2017年1月31日火曜日

トランプの大統領令乱発について

 トランプ米国大統領が違憲の大統領令を乱発している。

 かつてロシアのエリツィン大統領が同じように大統領令を乱発し、ロシアの国有企業を民営化(私有化)したことがある。その結果、国民の共有財産たる多くの大企業が一握りのオリガーキー(財閥)に二足三文で、いやただ同然で売り渡されることとなり、後に「私有化」(privatizatiia)ではなく、「掠奪」(prikhivatizatsiia)だと非難されることとなった。この大統領令は、当時のロシアの法令に違反するものであることがロシア国内で議論されたことがある。
 それはまた革命前の帝政ロシアの皇帝=ツァーリが乱発した勅令(ukaz)に、しかも自らが制定した「国家基本法」にさえ違反する勅令に例えられたこともある。

 法とは、諸個人の自由と権利を、したがって社会を権力者の「恣意」からまもる普遍的な正義(justice)に他ならず、権力を持つ人々=政治家を縛る原理でもある。選挙で選ばれれば、何をしてもよいというものではない。 これは外国の問題というだけではない。日本の政治にもあてはまる。わが国の安倍首相が9条に違反する安保法制(日本の参戦を可能にした法律であり、本質的に戦争法である)を強行したことを、つまりわが国には意見の法律があることを忘れてはならない。

 

今朝の東京新聞より アベノミクスの目玉(第一の矢)の破綻をブレーンが認め、瞞着財政主義へ転換か?

 今朝の東京新聞にアベノミクスのブレーンの一人、浜田宏一氏のインタビュー記事が載っている。

 私に言わせてもらえば、浜田氏の話していることはかなりいい加減だが、それでもマスコミの絶賛で始まった「アベノミクス」が効を奏せず、失敗に終わったことは、はっきりと示している。本人も(また浜田氏以上に、それにのせられた黒田日銀総裁も)本当は困っており、黒田氏などは暗い表情になっているとの情報もある。

 さて、浜田氏のインタビューのどこがいい加減か?
 そもそも浜田氏だけでなく、岩田規久男氏、黒田氏などの「リフレ論者」(この言葉使いも本当は間違っているが)は、異次元の金融緩和が貨幣ストックを増やし、物価を2%ほど上げ、その効果によって、あるいは政府・日銀が景気回復に本気になって取り組むから、国民もそれをくみ取って景気が大幅に回復するはずだという、その「期待」によって、「デフレ不況」なるものから必ず回復すると主張していたはずである。
 ところが、インタビューでは、金融緩和がしだいに効かなくなってきたとして、為替相場の問題(円安から円高への転換)を要因としてあげている。
 しかし、金融緩和のターゲットは、そもそも為替相場を円安・外国通貨高に導くことにあったのだろうか? それなら最初から円高を是正すると言えばいいだけの話である。
 それに円安・ドル高になったときも、それは確かに一部輸出部門の輸出量を増加させたかもしれないが、他方では、輸入物価の大幅な上昇を招き、庶民のふところを直撃した。これは1970年代の石油危機の時に(より激烈な形だが)経験したことである。それに本来2パーセントの消費者物価がターゲットならば、庶民にとって最も重要な賃金所得もそれ以上に増えてしかるべきだが、それもなく、実質賃金が低下したことは説明するまでもないだろう。このような実質賃金の低下などは、リーマンショック時を除けば、安倍首相が「デフレ不況」と位置づけていた時期にさえ、なかったことである。
  また貨幣ストックの増加によって何時まで、どこまで円安誘導を続ける気だったのだろうか? そもそも金融緩和策が実施される以前から日本の貿易収支は、アメリカ合衆国に対してはプラス(黒字)だった。ここで経済学のイロハを論じるつもりはないが、もし貿易収支が赤字だったならば、為替相場が貿易収支の均衡をもたらさない点にあるから、是正するべきだという議論が出てくのは理解できよう。
 ちょうど今トランプ米大統領が日米貿易不均衡問題に言及し、日本の黒字・米国の赤字やそれをもたらしてる円安・ドル高を指摘している。トランプ氏の発言には様々な問題があるものの、この点は理解できないわけではない。

 次に移ろう。浜田氏は、金融緩和の効果が薄れたから、財政支出が必要だという主張する。これを氏は、米国の経済学者クリストファー・シムズ教授の財政理論に影響を受けたという。それによれば、<国民に当面(どれくらい?)増税はないと思わせておいて、財政支出を拡大すれば、国民は消費を拡大し、デフレから脱却できる>ということらしい。
 従来、マネタリスト(例えばフリードマン)や新古典派(合理的期待の理論)の財政理論では、人は完全な情報処理能力を持っているので、財政支出の拡大をしても、将来の増税を「期待」(予想)して消費支出を増やすことはないとしてきた。これは通俗的な、いわゆる「ケインズ政策」の否定である。ところが、シムズ氏は、どうやらマネタリストや合理的期待の理論を否定しているらしい。それはそれで新しい「理論展開」(といえるかどうかは分からないが)の如くである。金融政策ではマネタリズムの理論の一部を用い、財政理論ではそれに対立する理論を用いるなど、まったく無節操で、忙しいことだ。

 それはさて、当面は増税しないとしても、結局、いつかは増税するのだろうから、これは人々を一定期間瞞着しようという主張にも聞こえる。いやそうに違いない。日本の戦時中の「皇道経済学」が「天皇陛下に帰一し奉る心があれば、物価の安定を乱すことはない」(伊東光晴『アベノミクス批判』岩波書店より)と説いたように、この浜田流「シムズ経済学」は、どれほど財政赤字が増え、政府債務が累積しようと、安倍政権の経済成長を信じてより多くのお金を消費財の購入のために支出すれば、経済はきっと成長する、と説いているようだ。両者には、極度の精神主義という点で共通する。
 
