2014年2月11日火曜日

ユーロ圏の債務危機 5 1992年9月のヨーロッパ債務危機

 1992年9月〜1993年7月のヨーロッパ通貨危機(ERM危機)は、何故生じたのか?

 この時期に生じたポンド・スターリング(£)のERM(為替相場メカニズム)からの離脱、イタリア・スペイン・ポルトガル(リラ、ペセタ、エスクード)の通貨不安、フランス・フランの危機などが何故生じたのかを、詳細に描くことは難しい作業であり、特にこのようなブログでは不可能ですが*、ここで2、3の重要な点について(のみ)指摘して置きたいと思います。
 *David Cobhamの"Causes and Effects of the European Monetary Crisis of 1992-93, Journal of Common Market Studies, Vol.34. No.4, December 1996  で諸説が検討されています。

 この通貨危機(ERM)を検討することは、現在のヨーロッパ債務危機を見る上でもきわめて重要となりますが、そのことは後々説明したいと思います。

 さて、ここでも話を少しさかのぼらない訳にはいきません。
 よく知られているように、戦後の国際通貨体制は、協定が結ばれた地名にちなんで「ブレトンウッズ体制」と呼ばれており、<準固定相場ドル本位制>(John Harvey)とも言われるものでした。つまり、①中央銀行が要求すれば、米国が米ドル($)と金地金との交換に応じることが約束されており、②それにもとづいて為替相場は固定されていました。③ただし、国際収支の赤字国は、自国通貨を切下げることを求められていました(これが準の意味です)。実際、英国ポンドは、通貨危機のたびに切り下げ(devaluation)を余儀なくされました。
 しかし、1971年8月15日の米国ニクソン大統領の声明によって「金とドルとの交換」は停止されます。そして、同年末にスミソニアン体制が成立します。
 このとき、欧州でもEC6カ国が「スネーク制度」を開始します。これはEC域内の為替変動幅を縮小し、特に参加国の通貨が対ドル中心相場から上限2.25%の範囲内(ドルバンド)に納めるように為替介入するように義務づけるものでした。
 この制度は1978年までつづきますが、イギリス、フランスなど離脱国が多く、為替相場を安定することにも失敗します。
 しかし、1970年代末に離脱国を復帰させ、欧州通貨制度を充実させる動きが充実してきました。その背景の一つには、ドルにリンクしない通貨制度の必要性が認識されるようになってきたことがあります(前掲坂田豊光43ページを参照)。こうして1979年3月に、イギリスを除くEC8カ国が域内8通貨を一定変動幅内(上下2.25%、例外国あり)の固定相場に固定し、通貨安定を達成することを目的としてEMS(欧州通貨制度)が発足しました。ここで注意が必要ですが、中心相場となる為替平価は、変更することが可能でした。(その他に詳細な計算方法や規定がありますが、それらの詳細は省略します。)
 
 さて、ようやく制度的な説明が終わりました。
 それでは、現実の為替相場は、どのように変化したでしょうか? ここではEMS参加国の実質的な「基軸通貨」となったドイツ・マルク(1999年1月からユーロに統一。1€=1.996ドイツ・マルク、など)に対する相場に換算された為替相場(米ドル、ポンド、イタリア・リラ、スペイン・ペセタ、フランス・フラン)の変化を見ておきます。


 出典)Ameco on-line dataより作成。
    注)ユーロ圏の各国通貨は、1998年末の対ユーロ平価(例えばドイツの場合、1€=1.996マルク)に換算している。 

 この図で次の2つのことが注目されます。
 (1)  1971年から1987年まで、ドイツ・マルクに対してフランス、イタリア、ポルトガルの通貨が減価しつづけている。これをドイツ側から言えば、マルク高である。米ドルおよびポンド(£)についても同様である。
 (2)ところが、ヨーロッパ通貨危機の始まる前の数年間(1987年〜1992年にかけての時期)には、 EMS参加国のフランス、イタリア、スペインの通貨の減価は見られない。むしろそれらの通貨価値が高まってさえいる。
 実は、このグラフには示していないが、仏・伊・西の通貨と同様な動きは、オーストリア・オランダ・ベルギーなど中心国(core)を除く周辺国(ポルトガル、ギリシャ、フィンランド、アイルランドなど)でも見られる。

 このように為替相場の変化から見ると、EC諸国は2つのグループに分けられることがわかります。ここでは簡単のために、各グループからドイツとフランスを取り出して、そのような相違が現れてきた歴史的事情を検討しましょう。

 (以前のブログでも紹介したが)為替相場の一般理論を構築することはきわめて困難ですが、為替相場は、長期的には購買力平価にともなって変化し、短期的には資本移動による為替売買、期待などの心理的要因によって変化することが実証的研究から知られています(John T. Harvey, Currency, Capital Flows and Crisis, Routledge, 2010)。ここでは、まず前者に焦点をあててみておきましょう。

 結論的に言えば、フランス・フランとドイツ・マルクの為替相場に見られる長期持続的な傾向(マルク高、フラン安)は、両国におけるインフレ率の差を繁栄するものであり、されに突き詰めると、両国における金融政策や制度的な要因によるものと言うことができます。簡単に要点を示します。(J. Bibow, On the Franco-German Euro Contradiction and Ultimate Euro Battleground, Levy Economic Institute of Bard College, Working Paper No.762 がこの点で優れた分析をしています。)

