2014年12月6日土曜日

人口減少の若干の経済的帰結 ジョン・メイナード・ケインズ

 最後にブログを書いてからだいぶたちます。久しぶりにブログを更新します。

 さて、近年の日本では、しばしば「少子高齢化」という言葉が口にのぼります。
 しかし、藻谷浩介氏(『日本の地域力』、『デフレの正体』、『里山資本主義』など)が述べるように、この言葉によって示されている事態は必ずしも正確に理解されているとは言い難いようです。が、この点については、後日詳しく触れることとして、ここでは、さしあたり次の二つのことを指摘しておきたいと思います。
 1)日本では、戦後、ある時期から出生数(births)(出生率ではなく、絶対値です)が急激に減少し、その後、第二のある時期から現在まで出生数は急激ではありませんが、徐々に減少してきました。ここで「ある時期」というのは、いわゆる団塊の世代の出生数がピークに達した1947年以降であり、その後、20年以上が経って団塊の世代が子供をもうけるようになったとき、出生数は増加しましたが、それもピークに達すると、急激な人口減少が生じました。しかし、急激な人口減少がずっと続いて来たのではなく、「第二のある時期」からは緩慢な出生数の減少が現在まで続いています。
 具体的なデータとグラフは、wikipediaの「ベビーブーム」に詳しいので、参照を願うこととして、ここでは省略します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0 
 2)ところで、出生数の減少は、即座に総人口の減少を導くわけでも、生産年齢人口の減少を導くわけではありません。いま生産年齢人口(さしあたり20〜65歳として置きます)だけについて語るとすると、人が生産年齢に達するのは、生まれてから20年後であり、生産年齢を超えるのは65年後です。したがって出生数の累積的(長期的)な減少がいつかは生産年齢人口の減少をもたらすとしても、それまでには、タイムラグが生じます。現在、日本で生じているかなり急速な生産年齢人口の減少は、20年〜65年前に生じた事態(変更不能な事態)の結果であることは、説明するまでもありません。また、例えば50年後における生産年齢人口は、15年前から現在までの出生数(これは変更不能です)と今後30年間の出生数(これはどうなるか未定です)に大きく左右されることになります。これも説明するまでもなりません。

 さて、今日の本題に移ります。
 ケインズは、1937年2月16日に「ガルトン講義」と呼ばれる講演で、20世紀に入ってからヨーロッパの出生数(くどいようですが、出生率ではなく出生数を問題としています)が低下してきたという事実にもとづいて、またおそらくその傾向が持続するであろうという展望にもとづいて、将来、ヨーロッパの人口が静止または(そのペースははっきりしないけれども)減少するであろうことを理解していました。当時はまだ人口増加も生産年齢人口の増加も持続していたときです。しかし、もちろん、ケインズは、出生率の変動と生産年齢人口または人口の変動との間に上に述べたようなタイムラグがあることを知っていました。
 しかも、ケインズの天賦の才能は、将来、確実に生じるであろう人口の静止または減少がどのような帰結をもたらすか、その問題性をかなり明確に理解していました。ガルトン講義で指摘したことは、人口(正確には生産年齢人口)の減少に実際に直面している日本の経済社会を考えるときに、きわめて重要と考えられます。
 そこで、さしあたり今日は、ケインズの講義(「人口減少の若干の経済的帰結」)の日本語訳を以下に掲げることにします。それに対する解説は少しずつ行うことにしたいと思います。
 なお、ガルトン講義は、話し言葉ながらかなり難解の箇所があり、適訳ではない箇所があるかもしれません。適宜改訳したいと思います。


