2015年10月29日木曜日

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 2

 ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文) 2

 要約
 著者(ケインズ)が先行理論と異なるいくつかの明確な点、利子論の再説、投資の不確実性と変動

                  二 
 リカード派の分析が私たちの長期均衡と呼ぶものにかかわっていたことは一般的に認められている。マーシャルの貢献は、主に、これに限界原理と代替原理を接ぎ木し、それとともに長期均衡の一つの立場を別の立場に移すいくつかの議論を行なったことにある。しかし、彼はリカードゥと同様に、使用される生産要素の量は所与であり(与えられており)、また問題はそれらが用いられる方法とそれらの相対的な報酬を決定することにあると想定していた。エッジワースとピグー教授、そして後の他の同時代の著述家たちは、生産要素の供給関数の形状の異なった特徴がどのように事態に影響するのか、また独占および不完全競争の状態で何が生じるのか、社会的と個人的利益とはどれほど一致するのか、開放システムやそれに類するシステムにおける交換の特別な条件とは何か、を考察することによって、この理論を潤色し、改善した。しかし、これらのより最近の著述家たちも彼らの先行者たちと同様にまだ、用いられた要素の量が所与であり(与えられており)、他の関連する事実も多少とも確実なものとして知られているシステムを取り扱っていた。これは彼らが、交換が排除されているシステムか、それとも期待の失望が排除されているシステムを取り扱っていたことを意味するものではない。しかし、与えられたどんな時点でも、事実と期待とは明確で計算可能な形で与えられていると想定されていた。またリスクは認識されてはいたが、さほど注意されておらず、正確な保険危険率(危険度の確率)の計算ができると想定されていた。確率の計算(calculus)は、こっそりと言及されてはいたが、不確実性を確実性自体の地位と同じ計算可能な(信頼できる)地位にまで減少できると想定されていた。ちょうどベンサム派の苦痛と快楽、または利益と不利益の計算学におけるように、である。(ベンサム派の哲学は人々が一般的な倫理的行動の上でこれら〔苦痛と快楽、利益と不利益〕によって影響を受けると想定していた。)
 しかしながら、実際には、私たちは、普通、私たちの行為のどんな結果、その最も直接的な結果をもきわめて曖昧にしか知らない。しばしば私たちは行為のより遠い結果にはそれほど関心を持たない。たとえ時間と機会がそれを重んじるとしても、である。しかし、しばしば私たちは、場合によっては、その直接的な結果よりも、それら〔より遠い結果〕に大きな関心を寄せる。さて、このより遠い結果への関心によって影響を受けるすべての人間活動のうちで、最も重要なものが性格上経済的なもの、つまり富となることがありうる。富の蓄積の目的全体は、比較的遠い、またしばしば不特定の遠い日付に、結果または潜在的な結果を産み出すことである。かくして、将来についての私たちの知識が変動し、曖昧であり、不確実であるという事実のために、富は古典派の経済理論の方法にとって特別にふさわしくない主題となる。この理論は、経済的な財が必ずそれらが生産される短い期間内に消費される世界では、きわめてよく当てはまるかもしれない。しかし、私は提起するが、それは不特定に延期された将来のために富の蓄積が重要な要因となっている世界に当てはめられるならば、大幅な修正を必要とする。そして、そのような富の蓄積の演じる比例的役割が大きくなるほど、そのような修正もより本質的となる。
 説明すると、「不確実な」知識という言葉で、私は、不確実として知られていることを単に蓋然的(確率的)であることから単に区別するつもりではない。ルーレット・ゲームはこの意味では不確実性に従っていない。ヴィクトリー〔戦勝〕債の引き出しの展望もそうである〔不確実性に従わない〕。あるいは、繰り返すと、寿命はわずかに不確実であるにすぎない。天候でさえ適度に不確実であるにすぎない。この用語を私が使っている意味は、ヨーロッパの戦争の展望が不確実であるとか、あるいは二十年後の銅価格や利子率が、あるいは新しい発明の退行、あるいは一九七〇年の社会システムにおける私的な富の所有者の地位が不確実であるという意味である。これらの事象については、何らかの計算可能な確率を構成する科学的基礎がない。私たちは単に知らないのである。それにもかかわらず、行動と決定の必要性のために、私たちは実践的な人として最善を尽くして、このやっかいな事実を見過ごし、もし私たちの背後に一連の将来の利益と不利益(それぞれが適当な確率によって掛け合わされ、集計を待っている)についてのよいベンサム的な計算方法があったならば行動するように、まさにそのように行動しなければならない。
