2014年2月13日木曜日

<世界需要の構造的不足>と<不均衡> 現代経済の根本問題

 先日のNHKテレビで、熾烈な「グローバル競争」の展開を想起させるニュース番組が放映されていた。しのぎを削る国際競争の中で日本企業が苦戦している様子を映像を通して見せられた人々の多くは、あらためて国際競争の激しさを知り、日本の(つまり自分の)将来に対する不安にかられたであろう。またその渦中にいる人々(技術者、ビジネスマン、従業員)は自己の属する企業がこの熾烈な競争に生き残るべきかに思いをはせ、価格の引下げのための人件費の引下げや、新しい製品開発、生産性の引き上げの方策(日々自分たちが直面していること)を思い起こしたかもしれない。

 しかし、この姿を第三者(例えばーー私はそのような存在を信じていないけれどーーUFOに乗って地球にやって来た宇宙人)が客観的に見たら、事態はかなり変わったものに見えるはずである。そして、この見方は経済社会に生起していることを客観的・冷静に分析する経済学者や政治家も共有すべきものである。

<世界需要の構造的不足>

 そもそも何故熾烈な「グローバル競争」が生じるのか?
 その理由は、まず労働生産性(一人・時間あたりの産出量)が急速に上昇しているからである。この生産性上昇は、一つには、毎年行われる設備投資を通じた技術革新によって実現される。設備投資(マクロ経済学では記号 I で示される)は、景気後退時でも行われ、とりわけ粗投資(減価償却+純投資)ではそうである。1930年代に純投資がゼロの水準になった大不況時の米国でさえ、粗投資はかなりの額を維持していた。生産性上昇のもう一つの源泉は、労働密度の強化(労働強度ノルマの強化、スキルアップなど)である。現代の経済では、これらのチャンネルを通じて労働生産性は、(要注意!)不況下でも上昇する。ともかく、現在、先進国だけでなく、かつての途上国や旧社会主義国がこうした経路を通じて、生産性を急速に発展させていることもよく知られている通りである。

 だが、この時に何が生じるだろうか?
 19世紀生まれの古めかしい「セイ法則」(ジャン・バティスト・セイの唱えた一説)では、<供給は必ずそれ自体の需要を生み出す」とされているが、この考えが正しければ何の問題もない。
 しかし、残念ながら、これほど現実離れした「理論」はない。この考え方は、19世紀に(リカードゥやセイなどによって)生みだされ、定式化されたのち、マルサスとマルクスによって批判され、20世紀にはケインズ、カレツキなどによって徹底的に批判された。生産物は生産・供給されたからといってすべて需要される(販売されつくす)わけではなく、また労働力を供給したい人(つまり企業に雇われたい人)がいるからといってすべての人が需要される(雇用される)わけでもない。これは良識を持つ人ならば、誰でも知っていることであり、したがって経済学の課題は、セイに戻る(つまり物理学ならば、地動説に戻ること)ではなく、この不均衡を説明することだけである。

 さて、現実世界では、有効需要(消費需要 C と投資需要 I )に応じて、消費財と生産財の生産・販売がなされている。そして、実際の生産に必要とされる労働力だけが需要され、雇用される。セイ法則の世界、つまり(「特定の実質率で」という前提条件に注意)働きたい人が働きたい時間いつでも働ける(雇われる)というパラダイスはこの世には存在しない。それは虚構の世界である。

 需要側は供給側の事情とはまったく異なる事情によって決定され、かつ残念なことに、一連の事情によって需要側が供給側に常に遅れを取る。これが現実の世界である。
 ケインズやカレツキの天才は、「セイ法則」という裸の王様が裸だと素直に示し、二つの変数(供給能力と需要量、労働供給と労働需要)がまったく別の事情によって決定されること、また現代の経済体制には<需要の構造的不足>を引き起こす体質が組み込まれているいることを示したに過ぎない。「示したに過ぎない」といったが、これは経済学史上の革命的な出来事であった。
 