 ジョン・メイナード・ケインズ「人口減少の若干の経済的帰結」
 『ユージェニックス・レビュー』1937216日、ガルトン講義

一 将来は過去に決して似ていない。このことはよく知られている通りです。しかし一般的に言うと、私たちの想像力と私たちの知識は、どんな特別の変化を期待できるのかを語るには脆弱すぎます。私たちは将来がどうなるか分かりません。それでも、生活し活動する存在として、私たちは行動することを余儀なくされています。平穏と精神的な安寧のために、私たちは将来を見通すことがあまりにも少ないという事実から目を背けてしまいます。それでも私たちは何らかの仮説に導かれるしかありません。そこで、私たちは、到達不能な知識の代わりに特定の慣習に依拠する傾向があります。その主たる点は、あらゆる見込みとは逆に、将来は過去に似ているだろうと想定することにあります。これが私たちの実際の行動様式です。もっとも、私の考えでは、19世紀の人々は人間行動に関する哲学的考察の中でベンサム学派の奇妙な考案を受け入れ、その受容は当時の人々の自己満足の中の一つの要素でした。このベンサム派の考案によれば、代替的な行動計画にはすべての可能な帰結が結びついており、第一にある数が行動計画の比較優位を表現し、第二に他の数がその行動から生じることの確率を表現する、と想定されていました。そこで、ある特定の行動から生じるすべてのありうる帰結に結びつく数を掛け合わせ、またその結果を付け加えれば、私たちが何をなすべきかを発見することができることになるでしょう。こうして、将来を現在と同じように計算可能な位置に戻すために、確率論的な知識という神秘的なシステムが採用されました。この理論のように行動した人はこれまで誰もいません。しかし、今日でも、私たちの考えは若干のそのような似而非合理主義的な観念の影響をしばしば受けていると、私は思っています。
さて、今晩私は、将来が合理的であるというよりも過去に似ていると思い込もうとする、この慣習、私たちの誰も逃れることのできない行動慣習の重要性を強調したいと思います。というのは、私の考えでは、この慣習は特定の変化を予想させる相当な理由がある場合でさえ、影響を持ち続けるからです。そして、おそらく、私たちが実際に将来を展望する相当な力を持っている最も際立った一例は将来の人口趨勢です。私たちが将来に関係するほとんどどんな社会経済的要因よりもはるかに確実に知っているのは、私たちが数十年もの間経験してきた人口の急激な増加に代わって、きわめて短いうちに人口の静止または減少に直面することになるということです。人口の減少率ははっきりしませんが、将来における変化が私たちのこれまで経験してきたものと比べるとかなり大きなものになることは確かです。人口統計の効果における長いけれども一定のタイムラグのために、私たちは将来に関するこのような常識とは異なる知識を有しています。それでも将来が現在と異なるという考えは私たちの慣習的な思考・行動様式から乖離しているため、私たちは、私たちのほとんどは実際にそれにもとづいて行動することに激しく抵抗します。実際には、人口の増加が減少へと転じる結果、いくつかの重大な社会的帰結がもたらされることが既に予言可能です。しかし、私の今夜の目的は、この差し迫った変化のもたらす一つの際立った経済的帰結を取り扱うことです。つまり、しばらくの間、皆さんが固定観念から離れて、将来は過去と異なるという考えを受け入れていただけるように、皆さんに納得していただければ、と思います。
 二 人口の増加は資本に対する需要に極めて重大な影響を与えます。それは、技術的変化や生活水準の改善を脇に置くと、人口に多少とも比例して増加します。しかし、企業の期待は将来の需要よりも現在の需要にもとづいているので、人口が増加する時代には楽観主義が促されやすくなります。というのも一般的に需要は期待される量をしたまわるよりは超過しやすいからです。さらに一つの誤りがあっても、特定のタイプの資本が過剰供給になるという結果をもたらし、こうした状態の中で急速に是正されます。ところが、人口の減少する時代には、正反対のことが当てはまります。需要は期待されていたよりも低くなりやすく、過剰供給の状態は簡単に是正されません。その結果、悲観主義的雰囲気が世にただようことでしょう。そして、最終的には供給に対する影響を通じて悲観主義が是正されることになるとしても、人口増加から人口減少への転換の最初の結果はきわめて悲惨なものとなるでしょう。
