地球気温をめぐる人々の考え方には、この数十年で大きな変化がありました。
1970年代までは、地球寒冷化説が主流をなしていましたが、それは急速にしぼんでゆき、反対に人為的温暖化説が登場してきました。その背景には、確かに1970年代から実際に地球気温の反転があったことは間違いないと思いますが、それだけでは人為説を説明したことにはなりません、いったい何があったのでしょうか?
そのためには、もちろん科学者の側の事情を調べる必要があることは言うまでもありませんが、ここではまずイギリスにおける政治の側からの事情を簡単に紹介したいと思います。
話は、1979年の総選挙でマーガレット・サッチャー氏が勝利し、「鉄の首相」としていわゆるマネタリズム=新自由主義の経済政策を推し進めた時期にまでさかのぼります。
周知のように、彼女は政権に就くや、2つの相互に関係しあう目的を追求しようとしました。一つは、当時進行しつつあったハイ・インフレーションをとめることであり、もう一つはイギリスの「民主的社会主義」、つまり労働党やそれを支持する労働組合運動を弱体化させることでした。そのために彼女が採用した政策はマネタリスト的な財政政策です。簡単に言えば、その手段は大衆増税と社会保障支出の削減によって財政収支を黒字に転じるというものでした。財政収支の黒字というと何となく「いいんじゃないの」という言葉が聞かれそうなきがしますが、実は、それは一つの大きな問題をはらんでいました。つまり、それは一方では国民の可処分所得を大幅に減らし、民間消費支出を削減することによって、他方では政府の財政支出=公的支出を削減し、それにによって景気を著しく悪化させる結果をもたらしたのです。この政策は、イギリスの著名な経済学者、カルドア氏によって正当にも批判されました。(これについては、本ブログでも詳しく紹介したことがありますので、そちらを参照してください。)
ともかく、その結果、イギリス経済はインフレーションを沈静化することに成功しますが、それは厳しい景気後退を経験し、失業率は激しく上昇し、賃金上昇が抑制されるようになるという大きな代償(今日まで続く)をともなうものでした。
それと同時に、サッチャー氏は、イギリスの労働組合運動、特にその中心的存在であった炭坑労働者の労働運動を抑圧しはじめます。1984年にサッチャー氏の政策に反対して炭坑労働者がストライキを起こしますが、サッチャー政権は、文字通り警察力などの暴力を用いて労働運動(ストライキやデモ、団体交渉)を弾圧することから、石炭産業を閉鎖することまで実施しました。それまで存在していた最低賃金制を事実上廃止したのも彼女です。また政権末期には「人頭税」を導入しようとしました。さしものイギリス国民も当初はインフレを嫌い、そのスタンスに同意していましたが、賃金シェアーが低下し、低賃金労働が拡大しはじめるとともに評価は急激に低下してゆきます。私がイギリスに滞在していた1996年には、いまだにそれに憤り、「顔も見たくない」という人がかなりいました。
なお、当時サッチャー氏の顧問として働いていた一経済学者(Alan Budd)は、後になってサッチャー氏に利用され、反労働的な政策(賃金圧縮、低賃金労働の拡大)に力を貸してしまったと、告発しています。
http://cheltenham-gloucesteragainstcuts.org/2013/04/09/former-thatcher-adviser-alan-budd-spills-the-beans-on-the-use-of-unemployment-to-weaken-the-working-class-sound-familiar/
そのサッチャー氏が人為的地球温暖化を警告しはじめたのは、以上の経過からみて理解できないわけではありません。ただし、それだけでなく、それには次の2つの事情が関係していたと考えられます。
一つは、彼女が自然科学(化学)の学位(BSc)を持っており、それが利用できるように思われたことです。
もう一つ、イギリス保守党が核兵器の保有を念頭において原発を稼働させるという方針をもっていたことです。
イギリス炭坑労働者のストライキの起きた1984年頃から、英国の国連大使をつとめたクリスピン・ティケル卿(Crispin Tickell)がサッチャー氏にキャンペーンを開始するように勧め、その後のサッチャー氏の講演にも援助をしていました。(もっともティケル卿は気象学の専門家ではありませんでしたが、サッチャー氏も学術的な講演をしたわけではありません。)
http://www.masterresource.org/2013/04/thatcher-alarmist-to-skeptic/
http://www.theguardian.com/science/political-science/2013/apr/09/margaret-thatcher-science-advice-climate-change