 フランス 
 ドイツより高いインフレ率。これは、フランスの経済が内需主導型であり、貨幣賃金の引き上げを伴う経済であったことを意味します。またトッド氏(E. Todd、『経済幻想』など)が述べるように、フランスの出生率(合計特殊出生率が約2.0)・人口増加率が高いことも関係していると考えられます。中央銀行の金融政策もそれにそうものでした。
 ドイツ
 これに対して、ドイツでは、ドイチェ・ブンデスバンク(中央銀行)が常にインフレに対して警戒感を示し、インフレ抑制的な金融政策(ドイツ・マネタリズム)を行って来ました。これはまたドイツ経済が「輸出主導型」の経済を志向してきたことと関係しています。こうした金融政策は、均衡財政主義の政策と結びついていました。西ドイツの財政赤字、政府債務比率の少なかったことがそれを示しています。さらにトッド氏が述べるように、ドイツの合計特殊出生率がきわめて低い(人口減少に結びつく)ことと無関係ではないでしょう。ただし、1990年の東西ドイツの再統一までは、労働生産性の上昇に応じて賃金率も引き上げられており、そのため賃金総額の減少が国内消費需要を抑制するという(日本のような)事態はなかったと言うことができます。

 言うまでもないことですが、このような制度的な相違を持つ2つの国がそれぞれの為替相場の変動幅を狭い範囲内に抑えることは、きわめて困難な問題をもたらします。さしあたり次のような点を指摘しておきます。
 ・もし両国がそれぞれの政策スタンスを変更しないならば、また為替相場を固定しようとするならば、フランス・フランが実質的に高くなります(フラン高)。何故ならば、ドイツに比べてフランスの物価が高くなるからです。
 したがってフランスが実質的なフラン高を和らげるためには、フラン平価の切り下げを実施しなければなりません。
 実は、図が示すように、伝統的にフランスが行ってきたのは、1987年までは、このような政策でした。(図から、フラン価値の低下を確認してください。)
 ・しかし、もしそのようなこと避けるならば、フランスが政策を変更し、フランスの中央銀行はブンデスバンクの金融政策(インフレを抑制するためのマネタリスト的な金融引締め政策!)を採用しなければなりません。それはフランス経済をしだいに蝕み、失業率を引き上げることになるでしょう。実際、ミッテラン(大統領、フランス社会党)の選択は、その方向へのものでした。
 さらにフランスがこのような政策をとれば、金融引締め政策(高金利)の効果によって国内への資本流入が達成され、フラン高(あるいは少なくともフラン安へのブレーキ)を実現することになるでしょう。しかし、それはフランスの貿易収支を悪化させ、他方ではフランを不安定にさせる要因を生み出します。

 ここまで書けば、1992年9月に何故 EMS 危機が生じたのか、半ば以上は説明されたことになります。通貨危機の土壌は、1987年〜1992年の5年間に醸成されていたのです。

 しかし、通貨危機の要因として少なくとももう一つの点を指摘しておく必要があるでしょう。それは(経済にとって)外生的ショックとしての東西ドイツの統一であり、それがもたらした結果に対するブンデスバンクの対応です。
 周知のように、東西ドイツの統一は、1989年〜1991年に旧東ドイツへの援助のための巨額の財政支出を結果し、旧西ドイツに財政赤字をもたらしました。この短い期間にドイツでは、はじめて「ちょっとしたケインズ主義政策」が実施されたのです。そして、それはドイツ経済に好景気(1991年に5.1%の成長率!)とちょっとしたインフレーション(1991年に3.7%)をもたらしました(cf, Bibow, p.10)。
 しかし、この短期のちょっとした「逸脱」に対してドイツのブンデスバンクは、過剰に反応しました。伝統的なブンデスバンクの反インフレ的金融政策が発動され、金融が大幅に引締められ、緊縮財政政策が求められました。その結果、失業率は急上昇しました。いまドイツ中央銀行の伝統的な金融政策といいましたが、正確にはそれ以上だったと言えるでしょう。
 ドイツ・マルク高、一連の周辺国の通貨の減価、イギリスのEMSからの離脱、フランスの通貨危機は起こるべくして起こりました。(為替投機も起こるべくして起こったというしかありません。)
 もちろん、それらが1990年代に欧州全体に影響を及ぼしたことは言うまでもありません。これ以降、ドイツの「独善的な金融政策」に対する批判が様々なところで行われることになります。しかし、多くの人々の不信感にもかかわらず、ユーロ・ランドに向かう動きは、止まりませんでした。(この理由はそれ自体として興味を引くところですが、ここでは省略します。)
 
 以上見てきたように、1992年〜93年のヨーロッパ通貨危機の背景は複雑のように見えまるかもしれませんが、次のようにまとめられます。
 ・ドイツ(中心国)とフランス(周辺国)の金融政策、財政政策、制度的な相違
   (これは最終的にはインフレ率や為替相場の変動に現れる。)
 ・東西ドイツの統一という外生的な事件(一時的な「ケインズ主義政策」)
 ・政策的対応(フランス、ドイツの対応=緊縮的マネタリズム;失業問題の放置)
 
 さて、本日の最後ですが、実は、ここで述べた事情は1992年〜93年にだけ当てはまるものではありません。それは1990年代を通じて、また単一通貨圏が成立したのちの21世紀を通じて存続している問題群をはらんでいます。2006年以降のヨーロッパ債務危機の原因は、今日述べた時期から胚胎していたのです。

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