19世紀とそれ以降における資本の巨大な増加の原因を評価するとき、私の意見では、人口増加の影響は、その他の影響と区別されるものとして、ほとんど重要性を与えられませんでした。資本に対する需要はもちろん、三つの要因に依存します。人口、生活水準、資本技術です。私は、資本技術という言葉を、当期に消費される財を効率よく調達する方法としての長期の過程の相対的な重要性、という意味で使います。それは私の頭の中では生産期間という形で便宜的に描写できる要因であり、大まかに言えば、労働が行われてから生産物が消費されるまでの間隔の加重平均です。換言すれば、資本に対する需要は消費者の数、平均的な消費水準、平均的な生産期間に依存するのです。
 さて、人口の増加が資本に対する需要を比例的に増加させることは必然的と言えます。また生活水準を高めるには、発明の進展が必要となるでしょう。しかし、生産期間に及ぼす発明の影響は、その時代に特徴的な発明の種類に依存します。交通、住宅の水準、そして公共サービスの改善が消費期間の拡大を幾分促したという特徴を備えていたことは、19世紀に当てはまっていたかもしれません。高度に耐久的なものがヴィクトリア時代の文明に特徴的だったことはよく知られています。しかし、同じことが今日でも当てはまるかどうかは同じように明らかというわけではありません。現代の発明の多くは、一定の成果を生産するための資本設備の量を減らす方法を見出すことに向けられています。また部分的には、嗜好や技術の変化の速度についての私たちの経験の結果、私たちの選好はあまり耐久的ではないタイプの資本財の方へ決定的に向けられています。それゆえ、私は、現在における技術の変化が自動的に平均生産期間を拡大させるような種類のものとなることに頼ることができるとは思いません。利子率の可能な範囲における変更による影響は別として、平均生産期間が減少する傾向があることさえありうるかもしれません。その上、平均消費水準はもしかするとそれ自体が、平均生産期間を減少させる影響を及ぼすかもしれません。というのも私たちが豊かになるに従い、私たちの消費は平均生産期間が比較的短い品目の消費、特に対人サービスへ向かうようになると予想されるからです。
さて、[人口減少とともに]消費者の数が減ってゆき、私たちが生産期間のどんな技術的変化による伸びにも頼れないならば、資本財の純増に対する需要は平均生活水準の改善または利子率の低下に全面的に頼ることになる状態へ投げ込まれます。それに関係する様々な要因の重要性重大を示すために、私は二三の大雑把な数字を使いたいと思います。
1860年から1913年までの50年にわたる期間を考えてみます。私は技術の変化によって生産期間の長さに大きな変化があったというどんな証拠も見つけられませんでした。実物資本の量に関する統計には特別の難しさがあります。しかし私たちの手にする統計は一単位の産出を生産するために使用される資本ストックの量が大幅に変化してきたことを示していません。最高度に産業化されたサービスの二つ、住宅建設と農業は古くから成立していました。農業は相対的な重要性を維持しながら減少してゆきました。人々が所得のうちますます多くの割合を住宅の購入に充てたことについては、戦後については確かに一定量の証拠があるのですが、その時にのみ、技術的な生産期間の大幅な伸びを期待するべきでしょう。戦前の50年間は利子率の長期的な平均がかなり一定であったのですが、この期間には、生産期間が10パーセントほど伸びたとしても、それを超えて伸びることはなかったという確信を私は抱いています。
さて、同じ期間中に英国の人口は50パーセントほど増加し、そしてこの人口に仕える英国の産業と投資はもっと大きく増加しました。また私は生活水準がおおむね60パーセントほど上がったはずだと考えています。このように、資本に対する需要が増加したことは主に人口の増加と生活水準の上昇によるものであり、またわずかながら消費単位あたりの資本化の上昇に応じた類の技術的変化によるものです。要約すると、人口の数値は信頼できるものであり、資本の増加のうち約半分は人口の増加に応じるために必要となったものでした。おそらく数値はおおよそ次のとおりです。ただしこれらの結論はわきめて大まかであり、以下に述べることのためのおおまかな目安であることを強調しておきます。

