2013年8月27日火曜日

シュルツェ・ゲーヴァニッツ「イギリス帝国主義とイングランドの自由貿易」


 19世紀および20世紀の世界史における最大の出来事は、2つのアングロ・サクソン民族の国(イギリスと米国)の<世界支配>である。世界支配という言葉に違和感を持つ人がいるかもしれないが、わずか世界人口の10%ほどの民族が世界政治的・経済的に指導的な役割を演じていることは言うまでもない。
 われわれはその事実をあるがままに受け入れており、その理由を問うことはまずない。またその事実が持っている意味も問うことはない。それは余りにも難しい問題であり、常人(大学で研究している学者も含めて)には答えることがほぼ不可能だからでもある。
 しかし、社会科学の領域では、それを成し遂げようとした巨人が存在した。カール・マルクス、マックス・ヴェーバーなどがそれである。
 ここでは、それに比べるとほとんど知られていないが、ハイデルベルク大学でヴェーバーの同僚であり、きわめて博識で知られていたシュルツェ・ゲーヴァニッツの「イギリス帝国主義とイングランドの自由貿易」(1901年、出版)*を少しずつ訳出する。また解説も少しずつ付すこととする。
 この出版物については、1901年に出版されたのち再版はされておらず、著作権は適用外となっている。したがって、原文は様々な図書館の電子媒体で閲覧することができる。
 *Gerhard von Schulze-Gaevernitz, Britischer Imperialismus und englischer Freihandel, 1901.
 なお、以下の訳文は、ざっと直訳しただけであり、日本語としてこなれていないが、逐次、改訳する。