  しかしながら、問題は、人々が様々な期待を持つことであり、かつ「アベノミクス」を心から信じている人がほとんどいないだろうということである。たしかに、ちょうど政府支出分の有効需要は生まれるかもしれない。また一部の人は消費を増やすかもしれないが、ほとんどの人々は消費を拡大しようとはしないであろう。戦時中には、政府・軍部を批判する人、それに従わないは「非国民」と非難された。現在、政府の意をくんで消費を増やさなくてもあからさまに「非国民」と非難されることはないであろうが、悪いのは、政府の「善き」意図をくみ取ることのできない、国民の方だといわれることになるかもしれない。こんなことを書く私などは政府から見ると、経済成長を妨害する悪人ということになることだろう。

 だが、現在の世界、日本の経済をおそっている病の正体は何なのだろうか?  
 この点を明らかにせずに、本当の処方箋は書けないはずであるが、残念ながら安倍首相(アベノミクス)には、まさにこの点についての分析が欠如している。だから、結局、処方箋も対処療法的にとどまり、効き目のない処方が行われることになる、というしかない。


東京新聞、2017年1月31日(1~2面)


2017年1月23日月曜日

ロバート・B・ライシュ『最後の資本主義』を読む

 最近、頭痛がひどくほとんど何もすることがでなかったが、昨日から少し回復し、雑誌 Facta を読み、今日は本屋でロバート・B・ライシュの『最後の資本主義』(東洋経済新報社)を立ち読みしてきた。
 本書の日本語タイトル「最後の資本主義」というのは、ちょっと見ただけでは、どういう意味かよく分からないが、英文タイトルの方はよく理解できる。

 Saving Capitalism: For the Many, Not the Few
  (資本主義を守る。少数者ではなく、多数者のために)

 現在のグローバル自由資本主義は、----ご存じの----あの少数者(the Few)のために機能しており、----これもご存じのはずですが----あの多数者(the Many)から富を収奪し、少数者に移転している。もちろん著者が守ろうとしているのは、このような資本主義ではなく、反対に多数者に平等に富を分かち合う経済システムに他ならない。つまり現在のグローバル自由資本主義は、結局のところ、多数派を反資本主義陣営に追いやり、その意味で資本主義を破壊してしまうことになるのではないか。これがライシュの意見の根本にある考えであり、これはすでに1950年代にあの偉大な、伝説的な米国の経済学者、ジョン・ガルブレイスの説いたところでもあった。

 ガルブレイスは、次のように述べていた。皮肉にも資本主義のもっとも熱心な擁護者が実際には資本主義を破壊するようなことを行っている、と。すなわち、この擁護者らは、一握りの少数者のために多数者からの富の移転を実現し、あくなき利得を追求するグローバル金融資本主義、掠奪資本主義(predatory capitalism)を生み出すような方策を追求し、結局、資本主義に本能的な反感を懐き、それに対立する多くの人々を生み出すことなる、というわけである。

 もちろん、もし資本主義という言葉を、例えばK・マルクスが『資本論』で用いた意味、つまり「資本主義的生産様式」(capitalist mode of production)、あるいは同じことだが、J・M・ケインズの「企業者経済」という意味で用いるならが、資本主義経済に代わる経済体制を生み出すことは、少なくとも短期的・中期的にはほぼありえないだろう。人々を雇用し、何かを生産し、提供する企業体制に代わるものが簡単に現れるとは想像しえない。あのソ連や中国の計画経済の時代の経済体制でさえ、企業によって支えられていたのであり、企業なしには存立しえなかった。

 しかし、同じ企業システムであっても、実際には様々な「体制」(regimes)が存在しうることは、経済史の示すところでもある。
 ふたたびガルブレイスに戻ると、彼は、20世紀中葉までの資本主義経済を支える「市場」において実際には人々が自由・平等な関係にはないことを強く意識していた。むしろ市場においては、多くの貨幣を所有する人々が絶大な力(power)を有しており、大衆に対峙していることを知っていた。この点では、彼は市場の自由・平等・公正を説く新古典派とは鋭く対立していた。彼の師匠となっていたのは、むしろK・マルクスであり、またT・ヴェブレン(「営利企業」「不在所有権と営利企業」など)であった。ガルブレイスの師はヴェブレンであり、特にヴェブレンの「不在所有権と営利企業」が彼に大きな影響を与えていたことは、本ブログでも後日紹介したい。
 
 ところで、このような中で、資本主義が多数者のために機能しうるためには、何が必要となるであろうか? この問に対してガルブレイスは、「対抗力」(あるいは「拮抗力」)=countervailing power に回答を求めた。このような対抗力(拮抗力)は、制度的なものであり、ここでは詳しく論じることのできないような様々な形で実現されるしかない。それには選挙(多数派の利益を守るグループへの投票、立法(労働保護立法など)、市民運動などが含まれるが、それよりも大事なことは、多数者がまずこのことを理解することであろう。

 さて、ライシュの著書も、結局は、この対抗力(本書では、「拮抗勢力」と訳されている)を多数者が得ることが「資本主義」を守ることになるというガルブレイスの結論につながっている。
 
 最後に予言的なことを一つ付け加えておこう。米国大統領選挙におけるトランプの勝利が上で述べた文脈の中で生まれたことは疑いなく、トランプ支持層の中に現在の資本主義のありかたに反感・不満をいだく人々が多数いたことも間違いないであろう。しかし、トランプ大統領がこれら支持者の期待するような政策を実施するかはまったく疑問である。むしろそうはならないであろう。
 なぜか?