  1860年 1913

  100    270  …  実物資本
  100    150  …  人口
  100    160  …  生活水準
  100    110  …  生産期間
これからわかるように、生活水準の同じような改善と生産期間の同じような増大とを伴いつつも、人口が静止していたとすれば、実際に引き起こされた増加分の半分を少し上回る程度の資本ストックの増加しか必要なかったでしょう。その上、住宅投資の半分近くが人口増加によって必要とされていましたが、この時期における外国投資のかなり高い割合もこの原因によると考えられます。
一方、平均所得の増加、家族規模の縮小、およびその他多数の制度的ならびに社会的な影響が完全雇用の条件下で貯蓄に向けられる国民所得の割合[つまり貯蓄性向]を高めてきたかもしれません。ただし、反対の方向に作用する他の要因、特に最富裕層への課税という要因があるため、この点[貯蓄性向の上昇]については私は確信がありません。しかし、今日、完全雇用の条件下で貯蓄されることになる国民所得の割合は各年の国民所得の8パーセントから15パーセントまでのどこかにあると言っても間違いないでしょう。そして私の主張にとってはこれで十分です。この貯蓄率は資本ストックの年々の何パーセントの増加と関係しているでしょうか。これに答えるためには、私たちは現存する資本ストックが国民所得の何年分にあたるかを評価しなくてはなりません。これは私たちが正確には知っていない数値ですが、大きさのオーダーを示すことは可能です。私が答えを申し上げると、皆さんは自分の期待する答えと大きく異なることにおそらくお気づきになるでしょう。現存する国民的資本ストックは年間の国民所得の約4倍に等しいのです。つまり、もしわが国の一年あたり国民所得が40億ポンドあたりにあれば、わが国の資本ストックはおそらく150億ポンドだということです。(私はここでは外国資本を含めていませんが、それを含めれば4.5倍に上がります。)このことから導かれるように、年間国民所得の8パーセントと15パーセントの間の率で行われる新規投資は、一年あたり2パーセントと4パーセントの間の資本ストックの累積的な[毎年の]増加を意味します。
主張を要約しましょう。私は、これまで2つの暗黙の仮定、すなわち富の分配にも貯蓄される国民所得の割合に影響を及ぼす他のあらゆる要因にも激しい変化がないという仮定と、さらにまた平均生産期間の長さを大幅に変えるのに十分な利子率の大きな変化がないという仮定とを置いてきたことに注意してください。私たちは後で、これら二つの仮定を取り除くために立ち返ることにしましょう。ともあれ、こうした仮定に立つと、わが国の現存する組織を維持し、繁栄と完全雇用の条件をまもるために、私たちは毎年2パーセントから4パーセントに達する資本ストックの純増のための需要[純投資需要]を見つけ出さなくてはならなくなるでしょう。またこれはいつまでも毎年続くこととなることでしょう。以下では、より低い評価、すなわち2パーセントを用いることにします。というのは、これが低すぎる数値だとしても、私の主張はなおさら確実なものとなるからです。
これまで新規の資本に対する需要は二つの源泉に由来し、そのいずれもほぼ等しい強さでした。その半分より少し小さい方は人口増加からの需要に応じるものであり、半分より少し大きい方は一人あたり産出を増加させ、より高い生活水準を可能にする発明と改良に応じるものです。
さて、過去の経験は、生活水準の年間1パーセントを超える大きな累積的[持続的]な上昇がまれにしか実現できなかったことを示しています。たとえ発明の豊穣さがより多くを可能としたとしても、それがもたらす以上に大きな変化率に適応することは簡単ではありません。過去数百年の間にこの国では、年に1パーセントの率で生活水準の改善が進展したのは10年か20年だったでしょう。しかし、一般的に言うと、生活水準の改善の率は年に1パーセントより少し低かったように思われます。
おわかりのように、私はここで次の二つを区別しています。一つは、一単位の資本が以前よりも少ない労働量で一単位の生産物を産出することを可能にする発明であり、もう一つは、生産される生産物に対して使用される資本ストックの量を「もっと」大きくするような変化をもたらす発明です。私は前者の型の技術革新は将来においても近くの過去と同じように続くのではないかと思っており、また、この技術革新は近い将来においても、私たちがこの数十年を通して経験してきた最高の水準に向かうということを私の仮説として受け入れる用意があります。また私は、完全雇用と人口静止を仮定すると、この項目に該当する発明がわが国の貯蓄の半分以上を吸収することはありそうにないと考えます。しかし二番目のカテゴリーでは、何らかの発明が何らかの方法を切り開きます。利子率が一定と仮定すると、発明の正味の結果が何らかの方法によって産出一単位あたりの資本に対する需要を変えることは、明らかではありません。