序論 イギリスの世界権力の基礎

 世界史的な視点から見ると、19世紀の最も重要な出来事はアングロ・サクソン民族による世界支配である。19世紀の始め頃、イングランド人2人に対してまだフランス人は3人の割合だった。それ以来、英語を話す人間の数は5倍になり、今日では言語上、一人のフランス人1人、ドイツ人2人に対してイングランド人3人の割合である。英語は世界の最も広まった言語であり、1億2000万から1億3000万の人口、文化的に高い位置の平均の人口を捉えている。
 人は一つのアングロ・サクソン海について語ることができる。それは陸地面積を超えており、その他の国民および文化は、そこから一部は島として、一部は大陸(ロシア、中国)として分断されている。
 政治的には、世界の頂点に2つのアングロ・サクソン列強(英・米)が存在しており、そのうち以下では英国という世界権力を取り扱うことにする。大英帝国はまず政治的な権力組織であり、しかも世界で最も広範な帝国である。そのようなものとしてそれはイングランド海軍の海洋支配に立脚している。それは陸地面積の4分の1を、また人口の3分の1近くを捉えている。しかし、英国の世界権力は、ロシア帝国のように政治的組織であるにとどまらない。大ブリテンの政治的権力は同時に最も広い経済的な基礎の上にある。確かに英国はもはや19世紀中葉におけるように世界の「工場」、すなわち工業国家ではない。しかし、それはまだ大きな規模で世界の貨物運送者であり(世界の総トン数の50パーセント以上がイングランドによっている)、世界の銀行家、債権者である。イングランドはまだ第一等級の工業国家である。政治的世界権力とならんで、大ブリテンの経済的世界権力も健在である。
 もし一人の教養あるドイツ人に50年前にこの素晴らしい高揚の基礎について質問したならば、彼はおそらくイングランドにおける政治的および経済的な自由、議会制度、市民的職業の重視、および軍国主義の欠如を指摘しただろう。マルクス主義者ならばこの質問に対して、イングランドではブルジョアジーがきわめて純粋に支配を達成し、資本がここでは何よりもその需要に応じて大規模な国民経済全体を形成したことをもって答えたであろう。ビスマルク時代の世代のドイツ人ならば別様である。そのようなドイツ人ならば、コブデンとブライトまでの大ブリテンの世界的地位は主に政治的権力手段と絡み合わされたことを強調するであろう。イングランドの指導的な人物自身は、自由貿易時代まで他のことをあまり考えなかった。周知のようにアダム・スミスは、彼の思想にきわめて反する航海条例をイングランドのすべての商業的秩序の中で最も賢明なものと捉えている。
 事実、歴史的な反省は、英国の世界支配が生まれたあの長い生成と成長の年月の間に政治的要素を前景に引き寄せることに注目する。イングランドは、そのライバルに勝利したが、とりわけまた第一にイングランドが強国、卓越した軍事力を自分のものとしたがためにである。
 周知のように、イングランドの世界的地位は何よりもまず、短いが決定的なオランドとの戦争から、ついでフランスに対する200年にも及ぶ戦争から生まれた。
 オランダは海上商業を持ち、イングランドは、まず戦争の目的のために派遣されたオランダの東インド航行者のために考えられた軍船を建設し、海軍を持っていた。さらにイングランドはよりよい船舶建造所を持っていた。それによってイングランドは、ヴィルヘルム三世が第二級の怠惰な同盟仲間の役割に引き下げてしまったオランダの政治的・経済的な世界的地位を破った。それ以来、オランダ、つまりはじめて世界を政治的、経済的および精神的に支配していた国は歴史なき停滞に衰退し、同国はそこからようやく最近になってからドイツの後背地の高揚によって目覚めたに過ぎない。
 フランスとの争いはそれより困難であった。フランスはこの争いの最初の頃はイングランドを経済的関係では優位にあった。フランスはイングランドよりはるかに多くの人口を擁していた。フランスはコルベール以来、ヨーロッパの最初の工業国であり、イングランドはそれに並ぶものを持っていなかった。フランスは、より多くの国家収入を持っていた。植民地の領域でも、フランスは周知のように先を行っていた。北米の東部海岸へのイングランド人の定住はフランスによって後背地に追いやられていた。カナダ、ミシシッピ渓谷、ルイジアナ、繁栄する西インドはアメリカにおけるより偉大なフランスの途切れのない関連を示していた。インドでもフランスはイングランドよりも早く立ち上がっており、イギリスによるインドの領有はまったくフランス人の努力の防衛の中で——”Citoyen Tippou”に対するイングランドの戦いまでは——行われた。
 これ以外にもまだある。フランスはイングランドが性格を対抗させるしかなかった天性を持っていた。Dupleixは、インド兵、インドの租税支払者、およびヨーロッパの一握りの指揮官の間でインドを領有するための秘密を発見した。彼は、インドが国民ではなく、地理的な概念(文化的に分裂しており、外国支配に慣れており、横領者の力に従属する国)でしかないことを認識した。Dupleixの思想は、Seeleyが明示的に述べたように、後にイングランド人たちに利用された。アメリカ独立戦争の間にも、天才的な Suffren はインド洋、われわれが今日イングランドの本来的な所有物と見なしている海を支配していた。しかし、フランスは、Suffrenの学校の多数の海軍将校を国王派として処刑し、海軍の伝統を計画的に破砕することによって、革命の中でその本らの海軍を無にした。確かに Carnot は、革命運動、および頂点にあった公会によって営む国家全権を利用して、陸軍を再建した。しかし海軍は改革されなかった。この状態の中で、フランスにとってもう一度前例のない天才が現れた。
 ナポレオンの明らかに素晴らしい、また相互に関連する政策は、指導的な思想を捉えたときにはじめて統一的かつ全面的に理解することができる。イングランドに対する戦いがナポレオンにあってはすべてを支配した。彼が「第二のオレロン島」に下げようとしたイングランド。イングランドに対抗してエジプト行きの列車が整備された。イングランドに対抗してヨーロッパ大陸の征服がはかられ、それについて彼は軽蔑的に言った。「cette vieille Europe m’ennuie」。イングランドをドイツに押し込めるというナポレオンの思想は、われわれが当時のドイツ・イングランド商業の高揚を考えるならば、理解できる。フランスによるオランダの征服以来、ハンブルクはアムステルダムのエルベ河となった。1800年頃、北ドイツはイングランドの最重要な商業地域であった。1792年には9%、1800年には31.5%のイングランドの総輸送がこの商業(プロイセンの中立性を政治的にカバーした商業)にあった。イエーナのシュラフタ(ポーランド人の小貴族)は、ドイツの海岸でイギリス商品を扱うことを禁止するベルリン勅書に従っていた。ロシアに対する戦争の始めの頃、ナポレオンは書いた。「それはすべて喜劇の一幕のようなものだ。イングランド人はシナリオを変更する。」イングランドに対抗してモスクワ行きの列車が整備された。陸路でインドに到達するという思想は、ナポレオンを以前からすでに捉えていた。インドへの進撃によって、ナポレオンは海軍なしでも「航海の自由を得る」ことを望み、その際、彼は当時のイングランドにとってのインドの意義についておそらく思い違いをしていた。
