2014年12月8日月曜日

人口減少の若干の経済的帰結 ケインズ 2 


 ケインズの講演(ガルトン講義)は、雑誌に掲載された論文では全部で21段落からなっています。その全体を要約しながら、解説してゆきたいと思います。
 最初の段落。この部分は、講演の導入部分であり、直接、人口の問題を論じているわけではありません。あえて要約すれば、「将来は過去に似ていない」けれども、私たちの想像力や知識が限られているため、しばしば「将来は過去に似ているだろう」と想定して行動すると述べています。もっとも、いま一つベンサム主義(功利主義)学派の導き出した奇妙な考案があるが、その理論にもとづいて行動した人は誰もいない、とも述べます。
 ここでケインズが「(人々が)将来は過去に似ているだろう」と想定して行動することに対してどんな評価を下しているのか気になるところです。「将来は過去に似ていない」という最初の言葉からすると、ネガティヴに捉えているようにも思えます。しかし、必ずしもそうとはいえません。が、この点はひとまず措いて先に進みます。
 第二段落に移ります。ここでケインズは、私たちが他のどんなことよりはるかに確実に知りうることは、これまでの人口増加に代わって、きわめて短期間に人口の静止または減少に直面することであると述べます。もちろん、その前提としては、20世紀に入ってから出生数(繰り返しますが、出生率ではありません)が減少してきたという明白な事実がありました。もちろん前回も述べたように、出生数が減少したからと言って、すぐに人口や生産年齢人口が減少に転じるわけではありません。その効果が誰の眼にもはっきりと分かるまでに数十年という「タイムラグ」があります。ケインズが実際の人口統計をしっかりと見ていたことは言うまでもありません。
 しかし、ここでケインズが問題とするのは人口の静止または減少それ自体ではなく、むしろそれがもたらす経済的帰結です。
  そこで第三段落に移ります。この問題を検討するために、ケインズは、人口の変動が「資本に対する需要」(以下では資本需要という)に大きな影響を与えるとした上で、まず過去における資本に対する需要がどのような要因によって生まれてきたかを明らかにします。(やはり将来の大きな問題を考える場合も、過去の歴史を無視するわけには行きません。)ケインズが着目したのは、人口増加が資本需要にかなりの程度に関係していたという事実です。
 さて、もしそうだとすると人口の静止や減少は、資本需要の停滞や減少を導くのではないかということが予想されます。そんなことはどうでもいいではないかという人がいるかもしれませんが、実はそうではありません。
 ケインズの講演からは少し逸れるかもしれませんが、この点に簡単に触れておきます。
 現実の経済の世界では、企業に資本需要が生じ、特定の資本設備(機械、道具、建築物等)に対する注文が企業によってなされれると、受注した企業でそれら資本財が生産がされます。したがって資本需要の停滞や減少は、資本財の生産量や、それの生産に従事する人々(労働力)に対する需要(雇用)を停滞させるか、減少させることになります。
 「それでいいではないか。人口が停滞または減少するのだから」という意見が聞こえてきそうです。そうです。その通りです。働く人の立場から見れば、労働供給(働きたい人)が減るのであれば、雇用が減っても、必ずしも問題ではありません。
 労働需要の減少が失業の拡大を招かないようなペースでなければなりません。
 また企業(投資家、経営者)の立場から見てどうかも考えなければなりませんる。実は現代の経済社会において一番やっかいな問題がここにあります。そして、ケインズも実際にはそれを視野に入れて問題を論じているのです。が、この点には後段で立ち戻ることにしえ、ケインズの講演に戻ります。
 ケインズは、次に人口増加の時代と人口減少の時代とを比較して、前者の場合は楽観主義が、後者の場合は悲観主義が醸成されやすいと述べます。すなわち人口が増加している場合は、資本財の供給が過剰であっても、資本需要自体は増えているので、過剰供給が是正されやすいという傾向があります。これに対して、人口が減少している場合は、資本需要が減少しており、資本の過剰供給は簡単に是正されない、という訳です。
 このことは実際例えば現在の日本でも見られる通りです。政府と日銀がしゃかりきになって「異次元の金融緩和」によって投資(資金の調達のための銀行貸付)を増やそうとしているではありませんか。しかし、また横道にそれたかもしれません。
 さてケインズに従って過去に資本需要がどのような要因によって生まれたかを見ておきましょう。
 第4段落~第8段落で、ケインズが指摘していることは、資本需要が三つの大きな要因(人口、生活水準、生産期間)によって増加してきたということです。1860年から1913年までの53年間では、資本ストックの要因別の増加率(倍率)は次の通りでした。
