2014年3月2日日曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 3 ロシアと中国とフランス

 かなり急進的な土地革命を経験した代表的な国が3つあります。フランス(フランス革命時の封建的特権の無償廃止)、ロシア(1918年の土地革命)、中国(1950年の土地革命)です。日本も戦後農地改革を経験しましたが、これは戦後GHQの影響下で行われたものなので、ここでは触れないことにします。
 
 上の3カ国に共通点はあるでしょうか?
 あると言えばあります。それはいずれも平等主義的な相続制度(均分相続慣行)の主要な国だったという事実です。それが土地革命とどのように関係しているのでしょうか?
 
 そのことを納得してもらうために、まずロシア帝国の農業・土地問題から始めることとします。
 ロシアというと人はどのようなことを連想するでしょうか? 北の寒い国とか、石油国家、ソ連、計画経済、共産主義などという言葉が出てきそうですが、広い国という言葉も出てくるかもしれません。
 実際、ロシアは広大な国です。人口も多いのですが、その農地面積も広大です。20世紀初頭の統計では、ロシアの平均的な農家が保有している耕地面積はドイツの平均的な農家の保有する面積より広かったとされています。
 ところがです。19世紀末から20世紀初頭の頃のロシア人経済学者の書いた文章を読むと、当時のロシア農民は「土地不足」(malozemel'e)で苦しんでいたことが論じられていたことがわかります。広い国土で「土地不足」? そんな訳はない、といったところでしょうか。
 
 しかし、私は決して冗談を言っているのではありません。
 そのことを理解するためには、次の点を知る必要があります。
 1 当時のロシア農業は粗放的であり、土地の生産性が著しく低かった。したがって一定の収穫量(例えばドイツ人の農民経営が実現しているような収穫)を実現するためには、相当の土地面積と播種量が必要だった。
 2 19世紀後半〜20世紀にかけて農村人口はかなり急速なペースで増加しており、その増加率は50年で2倍にふくれあがるほどであった。したがって1861年の農奴解放から20世紀初頭までに農民の保有地は平均して2分の1ほどの縮小したことになる。この農村人口の増加傾向は、20世紀に入っても進んでおり、1917年のロシア革命後も進行しつづけた。
 3 農民の保有地(分与地 nadel)と並んで、大地主の所有地(私有地)があり、農民たち、特に土地不足の零細農はその私有地を高い小作料を支払って借地しなければならなかった。小作料は、農民の「土地不足」のために年々高騰する傾向にあった。
 4 ロシア農民の伝統的な家族形態は、先に触れたように、共同体家族(平等な相続をともなう)であり、結婚した兄弟がしばしば同じ屋根の下で暮らすことがしばしばあったが、また兄弟が家族を分割し、その際、均分相続制度の下で、土地=経営が細分されることとなった。
 5 さらにいわゆる大ロシア諸県(現在のロシア地域)では、耕地が個々の農家の私有地ではなく、村落(村落共同体)の共有地と観念されていた。
 といっても、共有地が村人によって共同耕作されていたわけではない。それは各農家の耕作するところであり、そのために土地は各農家に平等に配分される必要があった。最も広まっていたのは、各農家の男性人口(納税人口、現存人口)を基準として土地を配分するという慣行である。
 しかし、土地配分の当初は平等性が保たれていたとしても、時間の経過とともに不平等が拡大する。そこでロシアの法律は、村集会が多数決をもって土地の再配分(土地割替、peredel)を行うことを許可していた。

 以上のような制度を背景として何が生じたのでしょうか?
 一言で言えば、農家人口の増加とともに拡大する「貧困の共有」です。たしかに村落の土地共有と均分相続によって土地は人々(特に男性)に平等に配分されました。しかし、
人口増加とともに土地は縮小してゆき、わずかな私有地を借地するためでも高い小作料を支払わなければならなくなります。
 もう一つ注意しなければならないのは、当時のロシアは工業化を達成しつつあったとはいえ、そのペースは増加する農民の過剰労働力を吸収するほどではなかったことにあります。イギリスの歴史家、E・H・カーは、ロシアの工業化のペースがロシア帝国の農村人口の増加速度にくわべてきわめて低かったといっています。
 ともあれ、農民、特にわずかしか土地を持たない小家族=貧農は大いなる不満を持ちます。その怒りは、19世紀末から20世紀初頭には、不当な不労所得を得ている地主に対して向けられることになりました。
 最初の大きな爆発は、1905年の第一次ロシア革命の時に生じました。このとき、全ロシア農民同盟という組織は、大土地所有を無償で没収し(土地の社会化)、それを農民の間で平等に分配することという要求を出しました。

 これに対して当時のロシアの世論はどうだったでしょうか?
 興味深いのは、帝政ロシア政府は、こうした農民の要求を断固として拒否し、むしろ農村共同体の土地共有制度が農民運動の急進化の背景にあると考えて、それを破壊しようとしました。土地の私有化の政策です。
 さらに面白いのは、1913年に内務省が準備した法案です。
 この法案は、家族の内部の均分相続を停止させ、事実上の一子相続制をロシア農村に導入しようとするものでした。つまり、私たちがイングランドやドイツ、バルト地域で見られたような相続制度を「上から」導入しようとしたのです。これは、農業者を「優先的相続人」だけにし、弟たちを工業をはじめとする非農業部門に流し込むという「西側」の発展経路にロシアを誘導しようつする意図を持つものでした。
 しかし、この計画は第一次世界大戦によって頓挫します。そして、1918年に急進的な土地革命がついに実施されるにいたりました。

 もちろん、これで終わりというわけではありません。1918年の土地革命もすべてを解決したわけではありません。それは一面では、農民の土地保有を平等化しましたが、他面では、農村の人口増加を促しただけであり、農民一人あたりの土地面積を狭くするという昔から続いて来た傾向を押しとどめることはできませんでした。
 もし1920年代も続いたこの傾向が1930年代の持続していたならば、ロシアは巨大な農業国・農民国になっていたかもしれません。(実際には、その途中で、1930年代に農業の集団化が行われ、それと同時に計画経済による工業化が推進されました。)

 



 
  






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