 私たちは、そのような環境の中で、合理的な経済人としての私たちの面子を保つように行動することがどのようにして出来るのだろうか? 私たちはその目的のために多くの技術を考案してきており、そのうち最も重要なものは次の三つである。
 (一)私たちは、過去の経験の客観的な検討によって過去の経験がこれまで将来のガイド〔案内役〕であったことを示すよりも、現在が将来についてのはるかに役に立つガイドであると想定する。言い換えれば、私たちは私たちの何も知らない現実の性格について将来の変化の展望をおおかた無視するのである。
 (二)私たちは、価格の現在の状態および現存する産出物の性格に表現されているような見方の現存の状態が将来の展望の正しい集計にもとづいており、そのため私たちは何か新しいことや適切なことが視野に入って来ないか、入って来るまでは、それをそのようなものとして受け入れることができると、想定している。
 (三)私たちの個人的判断に価値がないことを知りつつ、私たちは、おそらくよりよく情報を得ている自分以外の世界の判断をよりどころとする。つまり、私たちは、多数派または平均の行動に従おうと努力する。各人が他人を模倣しようとしている諸個人からなる社会の心理学は、私たちが厳密に「伝統的」判断と呼ぶことのできるものに帰着する。
 さて、これら三つの原理にもとづく将来についての実践的理論は、一定の特徴ある性格を帯びる。とりわけ、きわめて薄弱な基礎にもとづいているので、それは突然の暴力的な変化にさらされる。静謐と不動性、確実性と安全保障の実践が突然崩壊する。新しい恐れと希望が、予告なしに、人間行動をつかまえるだろう。幻滅の力が突然新しい型にはまった価値評価基準をおしつける。よい羽目板を用いた会議室と適切に規制された市場のために作成された、これらすべての丁寧な技術は崩壊しやすい。いつも、漠然としたパニックの恐れと、等しく漠然とした不合理な希望が、実際には和らぐことなく、すぐ表面下に隠れている。
 おそらく読者は、人類の行動に関するこの一般的、哲学的な論考がいま議論している経済理論からやや離れていると感じるだろう。しかし、私はそうは考えない。これは私たちが市場でどのように行動するかであるとしても、私たちが市場でどのように行動するかという研究の中で私たちが考案する理論は、市場の偶像に捧げられるべきではない。私は、古典派の経済理論を、私たちが将来についてほとんど知らないという事実から抽象することによって、現在を取り扱おうとする、こうした美しい、上品なテクニックの一つであるとして、非難する。
 私はあえて言うが、古典派の経済学者にはこれを認める用意があった。しかし、たとえそうでも、私が思うに、彼は自分の抽象化が行なう理論と実践の区別の正しい性格、そして彼が陥りやすい誤謬の性格を見逃してきた。
 これはとりわけ貨幣と利子の取り扱いの場合にそうである。そこで私たちの最初のステップは、貨幣の機能をもっとはっきりと説明することでなければならない。
 よく知られているように、貨幣は二つの基本的な目的に役立つ。貨幣は、計算貨幣として行動することにより交換を促すが、その際、それ自体が実体的な対象物として現れる必要はない。この点で貨幣は重要性または実物的影響を欠いている便宜物である。第二に、貨幣は富の貯蔵である。私たちは、真顔で、そのように聞かされる。しかし、古典派経済学の世界では、何という異常な表現法だろうか! というのは、それが不毛である〔貨幣を保有していても利子を生まない〕ことは富の貯蔵としての貨幣の認められた特徴だからである。一方、実際、他のいずれの形の富の貯蔵もいくらかの利子か利潤を生む。狂気じみた避難所の外にいる誰もが貨幣を富の貯蔵として使うことを欲するのは何故だろうか?
 その理由は、一部は合理的、一部は本能的な根拠により、富の貯蔵として貨幣を保有しようとする私たちの欲求は将来に関する私たち自身の計算と慣習についての私たちの不信の程度のバロメーターだからである。貨幣についてのこの感情は、それ自体が慣習的または本能的であろうとも、いわば私たちの動機づけのより深いレベルで働いている。それは、より強く、より不安定な習慣が弱まった瞬間に暴走する。実際の貨幣の保有が私たちの不安をなだめる。そして、私たちが貨幣と離れるために求めるプレミアムが私たちの不安の程度の尺度である。
 貨幣のこの特徴の意味は、通常、見逃されてきた。そして、それが注目されてきた限りでは、その現象の本質的な性質は誤って記述されてきた。というのは、注目されてきたのは貯蔵されてきた貨幣の量であったからである。そして、それに重要性が付与されてきたのは、それが流通速度に影響を及ぼすことを通じて価格水準に直接の比例的な影響を与えると想像されていたからである。しかし、貯蔵の量が変更されるのは、貨幣の合計量が変えられるか、それとも現在の貨幣所得(私は広く話している)の量が変えられる場合だけである。一方、信任の程度の変動は次のときにまったく異なった影響を及ぼしうる。すなわち、現実に貯蔵されている量ではなく、人々に貯蔵しないように誘うために提供されなければならないプレミアムを変えるときに、である。また貯蔵性向の、または私が呼んだような流動性選好の状態の変化は、主に価格ではなく、利子率に影響する。価格に対するどんな影響も利子率の変化の最終的な帰結としての反響〔影響〕によって産み出される。
