2015年10月29日木曜日

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 1

 今から78年ほど前に、ケインズは、雑誌 Quarterly Journal of Economics, February, 1937. に,
『雇用、利子および貨幣の一般理論』の解説を掲載しました。英語版の全集には掲載されていますが、日本語訳はまだ出版されていないようです。そこで私の訳を3回にわけて載せておきます。(誤訳、不適切訳があると思いますが、適宜改訂したいと思います。)


 要約
 『一般理論』における以前の論点にかかわる四つの議論に関するコメント


                    一
 一九三六年十一月に刊行された私の『雇用、利子および貨幣の一般理論』に関する四つの寄稿についてクォータリー・ジャーナルの編集者に感謝する。これらの寄稿には批判が含まれており、その多くを私は受け入れ、そこから便益を受けることを望んでいる。タウシッグ教授のコメントに私が同意しないことはない。レオンチェフ氏は、彼が「同次性の公準」と呼ぶものに対する私の態度と、「正統派」理論の態度とを区別する点で正しい、と思う。しかしながら、私は、この公準に矛盾する経験上の豊富な証拠があり、またともかく、それは一般的な負〔の関係〕を証明することを放棄する人よりもむしろそれを証明するために高度に特殊な想定をなす人々に対してであると考えるべきだった。私はまた、利子率を決定する際に貨幣量が果たす役割と関連させたならば、彼の思想はもっと実り多く、またもっと理論的に正しく適用できたのではないかと提案する。というのは、私が思うに、同次性の公準が主に正統派の理論的スキームに入り込むのはこの点だからである。
 ロバートソン氏との私の実際の相違点は、彼も私も〔正統派に対する〕彼の敬信が許す以上にもっと根本的に私たちの先行者と異なるという私の確信から主に生じている。彼の論点の多くに私は同意するが、ただし、何か異なることを言った(またはともかく意味した)いくつかの例を意識しないならば、である。彼が貨幣の流通速度をばかにする人々は乗数理論と多くの点を共有すると考えていたとは驚きである。私は、活動の増加から生まれる貨幣需要の増加が利潤率を引き上げる傾向のある余波を持つという、彼のあげている重要な点(一八〇〜一八三ページ)に完全に同意する。また、実際、これはどうしてブームがそれ自体の破壊の種を内包するかという私の理論における重要な要素である。しかし、これは本質的に利子率の流動性理論の一部であり、「正統派」理論の一部なのではない。私の理論は「貸付可能資金の需要と供給のタームで出来事を常識的に説明することへの反駁ではなく、その代替版」と見なされる(一八三ページ)と彼が述べるところでは、私は、同意する前に、この常識的な説明がどこに見られるのかという点に少なくとも一つの参照を請わなくてはならない。
 四つのコメントのうち最も重要なもの、ヴァイナー教授のコメントが残っている。私の非自発的失業の定義と取り扱いに対する彼の批判について、私は自著のこの部分は特に批判に対して開かれていることに同意する用意がある。すでに私自身が改善する立場にあると感じており、私がそうするときには、特にこの点で私たちの間に何か根本的な相違があるとは思わないので、ヴァイナー教授はもっと満足を感じるだろうと希望する。しかしながら、「貯蔵〔貯蓄〕性向」と題した第二節の場合には、彼の論点に反論する用意がある。ヴァイナー教授は実際に貯蔵された貨幣量というより知られているタームであまりに多くを考えていることを、また貯蔵しない誘因としての利子率に対して私がなそうと努めた強調点を見逃していることを示す文章がある。流動性選好が主に利子率を引き上げることによって働くのは、まさしく貯蔵にとっての容易さが厳しく制限されているからである。私は、「現代の貨幣理論では、貯蓄性向は、貨幣の「速度」を減じるように作用する要因として、ケインズの結果と本質的には実質的に同じ結果を伴って、取り扱われている」ことに同意できない。反対に、それをこのように取り扱おうとしている貨幣理論家はおしなべて間違ったコースにいる。繰り返すと、ヴァイナー教授は、ほとんどの人々は自分たちの貯蓄を彼らが得ることのできる最善の利子率で投資すると指摘し、また私が流動性選好に付した重要性を正しいとすることを統計に求めるとき、貯蔵のために利用可能な現金の狭い制限内で現実の貯蔵への欲求をもたらすために、利子率によって満足しなければならないのは限界的な潜在的貯蔵者であるという点を見逃している。危機の中で生じるように、流動性選好が急激に上がるとき、これ自体は、利子率の急激な上昇、すなわち以前の〔証券〕価格で流動性を得ることができるならば、そうしたいと考えている人々がその思想を合理的にはもはや実践不可能なものであるとして放棄するように説得されるまで続く証券価格の上昇におけるほどには、貯蔵の上昇を示すものではない。というのは、もしそうだとしても、貯蔵可能な現金は以前より少し多いだけだからである。利子率の上昇は、増加した流動性選好を満足させるための貯蔵増加に対する代替手段である。私の議論は、異なったタイプの資産は異なった程度に流動性に対する欲求を満たすという認められた事実によっても影響されない。ある資産の流動性の程度に照応する利子率が生産費以下となる当該資産の市場資本化をもたらすとき、その損害が生まれる。
 私が議論する用意のある他の批判もある。しかし、私は私自身の言語を正当化することが出来るかもしれないが、あまりに詳細に正当化することによって、私の取り扱いが、それにもかかわらず、私の批判者の心に産み出した反応の根底にあるかもしれない本質的なポイントを見逃すように導かれないように配慮したい。私は私の思想の根底にある比較的単純な本質的な思想を具体化した特殊な形態よりも、その思想のほうにもっとこだわりたいと思っており、また私には、後者〔形態〕が論争の現在の段階で結晶化されるべきという欲求はない。もし単純な基礎的思想がよく知られ、受け入れられるものとなることができれば、時間と経験、そして多数の頭脳の恊働がそれらを表現する最善の方法を発見するだろう。そこで、私はジャーナルの編集者が私に許すことのできるような以下のスペースを不毛となるかもしれない詳細な論争にあてるよりも、これらの思想のいくつかを再現することに努めることにあてたいと思う。また、もし私が以前の諸理論から最も明確に離れているように自分自身にとって思われる特定の限られた点に関して言わなければならないことを討論の形で表現するならば、それはある者には、私が論争的な雰囲気を避けようといいながら、まっすぐにそこに飛び込むかのように思われるかもしれないが、私としては最善を尽くすつもりでいる。

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