  実物資本             2.70
  人口(消費者数)         1.50
  生活水準(一人あたりの消費量)  1.60
生産期間(資本技術)       1.10
これはきわめて大雑把な数字ですが、三要因の倍率をかけあわせると、およそ2.70倍になります。(1.5×1.6×1.12.7
これらの三要因のうち二つは自明であり、詳しく説明する必要はないかもしれませんが、三番目の(平均的な)生産期間(資本技術)については、若干の説明が必要かもしれません。ケインズの説明では、それは「当期に消費される財を効率よく調達する方法としての長期の過程の相対的重要性」(資本技術)、または「おおまかに言えば、労働が行われてから生産物が消費されるまでの間隔の加重平均」(生産期間)とされています。
いま財とサービスを生産する平均的な設備(建物機械・道具類)を考えましょう。まず全く同じ性能・品質の設備の量だけが変化すると考えると、設備は人口、つまり消費量または生産量の増加に応じて比例的に増えなければなりません。また一方、生活水準にも応じて生産量を増やすために設備を増やさなければなりません。両者の設備に対する総需要効果は、(ケインズの数値では)53年間で1.5×1.62.5倍となります。
しかし、53年間の間に設備の性能・品質はもちろん、流通・販売部門を含む社会全体の経済環境(つまり資本技術)はかなり変化したでしょう。それは19世紀には増加した消費量に応じた資本設備の増加だけではなく、追加的な必要資本量を増やした、とケインズは考えました。
ただし、ケインズがのべるように、「生産期間に及ぼす発明の影響は、その時代の特徴的な発明の種類に依存している」ので、19世紀に当てはまったことが、今日でも当てはまるかどうかは、確かではではありません。むしろ平均的な生産期間が縮小する可能性があると、ケインズは示唆します。しかし、この点の予測を行うことはケインズの意図ではありません。またその要因が資本需要に及ぼす影響は比較的小さいので、以下では、発明はこの点で中立的だという想定の下に説明を続けていきます。
ちなみに、ケインズも指摘するように、実物資本の「量」に関する統計には特別の難しさがあります。また実物資本の「内容」も大きく変化してきました。例えば1860年代に使われた資本装備と現在の資本装備の間には性能・品質上の大きな差異があります。それにそもそも農機具や住宅、工業用機械などの用途・性質の異なるものをどのようにしたら一つの「量」として集計できるでしょうか? もし実物資本が例えば水や鉄のように同質なものであれば、その物理量を示すことができるでしょうが、そうはいきません。結局、様々な資本財の生産額や価格統計をもとにして、きわめてラフに「量」を推計しているというのが実態なのです。もちろんケインズはそのことをよく知っていました。そこで、ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』でも、経済量の「単位の選定」を議論しているのです。しかし、この点は専門的なことになりますので、措いておくことにします。

次にケインズが過去(現在までを含む)の経済の検討から知ろうとしたことは、貯蓄率です。貯蓄率(貯蓄性向とも呼ばれます)とは、国民所得のうち貯蓄に向けられる部分の割合のことであり、記号で示すと、sS÷Y となります(ただし、Sは貯蓄、Yは国民所得であり、SYC が示すように、貯蓄とは国民所得のうち消費支出に向けられなかった残余と定義されます。これは「定義」ですので、その理由をあれこれ詮索してもあまり意味はありません。)
ケインズは、利用可能な経済統計を用いて、当時、「完全雇用」を達成するという条件下では貯蓄率が815パーセントの間のどこかにあったという結論を導いています。ここで「完全雇用」というのは、働く意思のある人々が「非自発的な失業」の状態にはないことを意味しています。(自発的失業ならば、完全雇用と両立します。)
ここで知っておかなければならない一つの重要な点は、(さしあたり外国との経済関係を捨象した一国経済=閉鎖経済を前提とすると)、投資=貯蓄(I=S)が事後的な恒等式として成立することです。また多くの場合、貯蓄をするのは、企業や富裕者だということも忘れてはならない事実です。
さて、ここから次の重要な疑問が生じてきます。それは人口が静止または減少しているため、資本需要が生活水準の上昇からしか増えなくなったとき、何らかの深刻な問題が生じないのだろうかという疑問です。
これに対するケインズの答えは、大きな問題があるというものです。
さて、これまでに検討してきたように、私たちの手元には次の数値があります。
生活水準の上昇による資本需要の増加  1.6倍(年に1パーセント以下)
 貯蓄率(国民所得に対する貯蓄、つまり投資資金供給の比率) 815パーセント
はたしてこれはバランスのとれた経済にとって整合的な数字でしょうか?