サッチャー氏が「緑」の活動を積極的に展開したのは、ほぼ1980年代の後半に集中しています。その中で最も注目されるのは次の講演です。
<1988年の王立協会への講演>
<1989年の国連での講演>
<1990年の第2回世界環境会議での講演>
これらの講演で、彼女は地球環境に対する警告家(alarmist)として注目されるようになりました。
その内容の一部を見ておきましょう。
「私たちが、地表を劣化させ、水を汚染し、前代未聞の率で大気に温室効果ガスを付け加えることによって世界に対して行っていること、これらすべてが地球の新しい経験です。わたしたちの惑星の環境に被害を与え、危険を加えながら変えているのは人類であり、その活動です。
その結果、将来における変化はわたしたちがこれまで経験してきたどんなことよりも根本的で広範なものになるでしょう。その意義は原子を分裂させる方法の発見と比較されるものです。実際、その結果ははるかに広いものとなりえます。
・・・
誰が責任を持つのか、誰が支払うのかをめぐって口論するのはよいことではありません。私たちは広範な国際的な恊働的努力を通じてのみこれらの諸問題を解決することに成功するでしょう。」
ここでははっきりと「温室効果ガス」が述べられており、しかも、原子力発電所を含意する「原子を分裂させる方法の発見」の意義が明確に語られています。
しかし、サッチャー氏にとっては残念なことながら、化石燃料の燃焼から原発へのシフトを説くには不利な状況が当時生まれていました。言うまでもなく、一つは、1986年にソ連のチェルノブィリで発生した原発事故です。これは化石燃料以上に原子力が環境破壊に貢献することを示すものであり、これ以降、状況は急速に変化してゆきます。しかし、1988年から1990年にかけてサッチャー氏がティッケル卿との恊働関係を維持しつつ上述の講演を行ったことが示すように、それはサッチャー氏の見解を変えることはありませんでした。
サッチャー氏は、法律家兼気象学者であったジョージ・ハドリーの名を冠した研究所(ハドリー気候予測・研究センター)の設置を許可し、それは1990年にエクセターに設立されました。この頃、サッチャー氏は、気象学の研究者に対して、<お金はいくらでも出す。地球温暖化は人為的に放出されている二酸化炭素の結果だということを明らかにしてほしい>という趣旨の発言をしたと言われています(BBCのThe Great Global Wariming Swindle)。
ところが、サッチャー氏の「緑の期間」(green period)は長くは続きませんでした。それはほぼ数年で終わっています。1990年代に入り、彼女は人為的温暖化説を強く主張しなくなりました。一説では、彼女は温暖化に対する「懐疑派」(aceptic)に転じたと言われているほどです。
その背景に何があったのでしょうか?
これを説明するのは難しいことですが、一つの事情として北海油田の発見と開発を考えないとならないでしょう。
イギリスでは、1970年代に北海油田の開発が進み、おりしも世界的な石油価格の高騰により、オイルマネーがイギリスにも流入しました。それは長年国際収支の赤字と通貨の切り下げ圧力と通貨危機に苦しんできた英国経済に転機をもたらしました。ポンド・スターリング(£)の価値があがりました。たしかに、これによってイギリスの輸出が阻害され、輸入が促進されたため、イギリスの製造業の国際競争力が低下し、いわゆる「イギリス病」(British desease)が始まる契機ともなりました。また1980年代の逆石油危機によって石油・天然ガスの輸出金額が大幅に低下したことも確かです。しかし、それでも石油と天然ガスがイギリス経済にとって大きな役割を演じて来たことは否定できません。つまり実際に生じたのは、石炭から石油・ガスへの転換に他なりません。
http://euanmearns.com/uk-north-sea-oil-production-decline/
このようなイギリスの置かれていた環境の中で化石燃料(石油とガス)に反対するキャンペーンがどのような社会経済政治的含意を持つかは説明するまでもありません。
しかしながら、サッチャー氏の主観的な意図がどうであれ、彼女が政治的スポンサーとなった人為的地球温暖化説は、政治的な権威づけを得て、その後、きわめて大きな影響力を有するいたります。1988 年にはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が世界気象機関(WMO)と国連環境計画
(UNEP)により設立されましたが、それは1990年代に入り、本格的に活動を開始します。
0 件のコメント:
コメントを投稿