 フランスに対する有為転変たる戦いで、イングランドは勝利した。フランスの敗北はファショダによって最近得られた。それ以来、フランスは植民地政策上、イングランドが許すことを許されている。しかも、ライバルでなく、仲間だからという事情の下で、だ。イングランドの勝利は、明らかに次の基礎にもとづいていた。その地理的な状態がすべての力を海軍力の一面的な形成に向けることをイングランドに許した。すでにベーコンが求め、スチュアート家以来イギリス国民がその相続財産と見なしていた海の支配がそれによって事実、19世紀の最重要な政治的事実となった。これに対してフランスは、政治家としても偉大なライプニッツの助言に反して、無益な国内戦でその力をつまらないことに使ってしまった。国内戦はおそらく今日(国内戦が始まったときの)限度に連れ戻されている。イングランドは、その内戦を給料を出して雇った大陸の強国(オーストリア、プロイセン)によって遂行した。それは後者がフランスと争っている間に世界を征服したのである。セダンにあっては、ドイツのカノン砲がイギリスのために音をたて、第二帝国とともに、ドイツ軍はエジプトにおけるフランスの権力的地位を粉砕し、それはスエズ運河の開通によって非常に輝かしく展示されたのである。
 イングランドのフランスに対するこの政治的勝利は重要な経済的結果をもたらした。この戦争の間に、イングランド人は巨大な植民地帝国を獲得し、それをはじめて独占的に搾取した。ナポレオン戦争の間に彼らは一時的にすべての海上市場を独占した。これに対して、ヨーロッパの諸国民にその意思に反して課された大陸封鎖は周知のように至るところで(例えばヘルゴランド、シチリア、ドナウ公国から)粉砕された。1807年の東プロイセンの出兵ではフランス軍は大部分が、禁止されていたがベルリン勅令に反してハンブルクから輸入されたイングランドの布を着ていた。ここには、あらゆるイングラド以外の商船隊の粉砕があった。ナポレオン戦争の間に、イングランドは4000のヨーロッパ船を自分の商船隊に併合したといわれる。例えばイングランドは、世界商業商品の積み上げ、分配の中継地となった。当時まだ乏しい量のために商業がもたらしていた高い利得のために、イングランド国民の財産の異常な増加がここから生まれた。そこで、ピットは、戦争の7年後、1801218日に議会で語ることができた。「この戦争の年を昔の平時年と比較すると、われわれの購入額およびわが商業の進展に逆説的で驚くべき像を見いだす。われわれはわが国外および国内商業交通を以前より高い段階にもたらした。またわれわれは現在の年月を、当時国が置かれていた立派な年月として眼を向けることができる。」
 もちろん後にナポレオンの政策はイングランドの富に困難な傷を与えた。それは困難な傷であるが、確かにますます新しい戦時税の計上によって財政を維持しなければならないフランスの富裕にとっても困難な傷である。イングランドはこの戦争で紙幣に移行したので、その相場は最悪の年(1813年)にも71より低下しなかったことは、大きな経済力のしるしであった。この経済的な躍進は、当然ながら政治的領域にも強く反作用したに違いない。イングランドは「一人富裕」だった。すでにスペイン継承戦争で、とりわけ革命戦争とナポレオン戦争で、それはその補助を通じて一度ならず大陸の同盟国を結集した。
 しかし、イングランドが当時経済的にもそのライバルに優位にあったとき、疑いなく純粋に政治的な因果系列以外に反作用する特定の要因がともに作用していた。私は最初の近代的な工場制度の躍進を思い出す。われわれは、確かに高い意義を持つ政治的要因を一面的に強調することを警戒しなければならない。疑いなく、その顕著さの中には、最近の心理学的に彩色された形態であれ、マルクス主義的な歴史把握に対するのと同様に、前時代の国家なしの自由主義に対しても健全な反動がある。事実、灰色の理論は次のようなものだろう。早い時期の、近代資本主義のおそらく模範的な発展はイングランドの地盤において「資本の増殖努力」からのみ(ネルソンやトラファルガーなしに)明らかにされる、と。しかし、この政治的要因、総じて「単一の原因系列」で満足することも同様に不当であろう。それでは歴史は、経済史も、「現実科学」としての性格に不誠実となる。歴史的事件が重要であるほど、その原因の分岐性を様々な側面から検討することがますます必要になる。そして、最近の歴史の中にイングランドの政治的ならびに経済的世界支配以上に重要な出来事はあるだろうか?
 イングランドがそのライバルに勝利したのは、それが強い国家を持ったからだけではなく、強い諸個人(Einzelmenschen)を持ったからでもある。
 最初に、この観点から特定の自然的な利点を考えよう。人種理論家は、ここに彼の考察にとっての豊かな土壌を見いだすであろうが、私はその不確実性のために無視しよう。ただ次のことは疑いないように思われる。すべての歴史は、これまで少なくとも文化に対する奉仕が国民の物理的な基礎を摂取することを教える、と。中世の間、文化圏の周辺にあったイングランドにとって問題となったのは、主に古い国民に対する戦いであった。ローマ人に対して、イングランドは若い頭脳の利点を持っていた。
 地理的な位置も作用した。北海の空気がブリテン島に流れて来た。その住民についてはフリードリヒ・リストの言葉が当てはまる。「海で諸国民は元気づけの水浴びをし、その手足をリフレッシュし、その精神を大きなことに感じやすくし、その肉体的および精神的な眼を遠くを見ることに慣らし、肉体からすべての国民的発展にとって妨げとなる俗物の汚物を肉体から洗い去る。」いずれにせよ、海に慣れている北イングラド人は、もうすでに大陸的な南イングランド人、特にロンドン人よりも堅い木材から彫られている。アングロ・サクソン世界の内部で最も力のある型を表しているゲルマン系スコットランド人という小国民に対して大ブリテン人はまったく何も負ってないのだろうか?
 しかし、この自然的な基礎だけが確かに決定的だったのではない。近代のアングロ・サクソン人は、ある特定の精神的刻印を帯びている。この「文化」によって、彼らは大陸の諸国民から、中世以上に今日でも、区別されている。ここでも、いわゆる「精神史」が経済史に対して因果的に考察される。
 誤解を避けるために、次の中間的な注意を許してもらおう。私は、ここでもおそらく以下と同様に、文化という言葉を一義的に、また一国民の財産の理想に対する関係としての技術および文明に対立させて、使う。理想という言葉を、私はカントに従って普遍的な意義を持つ(規範的な、事実上は普遍的ではない)目的と理解する。その際、その目的を課題として追求することは確定しているが、一方、此岸の土壌におけるその実現は不可能である。そのような目標、科学的、芸術的、倫理的、特に政治的および社会的な、最後に宗教的な目的が存在し、それに応じて文化発展または精神史の様々な側面が区別される。
 近代のアングロ・サクソン文化は、イングラドを遅くなって、しかし次いできわめて深く捉えた宗教改革によって刻印されている。カーライル以来、この精神的な転換の2側面(否定的および肯定的側面)を区別することが一般に行われている。(続く)
  