 そこで問題は、何故、<世界需要の構造的不足>が生じ、人々が雇用や所得について不安を抱かなければならないのか、その理由にある。
 いくつかの点に触れておこう。

 ・生産力の上昇と損益分岐点の上昇(過小消費と過剰生産)
 生産力が投資による技術革新によるほとんどすべての場合、固定資本ストック(資本装備量)の増加は、損益分岐点を右に移動させる(損益分岐点が大きくなる)。つまり、企業が以前より多くの利潤をあげるためには、生産量と販売量をよりいっそう拡大しなければならなくなる。このことは、有効需要(売れ行き)がそれに見合うだけ増えなければならないことを意味する。
 しかし、ここで経済は大きなアポリアに直面する。個々の企業としては、損益分岐点をなるべくあげないようにするために、費用、つまり設備投資額、賃金率や雇用量を抑制しようとする。しかし、経済全体では、そのような節約は、社会全体の需要を抑制する。それは個別の企業の産出量を抑制する。
 しかも、一定程度以上に満たされた社会に転換するにつれて、有効需要が成長するペースは低下してゆくだろう。
 かくして、「過小消費」または「過剰生産」と言われる事態が生じる。その意味は次の通りである。もし拡大した損益分岐点より多く生産しても、売れずに在庫が増加するならば、それは「過剰生産」と呼ぶにふさわしい。また企業は需要に応じて生産すると考える場合には、需要が利潤を実現するのに十分な規模に達しない場合(需要不足の場合)は、「過小消費」と呼ぶにふさわしいだろう。
 ケインズが述べたように、現代の(自由主義的な)企業者経済では、経済が完全雇用を達成する水準にあることは全くの偶然時でしかない。
 
・さらに1980年代以降の次のような変化も指摘しておかなければならない。
 それは、現代の一連の人々(エリートたち)は、エマニュエル・トッド氏風に表現すると、「単一思考」または「ゼロ思考」に陥っているという事実である。つまり、彼らは、「セイ法則」というコペルニクス以前的な地動説に逆戻りしてしまっており、生産力の上昇には執心するが、それに見合った有効需要の増加にはまったく関心を向けない。
 彼らの政策は、賃金の圧縮につながる一連の施策、法人税の減税を始めとする巨大企業の公的負担の低減と社会保障支出の削減、緊縮(健全)財政などである。

・さらに、自由貿易主義はこの傾向をいっそう促進する。特に停滞と景気後退の状況の中で、輸出(外需)を救いの神をあがめるようになった社会では、そうした傾向が顕著になってきた。
 トッド氏が述べるように、
 
 「国境の開放は、輸出にとりつかれたすべての社会で、退行的な心理状態を広める。つまり、費用や支出を出来るだけ、かつ絶えず切り詰めようとする切望が生まれるが、これはマルサスに従って人口まで抑制しようとする時代精神と共鳴する。賃金を切り詰め、子供を減らし、旅行を減らし、楽しみも減らそう、これが進む道である。国民の行政的中心である国家は、自由貿易の環境のせいでマクロ経済的意識をすべて奪われ、ついに企業のように行動しだす。そして、ここで財政赤字の削減にとりつかれたわが政治家の階層がグローバルな需要の圧縮に進んで協力する。その結果は、消費の削減、雇用者数の削減、失業の増大に帰着せざるを得ない。」(『経済幻想』藤原書店、1999年。ただし訳文を改変した。)

 とはいえ、実際に輸出の拡大によって国際収支(貿易収支または経常収支)の大幅黒字を実現することが出来るのは、一部の国にすぎない。何故ならば、世界全体ではゼロサムが成立し、一方の黒字は他方の赤字を意味するからである。
 そして、この赤字国の側は、彼ら自身の所得増加、特に賃金増加によって消費需要を拡大するのではなく、負債の拡大によってそうする。本質的には、これらの国(その代表は米国だが)は、黒字国からの借金(負債)によって超過輸入(つまり自分たちの所得を超えた消費。これは浪費に他ならない)を行う。
 この世界的な不均衡がもたらした悲劇(ユーロ債務危機、アメリカ発のグローバル金融危機など)は、よく知られた事実である。

 


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