2014年3月2日日曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 7 ポーランド・ウクライナ・リトアニア・白ロシア

 家族史にとってロシア(大ロシア)とドイツ・オーストリアとの中間地域は、まだが研究が十分に行われているとは言えない地域といっていいかもしれません。少なくとも私にとっては不明な点が多数あります。

 この地域には、かつてポーランド王国とリトアニア大公国が存在していましたが、この両国は1550年代に併合し、ポーランド・リトアニア共和国をつくりました。そのうち旧リトアニア大公国の領域は、大体現在のリトアニアとベラルーシ(白ロシア)に重なっており、旧ポーランド王国の領域は、現在のポーランドとウクライナに重なっていますか。その後、ポーランド・リトアニア共和国を構成していた地域は、大部分がロシア帝国に編入され、旧スウェーデン領だったバルト3県とともにロシア帝国内のヨーロッパ・ロシアの西部諸県(ポーランド王国諸県、リトアニア諸県、白ロシア諸県)に編成されました。一方、同共和国の一部(現在のポーランドの一部とウクライナの西部)はオーストリア帝国に編入され、ガリシア(Galicja)地方を構成することになりました。したがって現在ニュースをにぎわしてるウクライナは、かつてはポーランド王国に属しており、その後、ポーランド分割によってロシア帝国とオーストリア帝国に分かれ、最後にソ連時代を経て、1991年以降、独立の国家になった地域ということになります。

 このうち旧リトアニア大公国領(リトアニアと白ロシア)における家族史についてはW・コンツェ氏が主に土地台帳にもとづいて実証的な研究を行なっており(1940年刊行)、基本的な事柄が明らかにされています。一方、旧ポーランド王国領(ポーランドとウクライナ)については、ソ連時代になされた研究があり、私もキエフ市で集めた史料(課税台帳)にもとづいてちょっと調べたことがありますが、なお判然としないところがかなりあります。

 これらの地域では、15世紀以降、西方(ドイツ)からの影響下に「フーフェ」(voloka, wloka, valakas)の制度が導入され、それが同地域の農業・土地制度に大きな影響を与えたことは間違いありません。フーフェとは一定面積の耕地(通常は33エーカーに等しい)を意味します。それが導入された村落では、測量によって耕地が1フーフェずつに区画化され(ただし、三圃制、混在耕地制のため、耕地が必ずしも一つの区画をなしているというわけではありません)、原則として各農家に1フーフェの耕地が形式的に平等に分配されました。そして国家または貴族領主は、このフーフェを基準として各種の賦役・公課を課税することになります。
 しかし、それまで各地に存在していた家族制度の作用により、フーフェ制が導入されて以降の家族類型や相続制度も、またフーフェ制そのものも、「西側」におけるものとは著しく異なったものとなったことは間違いありません。

 まずフーフェ制の導入以前には、土地台帳(課税台帳)では、農民の定住地を構成する基本的な単位=世帯(イエ)を表わす言葉として dvor, dvorishche, dym などが使われていました。W・コンツェ氏やソ連の研究者が明らかにしたように、これらの世帯は、基本的には複合世帯であり、かつ結婚した兄弟の同居を特徴とする(横への拡大を伴う)複合大家族でした。この特徴は、リトアニア、特にバルト海に面したサモギティア(コヴノ県)では弱く、むしろ直系家族的な色彩が強くなる傾向がありましたが、内陸部に入るにつれて強くなり、東スラブ人(白ロシア人およびウクライナ人)のもとでは一般的な特徴となります。

 かくして一つの問題は、16世紀以降にフーフェ制が導入されたとき、フーフェと世帯がどのような関係にあったのか、つまりフーフェがどのように世帯に配分されたかにあります。当時、白ロシアやウクライナでは、まだ開墾されていない土地が広範に存在し、したがって測量によって村落フーフェが創り出されたとき、相当数の「自由フーフェ」(農民によって占取・利用・耕作されていないフーフェ)が存在しました。しかし賦役・公租を増やすという国家および領主の利害からすれば、なるべく多くのフーフェを農民に占取させることが求められたことは言うまでもありません。つまり厳格に言えば、ドイツなどで行われたように、直系家族または核家族に対して1フーフェを分け与えることが期待され、求められるべき原理だったとでした。少なくとも1フーフェを結婚した複数の兄弟に対して配分するといったことは避けるべきことでした。
 しかし、この原理は決して守られたとは言えません。白ロシアやウクライナの多くの村落では、複数の夫婦(兄弟夫婦)がフーフェを受け取りました。そのような場合、事実上は、複合世帯をなしていた各夫婦(核家族、または親を含む直系家族)が部分フーフェ(半フーフェ、3分の1フーフェなど)を受け取り、土地台帳上はフーフェの一体性が維持されているようにふるまったか、それとも実際に複合世帯を存続させ、次の世代に家族分割を実施し、部分フーフェに分かれたか、のいずれかであったと見られます。
 ちなみに、人口増加とともに「自由フーフェ」はしだいに姿を消してゆきますが、それがどのような手続きによって占有されるにいったったのかは、必ずしも明らかではありません。
 ともかく、フーフェ制の導入が即座に家族形態と相続制度を大きく変えたということはなかったと考えられます。事実、1861年に実施された農奴解放の前後においても、このようにフーフェが複合大家族によって保有されているという状態は続きました。したがって19世紀後半には西部諸県でも(ただしバルト諸県やコヴノ県の事情はまったく異なります)、人口増加と同時に進行した家族分割の波の中で世帯あたりの耕地面積は大幅に縮小するに至ります。(ただし、ウクライナでは、土地を保有しない農村下層民が人口比では少数であるとはいえ存在します。それがどのようにして生まれたのかは、私には不明です。)
 
 以上はロシア帝国領に編入された部分についてですが、旧オーストリア・ハンガリー帝国領に含まれることになった部分(ガリシア、レンブルグ周辺部)については、事情が異なるかもしれません。もしかすると、<不平等な相続を伴う直系家族>というドイツ的な制度の強い影響のもとに大きな変化があったかもしれませんが、不明です。
 

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