2014年2月21日金曜日

賃金主導型レジームへの転換 1

 賃金主導型という意味は、貨幣賃金を抑制するのではなく、むしろ引き上げることによって経済発展・成長・(不況からの)復興を実現しようという意味である。もちろん、この言葉の背景には所得分配の問題がある。
 ところが主流派の経済学は何故か所得分配について沈黙する傾きがある。何故だろうか?

 所得分配は最も簡単には、次式で示されるように賃金と利潤の分配関係を意味する。

   Y=W+R  ただし、W:貨幣賃金、R:利潤

 もちろんR(利潤)は、最終的には経営者報酬、利子・地代、配当、内部留保、法人税等に分かれる。その他に粗利潤には減価償却費も含まれる。しかし、概して言えば、これらお主要部分は所得階層の上位1%の人々(富裕者)の重要な所得源となる。他方、賃金も可処分所得や所得税・社会保障費の負担分などに分かれるが、それは99%の人々にとっての主要な所得源をなす。
 したがって第一に、賃金と利潤の配分比率(賃金シェアーと利潤シェアー)が所得分配における平等・不平等と密接に関係していることは明らかである。米国の主流派経済学者が所得分配に触れたがらないのは、この点に対する配慮からにある。つまり、それに触れると、近年の米国社会における激しい不平等度の拡大=不公正について語らなければならなくなるからである。それは市場経済(資本主義経済)の欠陥を指摘することになる。
 もとより、賃金もすべての勤労者間で平等・公正に分配されているわけではない。むしろ最近の傾向は、高賃金の階層と低賃金の階層の間の格差が拡大することにある。例えば1980年代以降の英米、1990年代以降のドイツなどで特にそうである。(米国の Russell Foundation の資金援助で行われた欧米6カ国に関する国際研究がそれを示している。)
 要するに、現在所得分配の不平等が拡大しており、一方では利潤シェアーが拡大し、他方では賃金格差も拡大しているという事実があることは間違いない。

 現在、世界の経済学者の間で一大論争となっているのは、このような傾向が人々の福祉にとってどのような意味を持っているかという問題にある。一方の論者は、こうした格差を様々な方法で正当化する。そのうちの一つは、グローバル化の下で一国の輸出競争力を強化しなければならないという主張である。しかし、これが国際価格を決定する要因として貨幣賃金しか見ていないという欠陥理論であることは、本ブログでも何度も指摘してきたところである。国際価格を決定する要因としては、他にも利潤、労働生産性、為替相場、輸入原料価格などがある。つまり賃金は一要因に過ぎず、しかも賃金の変化は他の要素の変化の誘因、しかもしばしば賃金変化の効果を逆転させる誘因となることを忘れてはならない。他のすべての条件を一定と仮定しておいて、賃金だけ取り上げるのはよくあるトリックである。
 賃金主導型のレジームが成立するという見解は、こうした見解に対する代替的な見解である。上述の主張がしばしば「代替案はない」(There is no alternative, TINA)と主張するのに対して、後者は「代替案はある」と主張する。