2013年8月18日日曜日

近年の日本における賃金率の低下について

 このブログでも何度も取り上げたように、近年の日本では賃金率が傾向的に低下してきた。その低下は、貨幣賃金率(名目賃金率)についても、物価指数を考慮した実質賃金率についても、生じている。また特に1997年、2001年、2008年と内外の強いショックが生じたときに、それらと同時に生じているという特徴が見られる。ただ2002年春から2006年春の「史上最長の景気回復期」とされている時期には、貨幣賃金率の低下はストップしている。とはいえ、この時期にも賃金率の目覚ましい上昇が観察されたわけでは決してない。よく知られているように、この景気回復期は、日本の輸出量・輸出額の対GDP比が顕著に増加した時期でもある。しかし、それでも賃金が引き上げられることはなかった。ただその低下にブレーキがかけられたにすぎない。この時期には消費支出(貨幣額)もきわめて緩慢に拡大しただけであり、決して好景気の局面が現れただけである。定義上も、景気回復とは、二期(3ヶ月×2回)連続してGDPが増加したことを意味するにすぎず、決して好況の時期というわけではない。
 
 この、ほとんど日本でしか見られない貨幣賃金の低下という事情は、どのように説明されるのか?
 安倍首相は、賃金の低下はデフレ(またはデフレ不況)が原因で生じたと発言したようである。この発言は単なる政治家、つまり経済学の素人の発言としては許容されるのかもしれない。しかし、それは経済学的には何も説明していないのも同然である。ほとんどの場合、経済現象は累積的な過程の中で生じており、この場合には、一連の過程は、デフレ(物価水準の低下)→貨幣賃金の低下→消費需要の低迷→デフレ(物価水準の低下)という循環運動の中の動きにすぎないからである。つまり結果が原因となり、原因が結果となる。経済学によくある堂々巡りの議論である。

 この堂々巡りから抜け出す方法がないわけではない。一つは、貨幣数量説の立場であり、デフレ(物価水準の低下)を貨幣数量の減少によって説明しておく方法である。近年流行のリフレ論(インフレを起こせば景気がよくなり、賃金低下もやむという議論)は、この貨幣数量説に立脚することによって成立する。しかし、残念ながら貨幣数量説は成立せず、したがってリフレ論も成立しない。
 貨幣数量説が成立しないという根拠は、現代の銀行システムや貨幣システムを知っていればすぐに理解できる。簡潔に説明しよう。そもそも貨幣量とは、市中銀行が人々に貸し付ける通貨(日銀券および預金通貨の量)のことである(ただしフローとストックを区別しなければならない)。それは基本的に人々の貨幣需要によって決定されるものであり、中央銀行(日銀など)が決定できるものではない。たしかに日銀は、政策金利の変更を通じて、また公開市場操作(日銀と市中銀行の株式等の売買)によって市中銀行への貨幣供給量に影響を与えることができる。しかし、そこまでであり、そこから先は人々の貨幣需要と市中銀行の貸付態度に依存する。
 ケインズは、現代の貨幣的経済(企業家経済)においては貨幣は中立的ではなく、また中央銀行が恣意的に通貨量を決めることができないことを説明し、さらに貨幣需要は商品取引から生まれるだけでなく、資産取引のための需要とも関係しており、貨幣数量説が成立しないことを明らかにしていた。現代の貨幣数量説論者(マネタリスト)がケインズの経済学を煙たがる理由の一つはこの点にある。ケインズ殺し(「ケインズは死んだ」)または「ケインズ主義」批判が行なわれる所以である。しかし、多くの場合、ケインズ経済学の核心部分はほとんど批判されていない。彼らの多くはケインズの『一般理論』(1936年)を理解しておらず、その言説から判断すると、読んでさえいないようである。

