現代経済は「市場経済」と呼ばれています。この市場(market)と呼ばれる制度は必要なものでしょうか? 私は必要な制度であると考えています。
しかし、必要だということと完全、完璧ということは同義ではありません。例えば親にとって子供は大切な宝ですが、子供がすばらしい人格を兼ね備えているとは限りません。
市場は公正な制度であるとしばしば考えられ、そう言われていますが、実際には様々な欠点・欠陥を備えています。
市場はなぜ公正な制度だと考えられているのでしょうか? それは多くの人にとっては、単にそのように喧伝されているから、そう思っているに過ぎません。では、そのように語る人(経済学者や政治家)はどうしてそのように言うのでしょうか?
新古典派の経済学者は、その教科書的な、かつ最も抽象的な理論においては、市場に参加するプレイヤーたちが多数の等しい力(つまり購買力や供給能力、つまりところは貨幣)を持つ同権的な諸個人からなることを前提として議論を組み立てます。彼らは完全に自由に市場で競争するということが仮定されています。
つまり最初から公正性が前提されているのですから、そこから導かれる結論が公正性であることは説明する必要もありません。
しかしながら、現実の経済社会では、市場はそのような同権的な諸個人による財とサービスの交換の場でしょうか? まったく違います。
ちょっと観察しただけでわかるように、市場は、所有する貨幣量だけで見ても、様々な力(power, Kraft)を有する人々(個人、法人)の交換の場となっています。例えば開発途上国の第一次産品(commodities)の取引をめぐっては、一方の極に分散した小規模な生産者(小農)たちがおり、他方の極に少数の巨大な多国籍企業が存在しています。その間で取引が行われるとき、前者が圧倒的に不利な条件・弱い立場に置かれていることは一目瞭然です。経済史を見ると、19世紀から現在まで工業製品に対する第一次産品の相対価格(交易条件)はずっと低下してきましたが、その背景にはこのような力関係がありました。その結果、途上国の商品は買いたたかれ、その生産者たちは低所得の状態に置かれますが、巨大商社は巨額の利益を上げることができました。フェアー・トレード(公正貿易)が叫ばれるのは、このような不公正を是正しようとするからに他なりません。
力の差は、途上国と先進国の間に存在するだけではありません。それぞれの国内でも、労働市場の場合に特に顕著となります。
労働市場では、一方に労働者(雇われるようとする個々人)がおり、他方に企業(雇い主)が存在します。この両者の関係は決して対称的ではありません。特に失業率が高い場合に、労働者の立場は非常に弱くなり、企業の立場はきわめて強くなります。どうしてか? 労働者は雇ってもらえない場合、所得を得ることができなくなります。彼らは企業の提供した労働条件を受け入れるしかありません。これに対して企業は、「君の代わりに働きたい人はいくらでもいるんだ」という態度を取ることができます。現代のブラック企業はこのような台詞で従業員を脅しているようですが、それはブラック企業に限るわけではありません。
現実の経済社会をよく観察していたアダム・スミス(『諸国民の富』)は、このことをよく知っていました。彼は18世紀のスコットランドやイングランドの労使関係について興味深い詳しい記述をしています。18世紀といえば、ちょうど産業革命が始まった頃であり、まだ現代の巨大企業が登場するはるか以前です。(新古典派の経済学者は、都合の悪いことは隠そうとする習性を持つので、是非読んでみることが必要です。)
19世紀末にも同じことが観察されます。ここでは特に1873年以降の大不況の時期のことを例に説明しましょう。1890年代まで続くこの「大不況」(the Great Depression)は経済史上よく知られている出来事です。最近は、この大不況の時期に実質GDPが成長していることをもって大不況ではなかったという見解(有斐閣の『西欧経済史』など)も出ていますが、それはかなり現実を無視した誤った見解です。
まず失業率がきわめて高い水準に達していたことに注意しなければなりません。景気をGDPの量や成長率だけで判断してはいけません。またこの時期は独占的な大企業が成立しつつある時期でしたが、これらの大企業は高い失業率の条件下で、賃金の引き上げを抑制することに成功していました。つまり、賃金圧縮が生じ、賃金シェアーが大幅に低下していたのがこの時期のもう一つの特徴です。こうした賃金シェアーの低下は、大衆消費財の市場の不況を招き、結局は国内市場を停滞させます。ここでは詳しく述べませんが、この時期に英国やドイツなどが製品の販路を輸出に求めて対外進出を行おうとしますが、その背景には以上のことがあったと考えられます(ストレーチー『現代資本主義論』)。
確かに第二次世界大戦後の「資本主義の黄金時代」にフォーディズム(妥協的労使関係)の下で、こうした関係にはいったん終止符が打たれ、完全雇用政策の下で労働生産性の上昇に応じた賃金引き上げが実現するようになりました。しかし、1980年前後に始まる新自由主義政策の下で、また高失業率とグローバル化の環境の下で、ふたたび企業と労働者の力関係に大きな変化が生じました。
米国では、1973年から現在までに労働生産性が2倍以上に伸びたのに実質賃金(中位)が7%も低下したことはこれまでも述べた通りです。
結論しましょう。
経済学の教科書の中の虚構の市場はどうなっているかに関係なく、現実の市場はきわめていびつな構造をしています。そのことを知ってか知らずにか、市場原理主義を喧伝するのはジョン・K・ガルブレイスのいう「欺瞞」(fraud)に他なりません。
またそのような「自由市場」にすべてを委ねてしまえば、「悲惨な結果」が招来されることも言うまでもありません。諸個人の権利を守るためにも市場にすべてを委ねるのではなく、公正な社会的ルール(労働保護立法など)を作ることが必要不可欠となる理由がここにあります。
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