 非常に一般的な方法で表現すると、これが私の利子率の理論である。利子率は明らかにーーちょうど算術に関する本がそう語るようにーー貯蔵されている貨幣以外の何らかの形で自分たちの富を保有するように人々を誘うために提供されなければならないプレミアムを計測する。貨幣量、および現在の経営取引のために活動的な流通に求められる貨幣量(これは主に貨幣所得の水準に依存する)が非活動的なバランスのために、つまり貯蔵のためにどれほど利用可能かを決定する。
 さて、議論の次の段階に進もう。富の所有者は、自分の富を貯蔵された貨幣の形で保有しないように誘われても、まだ選択するべき二つの代替案を持つ。彼は、自分の貨幣を現在の貨幣利子率で貸すか、それともある種の資本資産を購入することができる。明らかに均衡においては、これら二つの代替案は、そのいずれへの限界投資家にも等しい利益を提供しなければならない。これは、貨幣貸付価格に対する資本資産の貨幣価格の変化によってもたらされる。資本資産の価格は、それらの将来のイールド〔利回り〕を考慮し、また疑いと不確実性、利益に関係する忠告、無関係の忠告、ファッション、習慣、およびあなたが投資家の心に影響を与えると考える他の事柄といったこれらすべての要素を考慮し、それらがある種類の投資と別の種類の投資との間でさまよっている限界的投資家に等しい明白な利益を提供するまで、動く。
 これは、次に、貨幣量と貯蔵性向によって定まるような利子率の最初の影響、つまり資本資産価格に対する影響である。もちろん、これは利子率がこれらの価格に対する唯一の変動的影響であるという意味ではない。資本資産の将来のイールドに関する諸見解はそれ自体が鋭い変動にさらされているが、それはまさにすでに述べた理由、すなわち、かれらが依拠する知識の基礎の薄弱さのためである。それらの価格を定めるのは、利子率と結びついて受け入れられるこれらの諸見解である。
 さて第三ステージについて。資本資産は、総じて、新たに生産されることができる。それらが生産される規模は、もちろん、それらの生産費とそれらが市場で実現すると期待される価格との関係に依存している。かくして、もしそれらの将来のイールドについての見解と結びついて受け入れられる利子率の水準が資本資産の価格を引き上げるならば、現在の投資量(これは新たに生産される資本資産の産出金額を意味する)は増加するだろう。他方、もしこれらの影響が資本資産の価格を引き下げるならば、現在の投資の量は減少するだろう。
 このようにして決まる投資量が時間とともに大きく変動することは驚くにあたらない。というのは、それは将来に関する二組の判断によるからであり、そのいずれも十分な、または保証された基礎の上ーー貯蔵性向および資本資産の将来のイールドの上ーーには置かれていないからである。またこれらの要因の一つの変動が他の要因の変動を相殺する傾向があると推測するいかなる理由も存在しない。将来のイールドについてより悲観的な見方が受け入れられるときには、貯蔵性向の低下があるはずだという理由もない。実際、一つの要因を悪化させる諸条件には、概して、他の要因を悪化させる傾向がある。というのは、将来のイールドについての悲観的な見方をもたらす同じ環境が貯蔵性向を引き上げやすいからである。システムにおける自己復元の唯一の要素は、もっと後の段階で、また不確実な程度で生じる。もし投資の減少が産出高全体の低下をもたらすならば、これは(複数の理由で)活発な流通のために必要となる貨幣量の減少を結果するかもしれず、それは不活発な流通のためにより大きな貨幣量を解き放ち、それはより低い水準の利子率で貯蔵性向を満足させることになり、それは資本資産の価格を引き上げることになり、それは投資の規模を拡大し、それはある規模で産出高全体の水準を回復させることになるだろう。
 これは議論の第一章を、すなわち(a)個人が所与の所得から貯蓄する性向を決定する理由と、また(b)従来は、通常、資本の限界効率を支配する主要な影響だと推測されていた、生産を援助する技術的能力の物理的条件と、まったく区別される理由で、投資規模が変動しやすいことを、完成させる。
 もし、他方で、将来に対する私たちの知識が計算可能であり、突然の変化にさらされていないならば、流動性選好曲線が安定であり、かつきわめて非弾力的だと想定することは正当化されるかもしれない。この場合、貨幣所得の小さな低下は利子率の大幅な、おそらく産出高と雇用を完全な水準に引き上げるのに十分な低下をもたらしたことであろう。これらの諸条件では、私たちは、利用可能な資源の全体が正常に利用されると推測することができるかもしれない。また正統派理論の求める諸条件は満たされるだろう。

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