 その理論的・現実的な根拠は、ケインズやカレツキが1930年代に提示した一連の経済理論の核心にある。次の点が特に重要である。
 ・現実政治的には、1%の階層の所得だけが増加しても、99%の人々の所得が低下するような経済では、多くの人にとって意味がない。
 ・そもそもTINAの論者は費用の低下を主張するが、経済学を学んだ者ならば誰でもしっているように、費用=収入である。利潤(資本費用)であれ、賃金(人件費)であれ、その他の物的費用であれ、最終的には所得(利潤所得と賃金所得)に等しい。したがって費用の縮小を語るひとは、収入の縮小を語ることになる。
 ・現代の発達した経済では、景気の悪化は低い生産能力に起因するわけではない。むしろ高い生産能力に比して有効需要が小さいからである。いわゆる「セイ法則」(供給が需要を創り出す)と言われているものが成立しないことははるか昔に明らかにされており、この点ではケインズ=カレツキの見解が正しい。しかし、主流派が「セイ法則」に戻ったことは知的退廃である。
 ・そこで貨幣賃金の引き上げ(または引き下げ)は経済にどのような影響を与えるかが、最大の焦点になる。ただし注意しなければならないのは、あくまで社会全体で貨幣賃金水準を変更した場合にどうなるかが問われているのであり、個別企業や個別産業が行う貨幣賃金の変化について議論しているのではないことである。
 この問題は、まず理論的次元では、主流派の経済学者が考えるような静態的な仮想空間を想定することによっては解決されない。現実の経済は、貨幣賃金率以外にも物価、労働生産性、有効需要=産出、為替相場などの諸条件が変化する動態的な(dynamic)経済だからである。
 さらに、多くの人々は、「その他の条件が等しいならば」(ceteris paribus)という魔法に囚われており、他のすべての条件が変わらないという想定下で個別企業・個別産業について成立する論理を、社会全体について当てはめようする。(ケインズはこれを「論点先取の誤謬」と語った。)
 例えば一人の企業家が自社の労働者の貨幣賃金率を引き上げる場合を考える。彼は、自社だけがそうした場合、きわめて不利であることを知っている。もし販売価格を引き上げなければ、(ceteris paribus !)人件費が拡大し、利潤が圧縮される。だが、利潤圧縮を避けるために販売価格を引き上げるならば、(ceteris paribus !)需要量が低下し、生産を縮小しなければならない。まさにその通りである。

 しかし、もしすべての(または多くの)企業が(まずは価格を変えずに)貨幣賃金をいっせいに引き上げたらどうだろうか? それは貨幣額で表示された社会全体の有効需要を引き上げる。つまり、この場合、前提条件が変わるので、ceteris paribus は成立しない。企業は(労働者からの支出が増えるので)需要拡大の恩恵を受け、生産量を増やすことができるようになる。このとき、多くの企業は労働生産性を引き上げることができる(効率賃金仮説)。何故ならば、一つには労働のインセンティブが高まるからであり、第二にはそれまでの低需要の下で弱まっていた労働ノルマを強めることができるからである。
 この場合、仮に(同じくすべて、または多くの)企業が等しく価格を引き上げたらどうであろうか? この場合にも、企業にとって価格の引き上げがもたらす心配はない。すべての企業が同様に行動するからである。これはマルクスのいわゆる「社会的総資本」の観点に相当する。

 しかし、理論の世界から現実の世界にもどろう。
 仮に社会全体の企業が貨幣賃金を引き上げることによってよい結果が得られると理解したとしても、企業家が必ずいっせいに賃金を引き上げることはないだろう。
 企業は相互に競争しており、自ら好んで(貨幣賃金引き上げの)リスクを冒すことはない。彼らの希望は一致している。他の企業が貨幣賃金を引き上げて社会的総需要を拡大したり、価格を引き上げることは大歓迎である。しかし、自社は出来れば貨幣賃金を抑制し、価格も引き上げずに済ますことで、自社製品に対する需要を拡大し、かつ利潤の増加を期待したい、と。
 
 かくして、貨幣賃金を引き上げるというインセンティブは企業内部からは生まれない。
それが実現するためには、何らかの条件=力が必要である。
 ・労働組合などの労働側の賃金交渉力
    昔は日本でも「春闘」があり、給与がいっせいに引き上げられた。
 ・最近の米国における living wage 運動などの市民・教会・労働運動
    米国では、教会の牧師・司祭が悪徳経営者に対して、「死後、天国に行けません   よく。きちんと従業員の給与を上げましょう」と説得することがあるようだ。
    日本の坊さんが個人の涅槃・悟り・安心立命を説くのとは少し違う。
 ・有権者からの政府、議会を通じた政治圧力
    賃金がいつまでも下がりつづけると、有権者がある種の政党に票を投じなくなる   というような圧力。この力は現在の日本でも多少は感じられる。
 ・その他 良心的な企業家の存在など。

 以上の様々な複雑な条件を念頭に置きながら、次から「賃金主導型レジーム」に関する研究を紹介してゆきたい。


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