・・。
ともあれ、多くの人の頭の中には、官は国家官僚組織、民は会社(民間企業)という2項図式が存在していることは、様々な発言から明らかです。
しかし、このような二分法は日本の一部では通用するかも知れませんが、誤用に他なりません。
まず官僚制ですが、これは行政組織だけでなく、民間企業にも存在します。あえてマックス・ヴェーバーなどの社会科学上のビッグ・ネームを出す必要もないでしょう。現代の企業が合理的官僚制として組織されていることは周知の事実です。従業員を何千人、何万人もかかえる現代の巨大企業は、それなくしてどのように支配(命令と実施)を実現するのでしょうか?
一方、「官」によって示される政治の領域は、本来、近代市民社会(政治的社会)の理念にあっては、すべての構成員が平等な権利をもって参加する公共的な領域であって、一握りの官僚の組織をいうわけではありません。「官」という表現法自体に、日本の政治の世界が公共の領域ではなく、何か常人が近寄ってはいけない特権者の世界というニュアンスが感じられ、政治の世界が何か薄汚い世界であるかのようにイメージされています。それに、いったい民間企業の官僚制がクリーンな世界だとでもいうのでしょうか。
次に民ですが、これは上で示唆したように、本来は人々(people)のことに他なりません。しかし、民を会社=ビジネス界(corporate sector)と観念することによって本来の民は閉め出されてしまいました。人々は会社に滅私奉公するべき存在と見なさるか、あるいは存在すら意識されていないかのようです。
どこがおかしいのでしょうか? そもそも官と民という二分法が誤っているというしかありません。米国でも欧州でも、政府、会社(ビジネス)、家族・個人は別々の存在として意識されていまし、日本でもそうです。われわれは、官と民という巧妙なレトリックに騙されてはなりません。
社会のリードする人々には、官と民の二分法ではなく、せめて政治(公共性)、会社(ビジネス)、家族(個人)というトリアーデ(toriade)を知り、それぞれがどう関係するべきかを考えて欲しいものです。
市場を通さない外部経済性が大きな存在(=公)と、市場を通さない外部経済性が小さな若しくは無い存在(=個)とに二分すべきであって、3つに分けては徒に複雑となるだけに見えます。
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