 堂々巡りから抜け出すための第二の方法は、この堂々巡りを生み出している制度的なしくみ・基礎(成長・蓄積レジームという)を明らかにすることにある。
 このことを理解するためには、少なくともミクロ・レベルでの企業の価格設定(pricing)の方式、マクロ・レベルの「有効需要」の理論、両者、つまりミクロ・レベル(個々の経済主体の行動)とマクロ・レベル(国民経済全体のパフォーマンス)を繋ぐ「合成の誤謬」の理論設定を理解しなければならない。
 現実の社会経済は、「複雑系」(complex system)であり、ミクロからマクロを説明する一方向的な理解だけでも、またマクロからミクロを説明する一方向的な理解だけでも、不可である。それらは相互依存的な関係にある。仏教哲学的に表現すると、「縁起」(相互依存的生起、depenent-rising)とでも言えようか。もちろん、ここでは仏教哲学を解説しようというわけではない(念のため)。
 
 (1)企業の価格設定
 欧米では早く(最初の調査は、1920年代)から企業が「フルコスト原則」または「マークアップ方式」という価格設定方式」にもとづいて価格を設定していることが知られている。(詳しくは、故・宮崎義一『近代経済学の史的解明』(有斐閣)を参照のこと。)
 この方式は、現在でも欧米の企業によって行なわれていることが一連の調査によって確認されている。詳しくは、ブラインダー(S.Blinder, Asking about Prices, 2006)やファビアーニ(Silvia Fabiani, et al, Pricing Decision in the EURO Area, Oxford Unversity Press, 2007)を参照。
 この方法には様々なバリエーションがあるが、基本的には、製品一単位あたりの費用をあらあら計算し(目の子算を行い)、それに利潤を実現するための一定比率(マークアップ率)をかけるというものである。この比率を企業がどのように得ているのか、という点については、カレツキ(M.Kalecki )の「独占度」の理論があり、また企業は類似の製品を生産する他の企業の価格設定を参照していることが知られているが、さしあたり、この点の説明は省いておこう。ブラインダーやファビアーニの研究は、また企業はひとたび設定した価格を変更することを好まないことを示している。その理由は、価格を引き上げた場合、競争相手に市場(顧客)を奪われるという恐れにあり、価格を引き下げた場合、利潤および利潤率が低下する恐れがあり、いったん引き下げた価格をもとに戻すことがきわめて困難であると想定されることにある。少数の巨大企業が市場シェアーのほとんどを占める寡占的市場が特徴的な現代では、価格は通常最大手のプライス・リーダー(price-leader)によって設定され、他の企業=プライス・テーカー(price-takers)によって受容される傾向が強いことも関係している。
 その際、費用の中で最も本質的で重要な項目が人件費(賃金)であることは言うまでもない。そして、どの国でも労働力の価格、つまり賃金率は硬直的(sticky)であるという特徴を持つ。これに対して、新古典派の(市場均衡の)経済学では、通常、賃金は弾力的とされており、労働の供給曲線は右上がり(つまり賃金率が高いほど、労働供給量=時間は増加する)であり、労働の需要曲線は右下がり(つまり賃金率が低いほど、労働需要量=時間は減少する)である。しかし、これは市場均衡理論を導くために想定された、現実離れした仮定であり、現実には賃金率は硬直的である。
 要するに、現実の世界では、商品価格も賃金率も硬直的である。これが現実の経済の姿である。
 
 それでは日本ではどうであろうか?
 日本では、2000年に、つまりデフレ傾向が現れ、賃金率が低下しはじめてから2、3年後に日銀によって行なわれた調査がある。この調査は、欧米における企業の価格設定行動の調査に連動して日銀が行なったものである(日本銀行調査統計局「日本企業の価格設定行動ー「企業の価格設定行動に関するアンケート調査」結果と若干の分析ー」『日本銀行調査月報』、2000年8月号)。 
 この調査からは、次の二つのことが明らかになる。
 第一に、日本でも欧米と同様に、企業はマークアップによって、また同業他社の価格設定を参考にしながら、価格設定を行なっていることが明らかにされている。これは日本と欧米の企業の価格設定行動の類似性を示すものと言えそうである。
 第二に、しかし、日本企業は、1991年にはじまる平成不況の中で、また1997年にはじまるショックの中で、価格を引き下げる戦略を実施した(過去形)ことが明らかにされている。実際には、日銀の調査報告書は、小渕政権の財政支出拡大策によって可能となった景気回復の中で、2000年頃に企業がなるべく価格引下げをやめたいという意向であることを強調しようとしているが、そのこと自体、1997年以降、企業が価格を引き下げることによってショックに対処してきたことを示している。これは、むしろ欧米の企業とは異なる価格設定行動を示すものと言えそうである。

