実は、このブログ<社会科学の裸の王様・経済学>は、Steve Keenという経済学者の著書のタイトルを拝借したものです。彼の書いた著書は、いろんな点で面白いものとなっており、このシリーズでも機会を見つけて紹介したいと考えています。
さて新古典派批判というある意味ではやりがいのない作業を遂行する上で、「セイ法則」ということについて触れない訳にはいきません。セイというのは、19世紀のフランスの経済学者の名前(Jean Baptist Say)ですが、その名を冠した「法則」は決して法則といえない代物です。このシリーズの第1回に紹介した引用を参照してください。「原理」と呼ばれるものは、ほとんどの場合、当該社会で力のある富裕者に役立つときに「原理」の名前をつけられるということでしたが、この原理もその通りです。
セイ法則は、「供給はそれ自らの需要を創り出す」という風に定式化されます。それは、<需要側を説明する必要はない。何故ならば、供給側が説明できれば、自動的に需要側が説明できるのだから。重要なのは供給側を説明することにある>ということを含意しています。
さて、この「原理」は、長い間多くの人々を苦しめてきたものあり、また現在でも多くの人を苦しめ、悲惨な結果をもたらしています。このようにいうと、あまり経済学になじみのない多くの人は、「えっ、どうして」と尋ねたくなるかもしれません。
その答えは簡単です。
例えば1990年代初頭以降の日本のように、経済がスランプに陥り、失業率が上昇してきたような場合を考えてください。
このとき、供給側(サプライサイド)を強調する新古典派の経済学者は、次のように言います。
・企業がやる気を出すために、法人税をはじめとする企業負担を減税しよう。
・富裕者が投資できるように、富裕者を中心に減税しよう。
・企業が安心して労働者を雇えるように、いつでも簡単に解雇できるようにしよう。
・労働条件を引き下げれば、費用(人件費)が下がり、企業は生産を拡大する。
・労働条件の引下げを実現するために、労働組合を弱体化させよう。
・労働条件の引下げを実現するために、雇用を柔軟化しよう。
・最低賃金を引き下げよう。
・失業率は高いほうが、労働者が競争するからいいんじゃないか?
・能力給によって労働者を競争させると効率があがる。
・失業保険制度なんかないほうが、労働者が企業のために頑張るからよい。
・グローバル化の時代には、労働条件を下げないならば、企業は外部に逃げますよ。
・投資家の利益=株主価値をあげないと投資が増えません。そのためには賃金を引き下げてでも、利潤(株主への配当)を増やしましょう。
・高い給与を得ている公務員を減らして、彼らの仕事を民間企業に委ね、仕事は低賃金の労働者の行う外注に出しましょう。
これは私が勝手に考えたのではなく、すべて新古典派の系列のエコノミストや政治家などが発した発言をまとめたものです。
いやはや、言いたい放題です。まだ米ソ冷戦の昔、「資本主義の黄金時代」と呼ばれた時代には口が裂けても言えなかったような内容ですが、現在は「供給側」(実は企業側)のためなら何でもありといったところです。
ケインズやカレツキは、こうした供給側の経済学が一見すると正しそうに見えながら、誤っていることを指摘した経済学者でした。その理論が「有効需要」の原理です。彼らは、供給側の要因が需要側の要因と関連しながらも、両者はまったく異なることを発見しました。
「需要と供給とはまったく別の要因によって説明しなければならない。」「現代資本主義のスランプは、有効需要の問題から生じている。」これが正しい命題です。(この命題のもっと詳しい意味は後で説明することにします。)
しかし、新古典派は、「セイ法則」にしがみつきます。これが崩壊すると、彼らの経済学の全構築物が崩れるからです。それだけではありません。新古典派の経済学者にとってケインズやカレツキはきわめて邪魔な存在となりました。ここに「ケインズ殺し」(ケインズは死んだ)の動機が生まれました。
そして、そのときは1970年代にやって来ました。
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