それゆえ、ここから結論されることは、長期間にわたり繁栄の均衡条件を確実なものとするためには次のことが本質的となってくるということです。すなわち、私たちが所得中のより小さい部分が貯蓄されるようにするために制度や富の分配を変えるか、それとも、産出に比してより多くの資本の使用をもたらすような技術または消費の方向のきわめて大きい変化を有利とするのに十分なほど利子率を下げるか、のいずれです。それとも、もちろん私たちが賢ければ、両方の政策をある程度まで追い求めることができるでしょう。
三 この見解は、一人あたりの資本資源(主に古い著述家たちが土地の形で心に描いてきたもの)が多いほど生活水準に巨大な恩恵があり、人口の成長は資本資源を抑えてしまうから生活水準にとって悲惨であるという以前のマルサス派の見解に対してどのように関係しているのでしょうか。一見すると、私はこの古い説に異議を唱えており、逆に人口が減少する局面では繁栄を維持することが以前よりもはるかに困難となると主張しているように思われるかもしれません。
ある意味ではこれは、私が話していることの正しい解釈です。しかし、もしここに古いマルサス主義者がいるならば、私は彼らの本質的な主張を否定していると彼らに思われないようにしなければなりません。疑いなく、人口の静止は生活水準の上昇を促します。ただし、これはある条件、すなわち人口の静止状態が可能とする場合のように、資源と消費の増加が実際に生じる条件の下でのみ可能となります。というのは、私たちは少なくともマルサス派の悪魔と同じくらい凶暴な別の悪魔、つまり有効需要の破損から現れる失業の悪魔がすぐそこにいることを学んだからです。おそらく私たちはこの悪魔もマルサス派の悪魔と呼ぶことができるでしょう。というのもこの悪魔について初めて語ったのはマルサス自身だったからです。若きマルサスは身のまわりの人口の事実を見て、問題を合理的に解釈しようとしたとき、人口の事実に悩まされましたが、後年のマルサスは――残りの分野における彼の影響に関する限り、はるかに成功しませんでしたが――身のまわりの失業の事実を見て、問題を合理的に説明しようとしたとき、もはや失業の事実に悩まされることはありませんでした。さて、マルサスの悪魔Pが鎖につながれているときは、マルサスの悪魔Uが束縛から逃げだしやすくなります。人口の悪魔Pが鎖につながれているときは、私たちは一つの脅威から逃れます。しかし、私たちは以前よりも失業した資源の悪魔Uにますます晒されるようになってしまうのです。
人口静止の下では、繁栄と治安の維持のために、生産期間の長さの大幅な変化を有益にしようとしてより平等な所得分配と利子率の抑制によって消費を増加させる政策に完全に依存することになる、と私は主張します。もし明確で固い決意をもってこれらの政策を行わなければ、疑いもなく、私たちが一方の悪魔を鎖につなぐことによって当然のこととして得ている恩恵は奪われ、さらには他のおそらくもっと耐え難い略奪行為の苦しみを味わうことになります。
とはいえ、求められている変化に反対する多くの社会的および政治的な勢力が現れるでしょう。私たちが徐々に変化を実現しなければ、変化を賢明に実施できないことは十分にありえます。私たちは目の前にあるものを予見し、それに歩み寄らなければなりません。もし資本家社会がより平等な所得の分配を拒み、銀行および金融の勢力が利子率を19世紀に平均的であった数値(ちなみに、これは今日支配的な利子率より少し低率でした)にだいたい近い数値に維持することに成功するならば、資源の過小雇用へと向かう慢性的な傾向が最終的に[経済社会の]活力を失わせ、その社会を破壊するに違いありません。しかし、そうではなく、もし時代の精神とここにあるような啓蒙の精神とに説得され導かれるならば、私が願うように、それは私たちの蓄積に対する態度の漸次的な進化を許し、それゆえ人口の静止または減少という環境に適したものになるでしょう。おそらく、私たちは両方の世界の最善のものを入手すること、すなわち、私たちの現在の制度の自由と独立性を保つことができるでしょう。一方、より多くの信号異常が資本蓄積の重要性の低下とともに次第に安楽死を遂げ、資本蓄積に付随する報酬[利潤のこと]は社会的スキームの中の本来の位置にまで低下してゆきます。
あまりにも急激な人口減少は明らかに多くの深刻な問題を引き起こすでしょうし、またそのような事態の中で、またはそのような事態の脅威の中で、それを予防する措置がとられなければならない理由については、今夕の討論の範囲外とはいえ、[そのような措置の必要性には]強い理由があります。しかし、人口の静止または緩やかな減少は、もし私たちが必要な力と賢さを働かせれば、(私たちの伝統的な生活スキームを失う人々に何が起きるかを見ている以上、私たちが尊重するべき伝統的な生活スキームの部分を保ちながら)、生活水準を然るべきところに引き上げることを可能とするかもしれません。
そこで、最後に要約すると、私の主張は古いマルサス派の結論から離れるものではありません。私はただ一方の悪魔が鎖につながれていても、もし注意を怠れば、もう一方のなおさら凶暴な、そしてもっと手に負えない悪魔を解き放つだけであるという忠告をしたいだけです。
                                (以上)

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