 しかし、そうだとしたら、日本企業のそのような価格設定は、どのようにして可能となったのであろうか?
 先ほどの説明から明らかように、価格の引下げは、製品一単位あたりの費用が一定である限り、マークアップ率の引下げによってしか実現しない。しかし、その場合には、(あくまでミクロの視点から見る限り)利潤および利潤率は低下することになるだろう。
 そのような利潤の低下を防ぐ手段は、人件費(賃金)の引下げしかない。
 しかるに、かつてケインズが述べたように、労働者は(インフレによる実質賃金の低下は受け入れても)貨幣賃金の引下げには頑強に抵抗する。
 ところが、日本企業にとって、人件費を削減するためのとっておきの手段が存在した。それが日本経済の「二重構造」として昔から日本の労働問題研究者(社会政策学の研究者など)にはよく知られていた制度的特徴である。
 日本には横断的労働市場がない。これが日本の労働問題研究者が一致して認識していた制度的事実である。しばしば日本的労使関係として知られている年功制賃金体系、長期雇用(終身雇用ではない!)、企業内職業訓練(OTJ)などは主に大企業に当てはまるものであり、小企業・零細企業には当てはまらない。また大企業の内部にも、非正規雇用が存在し、それらの従業員の賃金率(時間給)は正規従業員のおよそ5〜6割程度だったにすぎない。二重構造が存在し、それら2つの労働市場が分断されている。これが「二重構造」である。
 しかし、低賃金の非正規雇用は、それが一家の大黒柱の生計を補充する役割を演じていた限りにおいては、大きな社会問題となることはなかった。家計にとって基本的な所得が確保されている限りにおいては、例えば主婦のパート・アルバイトによる所得は、ありがたい所得源だったに違いない。
 しかし、1990年代になると、その様相は決定的に変化しはじめる。日本企業が人件費の削減のために、非正規雇用を利用しはじめたからである。これ以後、低賃金・非正規雇用は以前にもまして大きな問題となりはじめる。

 ここで、次の点を指摘しておくのは、無駄ではないだろう。それは、正規雇用と非正規雇用との間にある賃金率の格差、およびそれがもたらす所得格差の規模である。この点で、無批判的に欧米の労働制度を賛美するわけではないが、東アジア(日本および韓国)における両者間の大きな格差(不平等)に注目しないわけにはいかない。
 
 もちろん、日本の古くからの「二重構造」だけが問題であったというわけではない。グローバル化(輸出競争、生産拠点の海外移転など)が進展するなかで、世界的に賃金の圧縮圧力は強まっており、ILOが派遣労働(agent work)を承認し、日本政府が法認したことを認識しなければならない。しかし、日本の場合、「二重構造」がその傾向を強めたこともまた明らかである。

 (2)合成の誤謬ーー賃金圧縮の影響
 次の問題は、個々の企業による賃金圧縮が社会全体で合成されたとき、それが経済にどのような影響を与えるかである。(以下、続く)
 

消費増税の影響 その2

 2)歴史的見地
 ここでは、まず政府が増税しながら、支出を増やさなかったケース、つまり財政再建を目的とする緊縮財政(austerity)政策を実施した場合を紹介することから始めることとする。その最もよく知られているケースの一つは、1979年5月に政権についた英国でサッチャー首相(当時)によって始められた緊縮財政・マネタリズム政策であり、いま一つのケースは、1997年に日本の橋本首相(当時)によって実施された財政構造改革である。いずれの場合も、その結果は、かなり深刻な景気後退であった。

 1 サッチャー首相の緊縮財政・マネタリズム政策
 サッチャー氏(今年物故した英国の元首相)の経済政策の実態は、イギリスの経済学者N・カルドア氏(原正彦・高川清明訳『マネタリズム その罪過』日本経済評論社、1984年)がよく分析している。ここでは、まず同氏の『世界経済における成長と停滞の諸原因』(Causes of Growth and Stagnation in the World Economy, 1996)から、サッチャー氏の経済政策の帰結を紹介しておこう。
  その際、1970年代に二度の石油危機(1973年と1979年)が生じていたことを確認し、また1979年の第二次石油危機の影響とサッチャー氏の経済政策の帰結を区別しておくこととしよう。
 1970年代の石油危機が激しいインフレ(物価上昇)と深刻な景気後退の同時発生をもたらしたことは、周知の事実である。それは次のように要約される。


 「・・・石油価格の激しい上昇の正味の影響は、実質的には激しいデフレを押し付けることであった。それは、需要の増加をもたらさずに、世界の消費者の実質的な可処分所 得を4パーセントもカットするのに相当するものであった。それは、すべての消費国が 突然公共支出をまったく増やさずに巨額な追加課税を行なったような効果をもたらした。国際収支上では、OPEC加盟国は、19741980年に累積的に3500億ドルの経常収支  黒字を計上した。そのピークは1979年の第二次石油危機後の1980年に1100億ドルに到達したが(1974年の2倍以上)、その後、アラブ諸国の対外収支が急激に減少したため、経常収支の黒字は急速に減少し、1983年には300億ドルのマイナスとなった。しかし、197477年および197980年には、OPECの黒字は、その他の世界に対して需要不足と国際収支上の制約を課した。」