これを知るためには、次に資本ストックが国民所得の何年分に相当するかを知る必要があります。(その理由は後段で説明します。)ケインズは、やはり当時の統計からそれが約4倍だったと言います。
ここで説明を簡略にするために、次の記号を用います。
  Y:国民所得(フロー、つまり年々の数字)
  K:資本ストック(ストック、つまりある時点における資本装備の総量)
ケインズの数字は、K÷Y4(あるいはY÷K0.25)というものです。講演でケインズが用いた例解では、国民所得が40億ポンドであり、資本ストックは150億ポンドとされています。実は、この、ケインズが英国について約4に等しいとした数値(資本係数という)は(少なくとも一つの地域では、かなりの期間にわたって)かなり安定的な数字(つまり一定)だということが様々な経済学者によって認められています。ということは、年々の数字(投資と国民所得の増加の関係)にもこの4という数字が当てはまることになります。つまり、新規投資はその0.25倍に等しい所得を産み出すことになります。I÷ΔY4
ここから導かれることは、815パーセントの間で行われる新規投資が一年あたり24パーセントの間の資本ストックの累積的な(毎年の)増加をもたらすことになるという事実です。数値に幅を持たせるのはややこしいので、8パーセントと2パーセントという数字を用いることにします(後で分かるように、これによってケインズの主張はいっそう確実になるはずです)。
もう一度まとめておきます。
生活水準の上昇率(人口静止下では、国民所得の増加率)<1パーセント(年)
貯蓄率(投資率) 8パーセント
 これは2パーセントの資本ストックの増加をもたらす。
   (なぜならば、I/Y=0.08かつK/Y=4 よってI/K=0.02 )
これが意味するところは明白です。
そのような投資率(=貯蓄率)は毎年少なくとも2パーセントの割合で資本ストックが増えてゆくことを示しています。それは言うまでもなく、生産能力を毎年2パーセントずつ引き上げてゆくことを意味しています。この生産能力は10年で22パーセント、20年で49パーセントも上昇します。
他方、消費需要はどうでしょうか。貯蓄性向が同じなら(したがって消費性向も同じなら)、消費需要は毎年1パーセントしか増えず、10年で10パーセント、20年でも22パーセントしか増えません。
これは企業(一国全体)にとっては、巨額の投資資金を投入して生産能力を拡大したにもかかわらず、総需要(総販売高)が期待するように伸びないこと、つまり景気の悪化を意味します。もし仮にこのような状況が続くならば、企業(個別)の中には、生産費が増えたにもかわらず、売上高が伸びないため破産するものが多数出てくるでしょう。労働供給が減少しているのに、かえって失業が広がり、社会全体を悲観主義がおおうでしょう。

 このケインズの主張は、世の人々(政治家を含む)の常識的な考えが誤りであることを端的に示しています。そうです。「常識」は次のようにささやきます。<人口が減るのだから、経済成長を持続させるためには、1人あたりの生産を増やさなければならない。そのためには労働生産性(つまり労働者一人あたりの生産能力)を上げなければならない。リストラして一人の労働者がよりおおくのモノを作れるようにしよう。もっと設備投資を増やそう。> ざっとこんなところでしょうか。
 こうした主張の誤りは、経済を常に供給側(財の供給側、資金の供給側、貨幣供給など)からしか見ることができないことにあります。なるほど、もし供給側に問題があることが確かならば、そうした主張にも大いに意味があるでしょう。しかし、残念ながら、現実はそうではありません。
 さて、ケインズに戻りましょう。ケインズの本意は、長期にわたる「繁栄の均衡条件」が自動的に整うわけではないことを明らかにし、また他方では、それを確実なものとするための条件を調えることが重要であることを示すことにありました。しかし、ここでも私たちは、残念なことに、長期にわたる繁栄の均衡条件を整えることは、企業側の事情により(あるいは政治的理由により)難しいといわざるを得ません。
 しかし、これについては次回にゆずることとし、今日はこれまでにしておきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