 つまり、輸入されたインフレ、OPEC諸国(原油輸出国)への巨額のオイルマネーの移転に起因する原油輸入国の総需要の激しい縮小(実質的な激しいデフレ)の同時発生が1970年代を特徴づけていたのである。
 ところが、マネタリスト(一種の貨幣数量説論者)の元祖、ミルトン・フリードマンは、インフレは政府と金融当局の政策による過度の貨幣発行にあるという。これが間違っていることは、私の学生でも理解できる。「彼は馬鹿ではないか、何故、石油危機に原因があることが分からないのだろうか?」というわけである。

 しかし、1980年から石油危機とは明らかに異質な景気後退の波がイギリスから始まっていた。しかも、このフリードマンの教義にそって行なわれた経済政策のためにである。

  「1980年から新しい景気後退の波が押し寄せ、それは以前の景気後退とは対照的に、概ね西欧諸国に、また特にEC(EUの前身)加盟国に限定されていた。この新しい景気後退 について、私は、イギリスに、つまりほぼ同じ頃時流に乗ってあらわれた北海油田とサ ッチャー氏に責任があると考えている。・・・サッチャー氏の「マネタリスト」政府の デフレ政策は、総額でGDP6パーセントの実質国内需要の低下(1979年のプラス3パー セントから1980年のマイナス3パーセントまで)を、さらに1981年には2.5パーセントの低 下をもたらし、登録失業者数を200万人も増やした。」


 ちなみにサッチャー氏の行ったような経済政策を実施すれば、景気が悪化することは私のゼミの学生でも理解できる。総有効需要が低下すると予想されるからである。そこで彼らは質問する。「どうしてそのような理不尽な政策を実施したのでしょうか?」と。
 これに回答するためには、経済学理論上は、新古典派理論・マネタリズムが「セイ法則」(供給はそれ自らの需要を作り出す」とか、「貨幣の中立性」命題とか、およぼ現実離れした仮定に立脚していることや、彼らがそれを本当に信じているらしいことを理解しなければならないが、これについては、すでに本ブログでも触れたことがあり、また後で必要な限りで触れる予定なので、ここでは省略しておこう。ただ結論だけ言えば、サッチャー氏などの政治家が「無知」だったということになる。

 さて、一体、GDPの6パーセントンに相当するような実質国内需要の低下をもたらす政策とはどのようなものであったのだろうか?
  サッチャー氏は1979年に政権についたとき、米国の連邦準備制度と同様に、インフレを抑えるためにマネーサプライを規制するという「マネタリストの綱領」を正式に採用した。しかし、イギリスの制度の現状では、イングランド銀行は、マネーサプライを直接に規制することはもちろん、法定銀行準備の大きさやマネタリー・ベースを固定することもできなかった。総じて中央銀行が出来ることは金利を適宜上下に変動させることによって貨幣需要に影響を与えることに過ぎない。そこで、彼女らは、マネーサプライ(M3)の増加について四カ年の漸減目標(初年度の7〜11%から最終年度の4〜8%まで)を設定した。そして、彼女らは公共部門赤字がマネーサプライ増加の主要因であるという確信にもとづいて、それを着実に減少させようとした。また適宜に短期金利を引き上げるという金融政策をそれに混ぜ合わせた。
 しかし、その計画は破滅的な失敗を経験した。マネーサプライの増加は最初から目標範囲を超過し、第二会計年度には22%という前例のない率で増加した。しかも、公共部門の赤字の削減も彼女らの公表した目的を達成することはできなかった。公共支出の削減と租税負担の激しい増加がはかられたにもかかわらずである。
 その理由は明白である(カルドア、1984年)。サッチャー氏は、「深刻な経済後退ーー他のいかなる西側工業国が経験したよりもはるかに深刻な後退ーーを創り出すことに成功した。」とりわけ製造業の受けた打撃は深刻であり、その産出高は1980年に13.5%も低下した。ポンド(£、英通貨)の実質実効為替相場は急上昇し、それは英国の競争力を40%ほど低下させた。
 確かにインフレ率は低下してきたが、その「功績」はマネタリズム(貨幣数量説)の妥当性を示すものでは決してない。実際には、インフレ率の低下は、失業者が120万人から320万人へと8パーセントも増加し、その結果、労働組合の力を非常に弱め、賃金上昇率が低下したためである。それは景気後退に伴う大量失業の結果であり、決してマネタリズムの妥当性を示すものではなかった。繰り返そう。マネーサプライが22%という前例のないペースで増加したときにインフレ率が低下したのである。それはマネタリズム(貨幣数量説)が誤りであることを示している。(ここでは詳しく述べないが、マネタリズムの実験の失敗は、1979年〜1981年の米国におけるFedの実験(金融引締め政策)からも明らかとなっている。なお、マネタリズムの誤りについては、別の機会に検討することとしよう。)
 
 1979年から始められたイギリス(サッチャー政権)のマネタリズム政策の失敗、それは、公共支出の削減と租税負担の激しい増加の組み合わせによる公共部門赤字の削減策(緊縮財政政策)の壮大な失敗を示すものでもあった。
 その理由はきわめて簡単に示すことができる。それは、一方で租税負担の激しい増加で人々の購買力を奪いながら、他方では公共支出の削減によって一国の総需要を大幅に削減し、景気後退をもたらした英国政府の経済政策にあったのである。
 論より証拠。下の図を見ればここで示したことが確認できるだろう。

 表1 政府の緊縮政策(財政支出の縮小)に起因する有効需要の低下
 表2 失業者の大幅な増加
  これが賃金圧縮と、その後の低賃金労働の拡大、所得格差拡大の要因となる。
 表3 マネタリズムの政策を実施したとたんに、それが依拠していた<貨幣供給量の増加率とインフレーションとの相関>も失われた。
 



 









 

消費増税の影響 その1

 消費税の5%から8%への増税の実施をめぐって政府内でも実施論・慎重論などが飛び交っている。それが日本経済にどのような影響を与えるのか、もちろんそれは大問題であり、結果次第では安倍内閣の支持率があっという間に暴落する可能性も高い。
 ここでは、理論的および歴史的な見地から問題を簡潔にみておこう。
 1)理論的見地
 まず3%が量的にどれほどになるかをみておこう。国民経済計算によると、2012年度の消費需要は384兆円ほどであるから、いま仮にその数字をもとに推論し、その全体に消費税がかかると考えると、11.5兆円ほどの増税となる。GDPは473兆円ほどだから、それはGDPのおよそ2.4%に相当する。
 これほどの増税が経済に与える影響をみるために次の点を考えなければならない。
 1 まず考えなければならないのは、GDPの2.4%にあたる金額(11.5兆円)が人々(個人部門、家計部門)から政府に移転することである。形式論理的に考えれば、それは人々から同額の可処分所得を、したがってまた購買力を奪うことを意味する。
 2 一方、政府の方は同額の租税収入(歳入)を増やすことになる。つまり政府は11.5兆円だけ購買力を増やし、人々から奪われた購買力を補うことになる。したがって、日本社会全体の購買力全体には増税による変化は生じないことになる。
  人々の購買力 マイナス 11.5兆円
  政府の購買力 プラス  11.5兆円
   合計       ゼロ
 3 しかし、経済に与える影響を考えるためには、有効需要の変化を、この場合には日本全体における消費支出の変化を考えなければならない。 
 まず人々の消費支出であるが、その他の条件が同じならば(ceteris paribus)、人々の購買力が減少するのであるから、消費支出も減少する可能性がきわめて高い。それは消費財に対する有効需要を低下させるだろう。それが景気を悪化させるかどうかは、政府の態度如何による。
 そこで政府の態度であるが、それはもちろん経済政策次第である。もし政府が消費支出をまったく増やさないならば、政府の側から発する有効需要は増加しない。この場合には、日本全体の消費支出は大幅に減少する危険性が高い。その結果は、相当な景気後退=不況である。
 しかし、例えば政府が11.5兆円分の支出増を行なうならば、それは人々の消費支出の減少を補いことになるであろう。そこで、この場合には、消費税の増税は全体として有効需要の低下を招かないと想定される。
 4 このように消費税の増税が経済に与える影響を評価するためには、増税だけでなく、政府の政策・態度を議論しなければならない。しかし、政府からもマスコミからもそれについては確実な情報は発せられない。
 しばしば聞こえてくるのは、政府の巨額の負債を減らすべきであるという財政再建派の議論である。しかし、もしそうであれば、消費増税は支出を増やすためではなく、政府の借金を返済する(つまりマクロ経済学的には、貯蓄する)ということであり、支出を増やすということではない。そこで、われわれは相当の景気後退を覚悟しなければならない。
 5 もちろん、上で述べたことは、かなり確率が高いとはいえ、一つの可能性でしかない。現実の経済社会では、人々は「期待」にもとづいて行動する。もし人々が将来について楽観的な期待を抱いておれば(例えばアベノミックスなるものに幻想をいだいている等々)、人々の消費支出は減少せず、また企業の投資も減少しないかもしれない。この場合には、人々の可処分所得もあまり低下しない可能性があり、場合によっては増えるかもしれない。人々は、貯蓄を切り崩してでも消費を続けるだろう。
 しかし、もし人々が将来に対して悲観的な期待を抱けば、結果は悲惨である。人々の消費支出は減少し、企業も投資を減らす。日本全体の総需要は低下し、深刻な景気後退が生じ、もしかすると財政収入も増加するどころか、低下するかもしれない。
 繰り返すがすべては「期待」に依る。
 抽象理論が言えることはここまでである。そこから先は、どのような「期待」が予想されるのか、「期待」を生み出す日本社会の現在の状態をどのように見るかによる。
 そこで、次に歴史的な事情に触れておくことにしよう。(続く)